小右衛門一里塚。権現堂調整池。・・・(「日光道中」をゆく。その20。)
「追分」を過ぎると、左には青々ととした田圃が広がります。田植えを終えたばかりで、眼にもあざやかな緑が水面に。 (10:30)右手の奥まったところには「吉羽屋酒店」。古風な佇まい。 かつてよく見かけた集落内の万屋さん的雰囲気。 東武線の特急電車。 普通電車。...
View Article会津見送り稲荷。焙烙地蔵。栗橋宿。栗橋関所。利根川。・・・(「日光道中」をゆく。その21。)
しばらく進むと、「会津見送り地蔵」「焙烙地蔵」の道標があります。 右手の民家の庭先には「会津見送り稲荷」があります。 久喜市指定文化財 会津見送り稲荷 昭和53年3月29日指定 江戸時代、徳川幕府が参勤交代制をとっていたころ、会津藩の武士が藩主江戸参向に先立ち、先遣隊として江戸へ書面を届けるため...
View Article利根川橋。中田関所。中田宿。中田の松林。・・・(「日光道中」をゆく。その22。)
いよいよ「利根川橋」を渡ります。大きな川は「利根川」と「荒川(明治から大正にかけて開削された人工河川)」、「隅田川」くらい。「東海道」のように、「大井川」「天竜川」「安倍川」「富士川」などのような大河はありません。それでも、さすが「利根川」=「坂東太郎」です。延々と東に向かい、銚子で太平洋に注ぎます。...
View Article原町一里塚。古河宿。常夜燈。・・・(「日光道中」をゆく。その23。)
さて、小休止して、一路、「古河宿」へ向けて出発です。しばらく進むと、松並木もおしまい。振り返って望む。 右手の畑越しには、JRの線路。ちょうど貨物列車が通過中。 この辺りも「カサリーン台風」では大きな被害を受けています。赤いテープが剥がれかかっています。よく見ると、表示は2m以上。 道が少し狭くなり、植樹の種類が異なってきました。 「カラオケ喫茶 昭和」。中から昔懐かしい演歌の歌声が。...
View Article御茶屋口。御馳走番所。肴町。坂長。・・・(「日光道中」をゆく。その24。)
(14:05)いよいよ「古河宿」の中心部へ。車の通りも少なく、落ち着いた街並みです。 道の左右にはこうした「行燈」のようなモニュメントがあって、名所・旧跡を案内、解説してくれます。 古河公方 足利成氏...
View Article古河公方。「万葉集」東歌歌碑。大正館。・・・(「日光道中」をゆく。その25。)
マスコットガール? 「古河公方氏姫『桃香』のまちづくり」。 8万石の城下町です。「古河八萬石最中」。 小説家の永井路子さんの生家があるようです。 雪の殿様 古河藩主、土居利位(1789~1848)は、雪の結晶を20年にわたり観察、わが国最初の雪の自然科学書『雪華図説』を著作・発行した。...
View ArticleJR古河駅から小金井駅まで。本陣跡。高札場。松並。・・・(「日光道中」をゆく。その26。)
5月4日(土)。晴れ後薄曇り。 7月までに何とか「日光道中」を制覇しようと思い、しゃかりに出かけています。ただ梅雨入り。そうタイミングよく出かけられるか? 今回は、古河宿から小金井宿までの行程。約4万歩歩きました。距離はそれほどではありませんでしたが。 (8:53)古河駅から日光道中に復帰して、まず「史蹟 古河城下高札場址」碑。 高札場と本陣...
View Article野木宿。野木一里塚跡。野木宿道標。・・・(「日光道中」をゆく。その27。)
日光道中 野木宿周辺の松並木 日光道中今市宿を合流点に、日光道中、例幣使道、会津南山通り(西街道)の両側には杉並木が植えられている。この杉並木は、武蔵国川越城主の松平正綱が、寛永2~3年(1625~6)から約20年の歳月をかけて植えつけ、杉並木を寄進したものである。...
View Article松原。思川。栗の花。芭蕉句碑。・・・(「日光道中」をゆく。その28。)
栃木への道を分ける道標を過ぎると、広い歩道もなくなり、「国道4号線」も田園風景の中を進む道路となります。 (9:58)左手に観音堂。「十九夜塔」など。 「佐野ラーメン 中村屋」。辺りが開けてきます。 「(東京から)65.8㎞」ポストも歩道のところに立っています。 (10:08)それでもれっきとした「国道4号線」です。 かつてはこの付近も松並木が続いていました。...
View Articleいったい何が見えてきたのか? そして何が見えなくなったのか?
「当然」「自民に責任」=与野党、都知事選へ対応急ぐ―舛添氏辞職 すべて舛添個人の問題に矮小化され、マスコミこぞって煽ったあげく、都民・国民の溜飲を下げさせて、オシマイ。結局、うやむやのままに関心は参院選に移っていく。事の本質はそっちのけ。...
View Article小山市。乙女一里塚。「間々田宿」問屋場、本陣跡。・・・(「日光道中」をゆく。その29。)
(11:03)しばらく進むと、「小山市」に。 「馬頭観音」。この付近には多く見る石碑。 (11:09)左手に日本橋から18里目にあたる「乙女一里塚」? 振り返って望む。 この付近の地名は「乙女」。 ・『乙女の里物語』...
View Article千駄塚。「若盛」。小山宿。脇本陣跡。・・・(「日光道中」をゆく。その30。)
400年前から続く、奇祭「蛇まつり(間々田のジャガマイタ)で知られる「間々田八幡宮」を過ぎ、 さらに「千駄塚」案内碑を脇目に進みます。 「千駄塚」はかつての古墳。 この古墳は、墳頂の平坦部に浅間神社を祀っているので、別名浅間山古墳とも呼ばれている大形の円墳である。...
View Article小山ゆうえんち。喜沢一里塚。(「日光道中」をゆく。その31。)
再開。駅前から約20分。「両毛線」の踏切を越えて進みます。この付近、本来の日光道中はもう少し西側を進んでいました。 1880年代のようす。→の部分。ほぼ廃道の状態。 (15:07)「第一奥州街道踏切」。 しばらく進んで振り返ると、ちょうど電車が通過中。 (15:16)右手の角に「日本料理 丸治」。 この交差点を左に行くと、何となく今でもCMを口ずさめる「小山ゆうえんち」跡。...
View Article新田宿本陣。「おや、まあ♪ おじさん合唱団」。小金井駅。・・・(「日光道中」をゆく。その32。)
「新田宿」に入ると、沿道のおうちには、かつての屋号が掲示されています。ただし、当時の道幅より広く整備されていますので、その位置にあったかどうかは定かではありません。しかし、宿場町であったことをこういう形で残しているのはいいことだと思います。 「奥州道中大町新田宿 下の和泉屋」。 「板戸屋」。 「栃木屋」。...
View ArticleJR小金井駅から宇都宮駅まで。小金井一里塚。小金井宿。・・・(「日光道中」をゆく。その33。)
6月18日(土)。快晴。またまた「日光道中」の旅。が、炎天下の歩きで、宇都宮まで行く予定が挫折。暑かった! 翌日、再チャレンジ。曇りがちの天気で、前の日よりは歩きやすい。が、夕方から人が来るという連絡が入り、これまた途中で引き返すことに。 どうもついていない「歩き」です。が、家を7時過ぎに出ても、往復が可能。泊まらずに行ける範囲。東武線とJR線の併用で何とか。...
View Article下野市役所。「丸大食品」。・・・(「日光道中」をゆく。その34。)
西側の視界が広がってきます。田んぼ、畑、森、・・・。 (10:14)しばらく進んで、国道から左に折れる道が旧道。 現国道の西側を一直線に伸びています。 1880年代のようす。沼地がある。 現在のようす。但し、下野市役所はまだない。 左に折れたら、右のあぜ道のようなところを進みます。本来はもっと手前で国道から分かれていたようです。...
View Article石橋宿。グリムの里。・・・(「日光道中」をゆく。その35。)
国道352号線の立体交差を進むと、「石橋宿」へ。 石橋宿 日本橋から15番目の宿場。 元は上石橋村、下石橋村、上大領村、中大領村、下大領村、前原村の6か村が1村となり、当時天領とされていたため内裏領村と呼ばれていた。時期は不詳だが内裏領村が宿駅となり石橋宿となった。...
View Article雀宮宿本陣、脇本陣。鐵道院。・・・(「日光道中」をゆく。その36。)
右手に「鞘堂地蔵尊」。 鞘堂地蔵尊の由来 寛政6年(1794)に書かれ、天保14年(1843)に発行された紀行文によれば室町時、足利義満が将軍の時代には将軍と将軍の争うことが多く、この地方でも小山と宇都宮の合戦が発生し、戦争の中心地となった所です。茂原合戦ともいわれています。...
View Article雀宮駅から宇都宮駅まで。「雀宮」。「一里」。国道4号線。・・・(「日光道中」をゆく。その37。)
さて性懲りもなく翌日。曇り、時々晴れ。昨日よりは歩きやすい感じ。(9:30)雀宮駅に降り立ちます。この下り線ホームにも「鐵道院」の鋳物製の鉄柱があります。そこには解説板も。 雀宮駅旧跨(こ)線橋の柱について...
View Article新旧の追分。宇都宮宿。蒲生君平。・・・(「日光道中」をゆく。その38。)
左の道(日光街道)を進みます。道幅は広いですが、先ほどに比べて車の交通量もぐっと少なくなります。 「国道119号線」を「東京街道」と表示。 振り返って望む。 「宇都宮宿」に向かって進みます。 JR日光線。...
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