400年前から続く、奇祭「蛇まつり(間々田のジャガマイタ)で知られる「間々田八幡宮」を過ぎ、
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さらに「千駄塚」案内碑を脇目に進みます。![]()
「千駄塚」はかつての古墳。
この古墳は、墳頂の平坦部に浅間神社を祀っているので、別名浅間山古墳とも呼ばれている大形の円墳である。
墳丘の直径は約70m、高さ約10mで、墳丘裾部から約3m立ち上がったところに幅7-8mの平坦な段築面があることから、二段築成である。
円錐形の形をした墳丘の周囲には、幅15-20mほどの周溝がみられ、その外側にある周庭帯は周溝がよく残っている西側と北側に認められる。
内部主体が未調査であるため築造年代は不詳であるが、6世紀代のものという見方がつよい。
栃木県教育委員会 小山市教育委員会(現地案内板より)
(「埼群古墳館」HPより)
(13:05)「粟宮南」交差点にさしかかります。すると、左手角に「西堀酒造」。
お店に入って3種類を試飲。
「若盛 門外不出 奥座敷」・・・。赤米・古代米でこしらえたワイン風のお酒を1本購入しました。何でもこの日は小山の酒蔵(地酒)が集まって、市役所辺りでイベントをやっているとか。う~ん、時間的には残念!
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右手には「新幹線」。![]()
(13:24)そして「東京から75㎞」ポスト。![]()
「粟宮」交差点の三叉路で右の旧国道(現県道265号線)を進みます。正面には「レース鳩市場」。
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来た道を振り返って望む。
「向日葵」。
そのまえには立派なお屋敷。
(13:41)ここで、小休止。
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(13:53)「神鳥谷東」立体交差点。右手に新幹線。
街道筋らしいおうちもちらほら。![]()
(14:04)右手に「小野塚イツ子記念館」。
奥に煉瓦煙突。
『小野塚イツ子記念館』は、平成15年にご逝去された故小野塚イツ子氏のご遺志により小山市に寄贈された建築物です。土蔵及び醤油工場を建物の外観を残しながら改修し、平成16年に地域学習施設として開設されました。
(「小山市中央公民館」HPより)
小野塚家は、江戸時代から続いていた「万久」という屋号の醤油屋さんでした。
古河宿のように、電柱のないすっきりした「小山宿通り」。
(14:10「須賀神社」参道。
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「酒 野崎本店」。![]()
野崎 一彦
明治5年、近江の国日野町から出てこの小山の地に酒屋を開き、以来130年余市、町の皆様のご愛顧を受け、酒屋一筋に商いを続けてきました。
この度、宮本町野崎本店は創業時の建物をリニューアルしました。
水と緑の豊かな自然に育まれた小山の地域ブランドを中心に酒のおいしさ、酒の楽しみをお届けします。
(
HPより)
「日光街道 小山宿 開運のまち」。
小山宿
日光街道の江戸・日本橋から数えて12番目の宿場。
元和3年(1617年)以降に宿駅に指定されたと考えられている。宿駅の管理は、元和5年(1619年)以降は古河藩、延宝3年(1675年)に幕府、天和2年(1682年)に古河藩と変遷したのち、貞享2年(1685年)以降は幕府、安永3年(1774年)以降は宇都宮藩が担った。小山宿は「五街道追分の地」とも呼ばれ、日光街道(日光道中)、壬生通り、結城道、佐野道、栃木道が交差する交通の要所であった。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は2軒設けられ、旅籠が74軒(大11,中27,小36)あった。宿内の家数は423軒、人口は1392人であった。当時の日光街道は現在の県道265号線に相当し、街道沿いでは南から下町・中町・上町、他にも横町・新町から構成された。本陣・脇本陣は中町(現在の中央町)にあった。また宿内には、将軍家による日光社参のため、小山御殿が設けられていた。
小山御殿: 将軍家の日光社参のために設けられた休憩所。場所は現在の小山市役所付近に相当するが、遺構は残されていない。
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明治天皇小山行在所跡
(14:13)明治天皇行在所跡碑の後ろに、小山宿脇本陣がありました。通りを挟んで反対側にも脇本陣があったようです。
(14:22)右手に、物産品販売や観光案内を行う小山市まちの駅「思季彩館」。古民家を利用した建物。
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「かんぴょう街道」。
けっこう西日が強くなってきて、今回はここまでと思って、「小山」駅へ。駅ビルで喉を潤し、休憩している内に元気回復。予定通り、「小金井」駅まで進むことにしました。

さらに「千駄塚」案内碑を脇目に進みます。

「千駄塚」はかつての古墳。
この古墳は、墳頂の平坦部に浅間神社を祀っているので、別名浅間山古墳とも呼ばれている大形の円墳である。
墳丘の直径は約70m、高さ約10mで、墳丘裾部から約3m立ち上がったところに幅7-8mの平坦な段築面があることから、二段築成である。
円錐形の形をした墳丘の周囲には、幅15-20mほどの周溝がみられ、その外側にある周庭帯は周溝がよく残っている西側と北側に認められる。
内部主体が未調査であるため築造年代は不詳であるが、6世紀代のものという見方がつよい。
栃木県教育委員会 小山市教育委員会(現地案内板より)

(13:05)「粟宮南」交差点にさしかかります。すると、左手角に「西堀酒造」。

「若盛 門外不出 奥座敷」・・・。赤米・古代米でこしらえたワイン風のお酒を1本購入しました。何でもこの日は小山の酒蔵(地酒)が集まって、市役所辺りでイベントをやっているとか。う~ん、時間的には残念!


右手には「新幹線」。

(13:24)そして「東京から75㎞」ポスト。

「粟宮」交差点の三叉路で右の旧国道(現県道265号線)を進みます。正面には「レース鳩市場」。


来た道を振り返って望む。

そのまえには立派なお屋敷。



街道筋らしいおうちもちらほら。

(14:04)右手に「小野塚イツ子記念館」。

『小野塚イツ子記念館』は、平成15年にご逝去された故小野塚イツ子氏のご遺志により小山市に寄贈された建築物です。土蔵及び醤油工場を建物の外観を残しながら改修し、平成16年に地域学習施設として開設されました。
(「小山市中央公民館」HPより)
小野塚家は、江戸時代から続いていた「万久」という屋号の醤油屋さんでした。

(14:10「須賀神社」参道。


「酒 野崎本店」。

野崎 一彦
明治5年、近江の国日野町から出てこの小山の地に酒屋を開き、以来130年余市、町の皆様のご愛顧を受け、酒屋一筋に商いを続けてきました。
この度、宮本町野崎本店は創業時の建物をリニューアルしました。
水と緑の豊かな自然に育まれた小山の地域ブランドを中心に酒のおいしさ、酒の楽しみをお届けします。
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小山宿
日光街道の江戸・日本橋から数えて12番目の宿場。
元和3年(1617年)以降に宿駅に指定されたと考えられている。宿駅の管理は、元和5年(1619年)以降は古河藩、延宝3年(1675年)に幕府、天和2年(1682年)に古河藩と変遷したのち、貞享2年(1685年)以降は幕府、安永3年(1774年)以降は宇都宮藩が担った。小山宿は「五街道追分の地」とも呼ばれ、日光街道(日光道中)、壬生通り、結城道、佐野道、栃木道が交差する交通の要所であった。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は2軒設けられ、旅籠が74軒(大11,中27,小36)あった。宿内の家数は423軒、人口は1392人であった。当時の日光街道は現在の県道265号線に相当し、街道沿いでは南から下町・中町・上町、他にも横町・新町から構成された。本陣・脇本陣は中町(現在の中央町)にあった。また宿内には、将軍家による日光社参のため、小山御殿が設けられていた。
小山御殿: 将軍家の日光社参のために設けられた休憩所。場所は現在の小山市役所付近に相当するが、遺構は残されていない。


明治天皇小山行在所跡
(14:13)明治天皇行在所跡碑の後ろに、小山宿脇本陣がありました。通りを挟んで反対側にも脇本陣があったようです。
(14:22)右手に、物産品販売や観光案内を行う小山市まちの駅「思季彩館」。古民家を利用した建物。



けっこう西日が強くなってきて、今回はここまでと思って、「小山」駅へ。駅ビルで喉を潤し、休憩している内に元気回復。予定通り、「小金井」駅まで進むことにしました。