右手に「鞘堂地蔵尊」。


鞘堂地蔵尊の由来
寛政6年(1794)に書かれ、天保14年(1843)に発行された紀行文によれば室町時、足利義満が将軍の時代には将軍と将軍の争うことが多く、この地方でも小山と宇都宮の合戦が発生し、戦争の中心地となった所です。茂原合戦ともいわれています。
この地内には地蔵院とゆうお寺がありました。戦争で焼かれ多くの人が亡くなりました。村人達は戦死者の散乱した刀の鞘を拾い集めてお寺の焼後に埋め、小さなお堂を作りその中に石仏の地蔵様を安置しました。
それが鞘堂とゆう地名になったそうです。
明治・大正・昭和の初めには地蔵尊入口両面には桜の並木があり、安産地蔵様として親しまれ、お祭には露天商がたち並び手作りの舞台で演劇やお踊りで大勢の参拝客で賑わいました。今ではその桜の木もなくなり、昭和五十三年にお堂も老朽化で解体され、大勢の方々のご協力により御覧のようなお堂が新築されました。地蔵尊の中には地蔵様の頭五~六寸大と日本画で全身像が額縁で安置されています。
鞘堂のお墓にはお寺の住職のお墓もあり、寺田とゆう地名も残っています。鞘堂地蔵尊は安産地蔵として古くから男の子は白、女の子は赤と細い紐を作り、安産のあとに二本かいすことになっています。
このように鞘堂地蔵尊はこの地の名所として古くから知られているのです。
お祭(縁日) 旧三月二十四日
壱万灯 六月二十四日
鞘堂自治会
なお、旧道はここまでの区間も現在の国道より少し西側を通っていたようです。この道?


(13:28)しばらく進むと、頭上遙か高くを通る「北関東自動車道」の橋脚。

(13:40)ようやく「宇都宮市」に入ります。

右手奥には東北新幹線の橋梁。

(13:46)さらに「茂原正観音道」碑。


社殿は、新幹線架線・在来線の線路を越えた東側にあります。
左手には「陸上自衛隊宇都宮駐屯地」が広がります。






この付近に日本橋から25里目の「雀宮一里塚」があったようです。
(14:28)「大和田内科胃腸科病院」の先「やまや」のところに「小倉本陣跡」碑があります。



雀宮宿
日光街道および奥州街道の16番目の宿場。
雀宮宿は江戸時代に下野国河内郡にあった宿場町である。雀宮宿は、もともと下横田村の台地部にある村落であったことから台横田村と呼ばれ、奥州古道の時代にはその中心地は雀宮宿の東方にあったが、江戸時代に日光街道が整備されたことにより沿道に人家が集まり宿を成し、近所にあった雀宮神社に因んで雀宮村と改称し、後に江戸幕府によって宿駅とされたものである。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、雀宮宿には本陣1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が38軒あった。宿内の家数は72軒、人口は268人であった。
前方右手に曲がると、JR「雀宮」駅へ。

その角で昔風の建物を建築中。ここが「芦谷脇本陣」のようです。

(14:31)脇には門などが解体、復元中。


今回はここまで。JR「雀宮」駅から戻ります。えきの上りホームの時刻表掲示板、どこかで見たものと同じ鋳鉄製の柱があります。京浜東北線の大森駅東口の喫煙スペースにあったような、・・・。はてさて?


