再開。駅前から約20分。「両毛線」の踏切を越えて進みます。この付近、本来の日光道中はもう少し西側を進んでいました。
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1880年代のようす。→の部分。ほぼ廃道の状態。
(15:07)「第一奥州街道踏切」。
しばらく進んで振り返ると、ちょうど電車が通過中。![]()
(15:16)右手の角に「日本料理 丸治」。
この交差点を左に行くと、何となく今でもCMを口ずさめる「小山ゆうえんち」跡。
「小山ゆうえんち」は、1960年4月に開園し、2005年3月閉園しました。閉園後、園内遊戯施設は解体されて更地となり、2007年に、大型商業施設「おやまゆうえんハーヴェストウォーク」として全面開業しました。オープンモール形式となっており、ヨークベニマルを核に、大小合わせて69店舗の専門店で構成されています。
同施設のランドマークとして、小山ゆうえんちから引き継いだメリーゴーランド(横浜ドリームランドから移設したもの)が設置されています。
(以上、「Wikipedia」参照。写真含む)
まもなく右の道を進むはずですが。
(15:29)喜沢東交差点にさしかかります。先達の皆さんの案内によれば、Y字型の正面に「蛸屋茶寮」という食事処があるはずですが、お蕎麦屋さんになっています。はて? 先にそのまま行ってしまい、国道4号線と合流してしまいました。これは行き過ぎたと戻ってみると、Y字部分のところには石碑が並んでいます。すると、ここで斜め右の細い道へ入るのが旧道。半信半疑で向かいました。そんなロスタイムあり。最近、お蕎麦屋さんに変わったのでしょう。
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(15:38)しばらく行くと左手は木々がなくなり、緑のシートで覆われ、かなり広く造成中です。
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振り返って望む。
この一画はかつては木々が生い茂っていたのでしょう。![]()
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1880年代のようす。○が分岐点。←が旧道。
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現在のようす。←が旧道。沿道に林が写っている。
今後、この付近も大きく変貌しそうです。旧道もはたしてどうなるか? これから先の旧道も道路の拡幅整備、宅地造成等で寸断されています。
(15:45)しばらく行くと、左手の雑木林の中に、小山のように盛り上がったところ。ここが「喜沢一里塚」のようです。
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旧道の右手側の空き地にも盛り土が。
「一里塚」跡?
特に解説板は見当たりません。もし「一里塚」跡ならば、標識を立てて欲しいものです。そうではないので、解説板がないのかもしれませんが・・・。「一里塚」なら日本橋から21里目となります。
ところで、19里目、20里目の一里塚(跡)が見当たりませんでした。
19里目は、間々田郵便局付近、20里目は、小山市天神町・「小野塚イツ子記念館」の先辺りになるようです。
来た道を振り返って望む。
旧道はJR線に阻まれます。
高架は新幹線。
高架線沿いに進みます。本来の道は、線路の向こうにありましたが、現在は通行不能。
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「海道間第二公園」。「海道」は「奥州街道」の古い言い方。
桑畑。かつては北関東戸では見慣れた風景でした。![]()
けっこう長く新幹線の高架脇を歩きます。![]()
高架の向こうに「小山乗馬クラブ」の看板。旧道は看板付近を通っていたのでしょうか?
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その先、斜め左に入る道が旧道です。![]()
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1880年代のようす。←旧道はすでに鉄道(現「宇都宮」線)によって寸断されています。斜めに進む旧道は、今も健在です。
細道を進むと、「国道4号線」に合流します。
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合流した先が「新田宿」になります。「東海道」や「中山道」に比べて宿間の距離が短いような気がしますが。
新田宿
日光街道の江戸・日本橋から数えて13番目の宿場。
宿駅としての起源はよく分かっていない。 宿駅の管理は、当初は小山藩、元和5年(1619年)以降は宇都宮藩、元和8年1622年以降は古河藩、貞享2年(1685年)以降は幕府が担った。現在の国道4号線沿いに展開し、南端は小山羽川郵便局付近、北端は銅市金属工業付近である。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が11軒(大2、中4、小5)あった。宿内の家数は59軒、人口は244人であった。



しばらく進んで振り返ると、ちょうど電車が通過中。


この交差点を左に行くと、何となく今でもCMを口ずさめる「小山ゆうえんち」跡。
「小山ゆうえんち」は、1960年4月に開園し、2005年3月閉園しました。閉園後、園内遊戯施設は解体されて更地となり、2007年に、大型商業施設「おやまゆうえんハーヴェストウォーク」として全面開業しました。オープンモール形式となっており、ヨークベニマルを核に、大小合わせて69店舗の専門店で構成されています。
同施設のランドマークとして、小山ゆうえんちから引き継いだメリーゴーランド(横浜ドリームランドから移設したもの)が設置されています。


(15:29)喜沢東交差点にさしかかります。先達の皆さんの案内によれば、Y字型の正面に「蛸屋茶寮」という食事処があるはずですが、お蕎麦屋さんになっています。はて? 先にそのまま行ってしまい、国道4号線と合流してしまいました。これは行き過ぎたと戻ってみると、Y字部分のところには石碑が並んでいます。すると、ここで斜め右の細い道へ入るのが旧道。半信半疑で向かいました。そんなロスタイムあり。最近、お蕎麦屋さんに変わったのでしょう。


(15:38)しばらく行くと左手は木々がなくなり、緑のシートで覆われ、かなり広く造成中です。


振り返って望む。
この一画はかつては木々が生い茂っていたのでしょう。





今後、この付近も大きく変貌しそうです。旧道もはたしてどうなるか? これから先の旧道も道路の拡幅整備、宅地造成等で寸断されています。
(15:45)しばらく行くと、左手の雑木林の中に、小山のように盛り上がったところ。ここが「喜沢一里塚」のようです。


旧道の右手側の空き地にも盛り土が。


特に解説板は見当たりません。もし「一里塚」跡ならば、標識を立てて欲しいものです。そうではないので、解説板がないのかもしれませんが・・・。「一里塚」なら日本橋から21里目となります。
ところで、19里目、20里目の一里塚(跡)が見当たりませんでした。
19里目は、間々田郵便局付近、20里目は、小山市天神町・「小野塚イツ子記念館」の先辺りになるようです。

旧道はJR線に阻まれます。

高架線沿いに進みます。本来の道は、線路の向こうにありましたが、現在は通行不能。



桑畑。かつては北関東戸では見慣れた風景でした。

けっこう長く新幹線の高架脇を歩きます。

高架の向こうに「小山乗馬クラブ」の看板。旧道は看板付近を通っていたのでしょうか?

その先、斜め左に入る道が旧道です。



1880年代のようす。←旧道はすでに鉄道(現「宇都宮」線)によって寸断されています。斜めに進む旧道は、今も健在です。
細道を進むと、「国道4号線」に合流します。


合流した先が「新田宿」になります。「東海道」や「中山道」に比べて宿間の距離が短いような気がしますが。
新田宿
日光街道の江戸・日本橋から数えて13番目の宿場。
宿駅としての起源はよく分かっていない。 宿駅の管理は、当初は小山藩、元和5年(1619年)以降は宇都宮藩、元和8年1622年以降は古河藩、貞享2年(1685年)以降は幕府が担った。現在の国道4号線沿いに展開し、南端は小山羽川郵便局付近、北端は銅市金属工業付近である。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が11軒(大2、中4、小5)あった。宿内の家数は59軒、人口は244人であった。