6月18日(土)。快晴。またまた「日光道中」の旅。が、炎天下の歩きで、宇都宮まで行く予定が挫折。暑かった!
翌日、再チャレンジ。曇りがちの天気で、前の日よりは歩きやすい。が、夕方から人が来るという連絡が入り、これまた途中で引き返すことに。
どうもついていない「歩き」です。が、家を7時過ぎに出ても、往復が可能。泊まらずに行ける範囲。東武線とJR線の併用で何とか。
そういえば、小学生の頃、日光は日帰り遠足で行ったこともあるところ。東海道や中山道ではそうもいきません。その点、地の利です、ね。
(9:28)前回はしょったところ(旧道)近くに戻り、歩き始めます。![]()
遠く正面に「小金井一里塚」。旧道を歩く「感動」です。![]()
道は畑にぶつかります。畑の中を歩くのは・・・。
左に回り込んで「一里塚」へ向かいます。現日光街道が東側に通るようにつくられた関係で、両側の塚とも運良く残ることができました。
(9:36)東の塚と西の塚(手前)。その間が「日光道中」となります。![]()
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発掘調査と整備について
史跡整備に伴って平成9年度に実施した発掘調査では、合計3時期にわたる旧街道の砂利敷道路が発見されました。
江戸時代、最初に街道が作られた頃(Ⅰ期)は、側溝のない砂利敷道路で、道幅は約9m(5間)、現在の地表の高さから比べると約80cm下にありました。
その後、街道が改修された時には(Ⅱ期)新たにU字溝が設けられ、道幅は約9.4mとやや広くなります。
明治時代以降、再度改修された時には(Ⅲ期)、道幅約5.7m、箱型の側溝を設けた狭い砂利敷道路になっています。
明治17年(1884)には、現在の国道4号線が開通しますが、旧街道は、その後も生活道路として昭和50年代まで利用されていました。・・・
このたび、長い間手が加えられなかった一里塚を将来的に保護活用していくため、地域の区画整理事業に合わせ、史跡ポケット広場として整備することになりました。・・・
両塚の間には発掘調査の成果をもとにⅡ期の砂利敷道路(約9.4m)の路面を復元表示し(溝は暗渠で施行)、旧街道が南北に続いている様子を壁画に表しています。・・・
小金井一里塚のように、2つの塚が壊されずに残っているのは全国的にも稀であり、祖先から受け継がれてきた貴重な文化財を、これからもみんなで大切に守っていきましょう。
平成10年3月 国分寺町教育委員会
来た道(南側)を振り返って望む。
北側は住宅地になってしまいます。![]()
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国指定史跡 小金井一里塚 大正11年3月8日指定
この二つの塚の間を通っている道が江戸時代の五街道の一つ、日光街道です。江戸幕府が五街道の整備に着手したのは慶長9年(1604)で、栃木県令三島通庸が今の国道4号を作ったのが明治17年(1884)ですから、この日光街道は約280年もの間、東北地方への主要道路として使われていたのです。
一里塚は、江戸の日本橋を基点として1里(約3.927キロメートル)ごとに築かれました。小金井一里塚はその22番目の塚で、江戸から22里(約86.4キロメートル)の地点であることを示しています。(実際の距離は90キロメートル以上あります)
塚は5間(約9.1㍍)四方の四角形に築かれ、榎が植えられましたが、今ではすっかり変形して丸塚となり、何代目かの榎と、いつの時代に生えたのか、榎と櫟(くぬぎ)の巨木が同居しています。
一里塚は、荷物や人を運ぶ賃金の標準となり、旅人にとっては道のりの目安になって、たいへん便利でした。また、現代の私たちにとっては町の歴史のシンボルであり、過去と未来を結ぶ文化財です。大切に保存しましょう。
平成2年(1990)建立
明治期の国道整備の際、新田宿と小金井宿の間は、旧街道の東側に並行して新しい道路を開通させたため、東西の2つの塚がほぼ原形のまま残されました。日光街道の一里塚では、唯一、国の史跡に指定されています。
この先が「小金井宿」の中心部となるようですが、特に史跡の表示はありません。
慈眼寺、金井神社と過ぎます。
その先の左手に本陣跡(大越家)の門があります。
問屋場もこの付近にあったようです。
小金井宿
日光街道の江戸・日本橋から数えて14番目の宿場。
宿駅の管理は、当初は壬生藩だったが、元禄9年(1696年)以降は幕府、宝暦13年(1763年)以降は下総佐倉藩、天明7年(1787年)以降は幕府、寛政11年(1799年)以降は再び佐倉藩が担った。現在の国道4号沿いの小金井駅前交差点の北側に展開しており、南(江戸側)から下町・中町・上町より構成された。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が43軒あった。宿内の家数は165軒、人口は767人であった。
「小金井」という地名は、近くに小金井と呼ばれた湧水の池があり、「旱魃のときにも枯れることがなかった、池の中から黄金が出てきた」という伝承に由来する。この井から「金井村」という村名が生じ、のちに「小金井村」となった。(天保14年・1843年頃作成と推定される『日光道中略記』より)
江戸時代以前からの古い宿場であり、15~16世紀には集落が形成されて、「奥大道」すなわち鎌倉街道中道(なかつみち)の「金井宿」と呼ばれていた(『蓮行寺文書』等)。
その付近から宿内を望む。
沿道には古いおうちがちらほら。 修理中なのか、取り壊し寸前なのか。・・・
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(9:58)「小金井北」交差点を右に折れた、突き当たりにあるお寺が「蓮行寺」。由緒あるお寺で、将軍が日光社参の際に、ここで宇都宮城主が出迎えたといいます。1329年の開基。
翌日、再チャレンジ。曇りがちの天気で、前の日よりは歩きやすい。が、夕方から人が来るという連絡が入り、これまた途中で引き返すことに。
どうもついていない「歩き」です。が、家を7時過ぎに出ても、往復が可能。泊まらずに行ける範囲。東武線とJR線の併用で何とか。
そういえば、小学生の頃、日光は日帰り遠足で行ったこともあるところ。東海道や中山道ではそうもいきません。その点、地の利です、ね。
(9:28)前回はしょったところ(旧道)近くに戻り、歩き始めます。

遠く正面に「小金井一里塚」。旧道を歩く「感動」です。


左に回り込んで「一里塚」へ向かいます。現日光街道が東側に通るようにつくられた関係で、両側の塚とも運良く残ることができました。
(9:36)東の塚と西の塚(手前)。その間が「日光道中」となります。



発掘調査と整備について
史跡整備に伴って平成9年度に実施した発掘調査では、合計3時期にわたる旧街道の砂利敷道路が発見されました。
江戸時代、最初に街道が作られた頃(Ⅰ期)は、側溝のない砂利敷道路で、道幅は約9m(5間)、現在の地表の高さから比べると約80cm下にありました。
その後、街道が改修された時には(Ⅱ期)新たにU字溝が設けられ、道幅は約9.4mとやや広くなります。
明治時代以降、再度改修された時には(Ⅲ期)、道幅約5.7m、箱型の側溝を設けた狭い砂利敷道路になっています。
明治17年(1884)には、現在の国道4号線が開通しますが、旧街道は、その後も生活道路として昭和50年代まで利用されていました。・・・
このたび、長い間手が加えられなかった一里塚を将来的に保護活用していくため、地域の区画整理事業に合わせ、史跡ポケット広場として整備することになりました。・・・
両塚の間には発掘調査の成果をもとにⅡ期の砂利敷道路(約9.4m)の路面を復元表示し(溝は暗渠で施行)、旧街道が南北に続いている様子を壁画に表しています。・・・
小金井一里塚のように、2つの塚が壊されずに残っているのは全国的にも稀であり、祖先から受け継がれてきた貴重な文化財を、これからもみんなで大切に守っていきましょう。
平成10年3月 国分寺町教育委員会

北側は住宅地になってしまいます。



国指定史跡 小金井一里塚 大正11年3月8日指定
この二つの塚の間を通っている道が江戸時代の五街道の一つ、日光街道です。江戸幕府が五街道の整備に着手したのは慶長9年(1604)で、栃木県令三島通庸が今の国道4号を作ったのが明治17年(1884)ですから、この日光街道は約280年もの間、東北地方への主要道路として使われていたのです。
一里塚は、江戸の日本橋を基点として1里(約3.927キロメートル)ごとに築かれました。小金井一里塚はその22番目の塚で、江戸から22里(約86.4キロメートル)の地点であることを示しています。(実際の距離は90キロメートル以上あります)
塚は5間(約9.1㍍)四方の四角形に築かれ、榎が植えられましたが、今ではすっかり変形して丸塚となり、何代目かの榎と、いつの時代に生えたのか、榎と櫟(くぬぎ)の巨木が同居しています。
一里塚は、荷物や人を運ぶ賃金の標準となり、旅人にとっては道のりの目安になって、たいへん便利でした。また、現代の私たちにとっては町の歴史のシンボルであり、過去と未来を結ぶ文化財です。大切に保存しましょう。
平成2年(1990)建立
明治期の国道整備の際、新田宿と小金井宿の間は、旧街道の東側に並行して新しい道路を開通させたため、東西の2つの塚がほぼ原形のまま残されました。日光街道の一里塚では、唯一、国の史跡に指定されています。
この先が「小金井宿」の中心部となるようですが、特に史跡の表示はありません。
慈眼寺、金井神社と過ぎます。

その先の左手に本陣跡(大越家)の門があります。

小金井宿
日光街道の江戸・日本橋から数えて14番目の宿場。
宿駅の管理は、当初は壬生藩だったが、元禄9年(1696年)以降は幕府、宝暦13年(1763年)以降は下総佐倉藩、天明7年(1787年)以降は幕府、寛政11年(1799年)以降は再び佐倉藩が担った。現在の国道4号沿いの小金井駅前交差点の北側に展開しており、南(江戸側)から下町・中町・上町より構成された。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が43軒あった。宿内の家数は165軒、人口は767人であった。
「小金井」という地名は、近くに小金井と呼ばれた湧水の池があり、「旱魃のときにも枯れることがなかった、池の中から黄金が出てきた」という伝承に由来する。この井から「金井村」という村名が生じ、のちに「小金井村」となった。(天保14年・1843年頃作成と推定される『日光道中略記』より)
江戸時代以前からの古い宿場であり、15~16世紀には集落が形成されて、「奥大道」すなわち鎌倉街道中道(なかつみち)の「金井宿」と呼ばれていた(『蓮行寺文書』等)。
その付近から宿内を望む。

沿道には古いおうちがちらほら。 修理中なのか、取り壊し寸前なのか。・・・


(9:58)「小金井北」交差点を右に折れた、突き当たりにあるお寺が「蓮行寺」。由緒あるお寺で、将軍が日光社参の際に、ここで宇都宮城主が出迎えたといいます。1329年の開基。

