マスコットガール?

8万石の城下町です。

小説家の永井路子さんの生家があるようです。



雪の殿様
古河藩主、土居利位(1789~1848)は、雪の結晶を20年にわたり観察、わが国最初の雪の自然科学書『雪華図説』を著作・発行した。
こんにちの雪氷学者は、この雪の殿さまの成果を、科学史上の画期と称賛して高い評価を与えている。
書画を描くことにも秀でた多芸な利位は、『雪華図説』に掲載した雪華模様を意匠として捉えて、みずから様々な工芸品のデザインに取り込んでいく。漆工品や唐紙、武具・馬具・刀装具、果ては菓子の木型にいたるまで・・・。
現代、雪の殿さまの「雪華模様」は、市内の小中学校の校章や、街の景観に、今も文化として息づいている。
公方の城 古河城
古河城は、古河公方の御座所であった中世、そして、将軍家の日光社参における御泊城となった近世というように、歴史上、公方様の城というべき特殊な性格を帯びた存在であった。
殊に、室町時代の古河城は、政治・軍事面の重要性から、鎌倉公方の北関東における拠点と位置付けられており、15世紀半ばになると、「享徳の乱」を契機に、鎌倉から古河へ移座した足利成氏の居城として整備されていく。そして、初代成氏以降、古河城は、古河公方足利氏の五代130年にわたる根城として、波乱に富む関東戦国史に欠くことのできない存在となる。
江戸期以降は、幕府大老の土井利勝、堀田正俊を筆頭に、閣老級の譜代大名たちが城主となり、近世城郭としての整備が進められ、南北1800㍍、東西550㍍という関東有数の巨大城郭に変貌した。
明治6年の廃城令と同43年に開始された渡良瀬川改修工事によって終焉を迎えた古河城であるが、現在も出城跡(歴史博物館)や獅子ヶ崎に土塁や水堀を含む遺構を確認することができる。
公方(くぼう)
国家に関する公(おおやけ)のことを体現する方面及び国家的統治権、すなわち古い時代の天皇やその朝廷、鎌倉時代、室町時代の将軍に起源する言葉である。特に室町時代の後半には、将軍の公権力の代行者として君臨した足利将軍家の一族の者の肩書きとして用いられた。
南北朝時代、室町幕府を開いた足利尊氏は、朝廷より公方号を許されたことが、室町幕府政所執事伊勢氏の末裔にて江戸時代の旗本の伊勢貞丈の『貞丈雑記』に記されている。しかし、尊氏は多分に朝廷や公家の称としての意味合いが強かった公方号を素直には喜ばなかった。尊氏は公方の号を賜ると甲冑をまとうことができないと述べ辞退するが、一旦授けたものを撤回もできず、尊氏が預かる形となった。
以降、2代将軍となった義詮の時代になっても用いられることはなかった。しかし、3代将軍義満以降、将軍の敬称として公方号が積極的に称されることとなった。当初、関東管領としてあった足利基氏も将軍家が公方を称するようになると、鎌倉公方と称するようになった。以降、幕府の主宰者たる将軍や、鎌倉公方を称した鎌倉の足利一族により公方号が世襲されることとなる。鎌倉公方はさらに古河公方、堀越公方両家に分裂し、古河公方はさらに小弓公方と分裂する。
江戸時代には王権をほぼ全て掌握する将軍の別称として完全に定着し、「公方」と言えば徳川将軍だけを意味するようになる。
古河公方・小弓公方の子孫である喜連川氏については、非公式ながら公方と名乗る事を認められていた。喜連川氏は徳川将軍家との間に明確な主従関係が存在しないという、極めて特殊な存在であった。
古河公方
享徳の乱の際に、享徳4年(1455年)、鎌倉から下総国古河(茨城県古河市)に移った関東公方で、初代は足利成氏。第2代は足利政氏、第3代は足利高基、第4代は足利晴氏、第5代は足利義氏である。晴氏が河越夜戦で敗れたことから後北条氏の影響力を強く受けるようになり、晴氏と義氏は古河を離れて、後北条氏の勢力範囲各地を居所とする時期が長かった。天正10年(1582年)、義氏が死去した後は後継者が立たず消滅。後裔は高家の喜連川氏となった。
小弓公方
永正14年(1517年)、第3代古河公方足利高基の弟足利義明が上総国真里谷(まりやつ)城主の上総武田氏に擁立されて、下総国の小弓城(現、千葉県千葉市)を居所としたもの。自らを第2代古河公方政氏の正当な後継者であると主張し、高基に対抗した。天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で義明が戦死したため滅亡した。後裔が古河公方系と合一して喜連川氏となった。
(以上、「Wikipedia」参照)
ここを右に折れて「古河」駅方向へ。

駅前には大きな万葉歌碑と解説板があります。


万葉古河の歌について
万葉集は日本現存最古の歌集で、8世紀中頃に成立した。全20巻からなり、長歌・旋頭歌・仏足石歌体歌・短歌など4536首の歌を収録し、万葉仮名で書かれている。
そにうち巻14には東歌として238首が収録されている。東歌はすべて作者不詳で、労働・土俗・性愛の表現に特徴があり、東国の方言的要素を含んでいる。また地名を含む歌が多いのが特徴である。
その中に相聞歌として古河(許我)の地名を含む歌が二首載っている。
・まくらがの 許我の渡りの からかじの
音高しもな 寝なへ児ゆえに
(まくらがの古河の渡りのからかじの音が高いように
高い噂が立ったなぁ あの子と共寝をしたわけではないのに)
・逢はずして 行かば惜しけむ まくらがの
許我こぐ船に 君も逢はぬかも
(あなたと逢わずに行ってしまったら心残りだろう まくらがの
古河を漕ぐ渡し舟であなたにお逢いできないものかなぁ)
※まくらが…「許我」にかかる枕詞
この二つの歌は、おそらく民謡のように語り歌い継がれたものであろう。いずれにしても、歌の内容から渡し場であった様子がうかがえ、この古河の地が古くからひらけ、渡良瀬川などの河川や沼を交通路として利用し、河川交通の要所として発展していたことをうかがわせる。
ここに建つ「万葉古河の歌碑」は、昭和60年(1985)4月に万葉歌碑建設実行委員会(代表 渡辺武夫氏)を中心に、たくさんのかたがたの浄財によって建設されたもので、書は大久保翠洞氏(古河市出身の篆刻家)の揮毫である。
平成20年1月 古河市教育委員会
市内史跡案内板。

電車の出発時間までちょっとぶらぶら。こんなお店がありました。「古美術 大正館」。

上野から快速で54分、JR宇都宮線古河駅西口より徒歩2分。築70年のもともと民家であった木造家屋を改築して店舗にしています。柱や梁に走る木目、ガラス戸、柱時計……、家屋に宿る「匂い」がそのまま大正館の小道具として生き生きと生彩を放って、われわれに語りかけてくれます。
「大正」という時代は、「自由」という思想を背景に日本独自の文化が花開いた時期です。富国強兵の号令の下、国体の強化に一心不乱に進んだ明治。大陸への進出をめざし、アジアの覇権を握ろうと国家が国民を統制した戦前の昭和。この2つの激動の時代に挟まれ、日本近代史に花咲いた「あだ花」のようなはかなさもあります。私はそんな大正時代に漠たる憧れをもっていました。「大正館」という名前もそんな時代にあやかっています。
古い物には時代を超えて人の心をつかむ「あたたかみ」や「癒す力」があります。骨董(古陶磁器)、古民具、箪笥、漆器、ガラス製品から電笠、ランプ、柱時計、蓄音機まで取り揃えております。一度「古き良き時代」を体験しにいらっしゃいませんか。
大正館店主 中野忠男 (

古河駅。
