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Channel: おやじのつぶやき
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小山市。乙女一里塚。「間々田宿」問屋場、本陣跡。・・・(「日光道中」をゆく。その29。)

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  (11:03)しばらく進むと、「小山市」に。

「馬頭観音」。この付近には多く見る石碑。

(11:09)左手に日本橋から18里目にあたる「乙女一里塚」? 

    振り返って望む。 

この付近の地名は「乙女」。

・『乙女の里物語』 pp.21~22に、乙女の由来の記述があった。明治44年(1911)、間々田尋常高等小学校長宮崎伊八郎により編纂された『間々田村郷土誌』によれば「乙女ハ古来、御止ト書キシナリ。其後、音女ト書キタルコトアリ。更ニ其ノ後ニ至リ乙女ト改メ称シタリ」とある。また、同書p.22には、「乙女」が記録されている最も古い文書といわれる元徳4年(1332)の土地台帳(金沢文庫所蔵、『乙女郷年貢帳』には「乙女郷」と記されており、鎌倉時代には地名「乙女」があったことがわかる。
・『とちぎの地名』 p.50に地名の由来に関する記述があった。オトメ(乙女)のオトは、崖・傾斜地を意味する。メ(目)は二つの物の接点・境目の意である。乙女は思川に臨む崖縁(台地箸部)に由来する地名と思われる。

(以上、HPより)



1880年代のようす。松並木が続いています。

またしても「馬頭観音」碑。

「東京から70㎞」ポスト。    振り返って望む。

(11:30)「佛光寺」付近から振り返る。

 そろそろお腹が空いてきます。「間々田駅」入口交差点、左手の角にお蕎麦屋「小川庵」。

お店を出てパチリ!

(12:09)表示も「宇都宮36㎞ 那須高原92㎞ 福島202㎞」

右手に「車屋美術館」。古民家と蔵。

           
                      「小川家住宅」。堂々たるおうち。国の登録有形文化財。
 小川家の屋号が「車屋」だったそうです。
 平成19年に国の登録有形文化財に登録された小川家住宅の米蔵を、本格的な美術展示室として改装するとともに、主屋(おもや)・庭園なども一般公開し、平成21年4月に開館しました。
 
「乙女発動機」。言い得て妙なネーミング。

 その先に「日光道中」の中間地点に植えた榎があり、「逢いの榎」の碑があるはずです。大きな榎が立っているばかりと思い込み、前方を見ると、右手に大きな木々が立つ一画があります。

そこだと思って近づくと「琴平神社」。

 ここではありません。「神社」と通りをはさんで斜め前にある「佐山酒店」の幟でガマン。

 ↓が「逢いの榎」碑があるところ。残念! 見逃しました。

 現在、「逢いの榎」碑はこうなっているようですが。

HPより拝借)。

 「間々田宿」は江戸および日光からそれぞれ11番目の宿場にあたり、距離も18里という中間地点に位置していたので、「間の宿」と呼ばれていました。「間々田宿」の入口にあった榎は「間(あい)の榎」と呼ばれ、いつの頃からか「逢いの榎」と呼ばれるようになりました。
 「旧東海道」では「袋井宿」がど真ん中。「ど真ん中茶屋」とか「ど真ん中小学校」がありました。

右手には「下野風土菓 乙女屋」。

 乙女屋の代表銘菓=かんぴょう物語「るかんた」。 
                                                                (「乙女屋」HPより)

蔵造りの古いおうちも残っています。



間々田宿問屋場跡
 間々田宿は、江戸時代に、五街道の一つ、日光街道(道中)の宿駅として栄えていました。江戸日本橋から11番目の宿駅(宿場)であり、江戸と日光の丁度中間に位置していました。
 天保14年(1843)の記録によると当宿は
 石高 944    家数 175軒
 人口 947人   旅籠 50軒 本陣 1 脇本陣 1
と記されており、幕府の定めにより、常備の人足25人、馬25疋を備え、幕府の公用に応じたり、一般の輸送も引受けていました。日光社参・参勤交代など特別の場合は、近隣の農村から助郷と称して、人馬を臨時に集めました。
 それらの人馬継立業務の一切を取扱うのが宿役人で、問屋・年寄・帳付・馬差・人足差などと呼ばれ、その詰所に当たる場所が問屋場です。ここ間々田宿の上中町の上原家が、名主職を兼ね、代々世襲で幕末まで問屋を勤めていました。

    間々田商工会 小山歴史研究会


 11番目ということは、「東海道」では「三島宿」にあたります。やっと箱根峠を越えたところ。「日光道中」はそうした峠道もなく、ここで行程の半分になりました。

振り返って望む。

      「東京から72㎞」ポスト。



間々田宿本陣跡
 本陣は江戸時代に主な街道に設けられた宿泊施設で、本来は幕府公用の大名・勅使・公家・門跡(僧)上級武士の便をはかるためのものでした。大名などが宿泊休けいする時は宿場や本陣の入口に「関札」を掲げ、誰が宿泊休けいしているか知らせました。また本陣には定紋入りの提灯を掲げ、門や玄関には幕を張りました。
 本陣主人は名字帯刀を許され、他の宿役人と共に、大名などを宿の入口まで出迎えました。江戸時代の初めから江戸時代を通して青木家が代々、この地で本陣を維持し、明治の世となって明治天皇が休けいの一時を過ごされました。

    間々田商工会 小山歴史研究会

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