左の道(日光街道)を進みます。道幅は広いですが、先ほどに比べて車の交通量もぐっと少なくなります。
![]()
「国道119号線」を「東京街道」と表示。 振り返って望む。
「宇都宮宿」に向かって進みます。
JR日光線。![]()
しばらく行くと、正面に交差点。宇都宮宿へは左の「日光街道(奥州街道)」にあたる「不動前通り」を進みます。直進する道が「旧奥州街道」で、現国道119号線。この国道は東武線・宇都宮駅前に向かいます。交差点のところにあるのが、「不動堂」。
![]()
解説板。宇都宮宿に入るとこうした解説板があります。![]()
不動堂
江戸時代の初めごろ、宇都宮城主恩田正純は、日光街道と奥州街道をつけかえました。そのとき、旧奥州街道と奥州街道の分かれ目にあったのが、不動明王を祀った不動堂です。江戸方面から来る旅人にとっては、宇都宮に入る目印となっていました。
不動堂は初め、この場所より東方(旭陵通りを少し入った辺り)にありましたが、後におここに移されました。今でも不動前という地名があるのは、この不動堂に由来するのです。
碑には、「御大典記念正面東京ニ至ル」。
ここが「宇都宮宿」の江戸方木戸口でもあります。
宇都宮宿
日光街道および奥州街道の17番目の宿場。宇都宮城の城下町にあり、両街道の追分であったほか、国内各地を結ぶ主要道路が通る交通の要衝で、日光街道で最も賑わった宿場町と云われている。
宇都宮宿は、宇都宮城の城下町であり宇都宮大明神(二荒山神社)の門前町でもあった宇都宮が、徳川家康の命により伝馬役を命ぜられ、宿駅として整備されたものである。宇都宮藩により治められていた。
東海道に続く街道整備により宇都宮宿にも伝馬役が命ぜられたのが慶長7年(1602年)であり、以来宿場町となり人足25人と馬25頭の常備が義務付けられていた。一方で地子免許状が交付され土地税は免除となり負担軽減の措置が執られていた。
元和3年(1617年)に徳川家康が日光山に祀られ、寛永13年(1636年)に徳川家光によって現在の東照社が日光に造営され、さらに正保2年(1647年)に朝廷より東照社に宮号が宣下され日光東照宮となると、日光街道は参詣道としての重要度も急速に高まり、文政期には日光街道を参勤する大名家は41家を数え、五街道では東海道の146家に次いで多いなど通行量が増大した。
伝馬役は日光街道と奥州街道の追分である伝馬町、池上町界隈で受け持っており、当初は東石町で担っていたが負担が重かったため伝馬町に移され、さらに小伝馬町や池上町にも拡大された。
宇都宮宿で最も栄えたのがこの伝馬町や池上町界隈で、多くの商家や問屋が店を構え、寛文10年(1670年)には本陣と脇本陣が置かれている。大黒町には木賃宿が設けられ一般旅客の宿泊所となっていたほか、挽路町や材木町には造り酒屋や遊郭などもあった。蓬莱町、大黒町、歌橋町などの界隈では七の付く日に市が立ち、たいへん賑わったと伝えられている。また、日光街道には2宿に貫目改所が設けられたが、ひとつは千住宿に、そしてもうひとつが宇都宮宿新石町に置かれていた。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、宇都宮宿は南北20町(約2.2km)、東西18町58間(約2.1km)の規模で、本陣は2軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が42軒あった。宿内の家数は1219軒、人口は6,457人であった。
門前・寺社を含めた宇都宮城下では、天保15年(1844年)の記録によると、家数1,693件、人口15,500人であり、江戸初期には32町であったのが、後期には48町まで増えている。本陣は日光道中と奥州道中の追分に当たる傳馬町(伝馬町)および池上町に1軒ずつ、脇本陣は伝馬町に1軒、それぞれ所在した。ほか、街道沿いには台陽寺や桂林寺など寺社群が多数林立し、宇都宮は、日光道中で最大の繁盛の地であった。
(以上、「Wikipedia」参照。)
先ほどより狭くなって車の量も一段と少なくなった道。道端には「蒲生君平」に関わるポスターが目につくようになります。
![]()
「蒲生君平花街道」をゆく。2018年生誕250年。
途中にあった標語。小学生としてはなかなか見事。「かさのかげ 見えない鬼が ひそんでる」。![]()
東武宇都宮線のガードをくぐります。![]()
ガードの先、右手にあるのが「蒲生君平旌碑」。
![]()
解説板。![]()
蒲生君平勅旌碑
明治2年12月明治天皇は、蒲生君平の著した書物やおこないが明治維新に大きな功績があったとして「君平の人となりはまことに立派であるからこれを広く天下に表して庶民に知らせるように」との勅命を下しました。そこで、当時の宇都宮藩知事の戸田忠友が奉行となり、宇都宮の入口に「この地が蒲生君平の里である」という碑を建てました。
蒲生君平は、高山彦九郎、林子平とともに「寛政の三奇人」といわれた人で、明和5年(1768)宇都宮の新石町で生まれ、祖先は元宇都宮城主蒲生秀行(18万石)の弟正行(3千石)で、本姓は福田でありましたが、途中で遠祖の蒲生の姓を名乗りました。
歴代天皇の御陵が荒廃していることを非常に悲しみ、それらを調査して「山陵志」を著し修復の必要性を説きました。
また、朝廷の官職についてまとめた「職官志」や国防についてまとめた「不恤緯」などを著しました。しかし、その業半ばにして病にたおれ、文化10年(1813)7月5日に江戸で46才の生涯を閉じました。
左手前方を見ると、ひときは高い木が見えます。左に折れて近づくと、案内板に「とちぎ名木百選 新町のけやき」とあります。
![]()
この付近には多くの寺院が配され、宇都宮城下入口を固める防御線の役割も果たしていたという。
「不動前通り」から「蓬莱大黒通り」となると、左側に「熱木山不動尊」があります。
![]()
初代下野の国司である宇都宮宗円が、奥州征伐のときに戦勝を祈願して不動尊像三体を造成したうちの一体で、不動明王が鎮座しています。宇都宮城の安泰を祈って祀られたもののようです。星霜九百余年の歴史を持っているそうです。
静かな住宅街。
「蓬莱大黒通り」。
「米兵質店」やけに新旧うまくマッチしたな店舗。![]()
ただし、「べいへい」ではありません、「こめひょう」と読みます。
道が整備されて広くなって、街中に入って行きます。
![]()
更に材木町通りとなります。
「宇都宮城址」は右手奥の方になります。


「国道119号線」を「東京街道」と表示。 振り返って望む。
「宇都宮宿」に向かって進みます。

JR日光線。

しばらく行くと、正面に交差点。宇都宮宿へは左の「日光街道(奥州街道)」にあたる「不動前通り」を進みます。直進する道が「旧奥州街道」で、現国道119号線。この国道は東武線・宇都宮駅前に向かいます。交差点のところにあるのが、「不動堂」。


解説板。宇都宮宿に入るとこうした解説板があります。

不動堂
江戸時代の初めごろ、宇都宮城主恩田正純は、日光街道と奥州街道をつけかえました。そのとき、旧奥州街道と奥州街道の分かれ目にあったのが、不動明王を祀った不動堂です。江戸方面から来る旅人にとっては、宇都宮に入る目印となっていました。
不動堂は初め、この場所より東方(旭陵通りを少し入った辺り)にありましたが、後におここに移されました。今でも不動前という地名があるのは、この不動堂に由来するのです。
碑には、「御大典記念正面東京ニ至ル」。
ここが「宇都宮宿」の江戸方木戸口でもあります。
宇都宮宿
日光街道および奥州街道の17番目の宿場。宇都宮城の城下町にあり、両街道の追分であったほか、国内各地を結ぶ主要道路が通る交通の要衝で、日光街道で最も賑わった宿場町と云われている。
宇都宮宿は、宇都宮城の城下町であり宇都宮大明神(二荒山神社)の門前町でもあった宇都宮が、徳川家康の命により伝馬役を命ぜられ、宿駅として整備されたものである。宇都宮藩により治められていた。
東海道に続く街道整備により宇都宮宿にも伝馬役が命ぜられたのが慶長7年(1602年)であり、以来宿場町となり人足25人と馬25頭の常備が義務付けられていた。一方で地子免許状が交付され土地税は免除となり負担軽減の措置が執られていた。
元和3年(1617年)に徳川家康が日光山に祀られ、寛永13年(1636年)に徳川家光によって現在の東照社が日光に造営され、さらに正保2年(1647年)に朝廷より東照社に宮号が宣下され日光東照宮となると、日光街道は参詣道としての重要度も急速に高まり、文政期には日光街道を参勤する大名家は41家を数え、五街道では東海道の146家に次いで多いなど通行量が増大した。
伝馬役は日光街道と奥州街道の追分である伝馬町、池上町界隈で受け持っており、当初は東石町で担っていたが負担が重かったため伝馬町に移され、さらに小伝馬町や池上町にも拡大された。
宇都宮宿で最も栄えたのがこの伝馬町や池上町界隈で、多くの商家や問屋が店を構え、寛文10年(1670年)には本陣と脇本陣が置かれている。大黒町には木賃宿が設けられ一般旅客の宿泊所となっていたほか、挽路町や材木町には造り酒屋や遊郭などもあった。蓬莱町、大黒町、歌橋町などの界隈では七の付く日に市が立ち、たいへん賑わったと伝えられている。また、日光街道には2宿に貫目改所が設けられたが、ひとつは千住宿に、そしてもうひとつが宇都宮宿新石町に置かれていた。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、宇都宮宿は南北20町(約2.2km)、東西18町58間(約2.1km)の規模で、本陣は2軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が42軒あった。宿内の家数は1219軒、人口は6,457人であった。
門前・寺社を含めた宇都宮城下では、天保15年(1844年)の記録によると、家数1,693件、人口15,500人であり、江戸初期には32町であったのが、後期には48町まで増えている。本陣は日光道中と奥州道中の追分に当たる傳馬町(伝馬町)および池上町に1軒ずつ、脇本陣は伝馬町に1軒、それぞれ所在した。ほか、街道沿いには台陽寺や桂林寺など寺社群が多数林立し、宇都宮は、日光道中で最大の繁盛の地であった。
(以上、「Wikipedia」参照。)
先ほどより狭くなって車の量も一段と少なくなった道。道端には「蒲生君平」に関わるポスターが目につくようになります。

「蒲生君平花街道」をゆく。2018年生誕250年。
途中にあった標語。小学生としてはなかなか見事。「かさのかげ 見えない鬼が ひそんでる」。

東武宇都宮線のガードをくぐります。

ガードの先、右手にあるのが「蒲生君平旌碑」。


解説板。

蒲生君平勅旌碑
明治2年12月明治天皇は、蒲生君平の著した書物やおこないが明治維新に大きな功績があったとして「君平の人となりはまことに立派であるからこれを広く天下に表して庶民に知らせるように」との勅命を下しました。そこで、当時の宇都宮藩知事の戸田忠友が奉行となり、宇都宮の入口に「この地が蒲生君平の里である」という碑を建てました。
蒲生君平は、高山彦九郎、林子平とともに「寛政の三奇人」といわれた人で、明和5年(1768)宇都宮の新石町で生まれ、祖先は元宇都宮城主蒲生秀行(18万石)の弟正行(3千石)で、本姓は福田でありましたが、途中で遠祖の蒲生の姓を名乗りました。
歴代天皇の御陵が荒廃していることを非常に悲しみ、それらを調査して「山陵志」を著し修復の必要性を説きました。
また、朝廷の官職についてまとめた「職官志」や国防についてまとめた「不恤緯」などを著しました。しかし、その業半ばにして病にたおれ、文化10年(1813)7月5日に江戸で46才の生涯を閉じました。
左手前方を見ると、ひときは高い木が見えます。左に折れて近づくと、案内板に「とちぎ名木百選 新町のけやき」とあります。

この付近には多くの寺院が配され、宇都宮城下入口を固める防御線の役割も果たしていたという。
「不動前通り」から「蓬莱大黒通り」となると、左側に「熱木山不動尊」があります。

初代下野の国司である宇都宮宗円が、奥州征伐のときに戦勝を祈願して不動尊像三体を造成したうちの一体で、不動明王が鎮座しています。宇都宮城の安泰を祈って祀られたもののようです。星霜九百余年の歴史を持っているそうです。


「米兵質店」やけに新旧うまくマッチしたな店舗。

ただし、「べいへい」ではありません、「こめひょう」と読みます。
道が整備されて広くなって、街中に入って行きます。


更に材木町通りとなります。
