さて、小休止して、一路、「古河宿」へ向けて出発です。しばらく進むと、松並木もおしまい。振り返って望む。
右手の畑越しには、JRの線路。ちょうど貨物列車が通過中。![]()
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この辺りも「カサリーン台風」では大きな被害を受けています。赤いテープが剥がれかかっています。よく見ると、表示は2m以上。
道が少し狭くなり、植樹の種類が異なってきました。![]()
「カラオケ喫茶 昭和」。中から昔懐かしい演歌の歌声が。![]()
今度は普通電車が通過中です。![]()
振り返って望む。
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両側が小高くなっています。「大堤」という地名もあります。
「星ヒカリ 自転車ピカリ 帰り道」。![]()
右側には「吉田茶園」入口の看板。石塔もあります。
次第に街並みが出てきました。国道354号線を越え、少し上り坂を進むと、右手に「古河第二高校」。この校庭に日本橋から16里目の「一里塚」の碑があるというので見たところ、高いフェンスに囲まれてよく分かりません。ふと振り返ると道の角にありました。
鉄塔が建っているところ。
(13:46)左手には「十九夜」塔があります。![]()
振り返って望む。![]()
家に帰ってから調べてみると、これは「十九夜塔」がメインで「一里塚」ではなさそうです。「一里塚」はやはり校庭の中にあったようで、高いフェンスの内側の中、塚の上に大きな木が植わっているところ、ということでした。どうも結果的には早とちりであったようです。これから歩く方もご注意あれ!
「古河第二高校」正門を過ぎた右手に「祭禮道原口」碑。
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祭礼道
祭礼道とよばれる日光街道のバイパス道が市街地の東側に設けられ、原町口と横町口を結んでいた。雀神社例祭の際には、二丁目・高札場付近にお仮屋が建ち、出社したご神体のまわりに町民が集まっていたため、旅行者を迂回させて町民とのトラブルを防止した。藩主が土井利勝の頃に完成したと考えられている。明治12年(1879年)、米国元大統領・グラントが日光を訪れた際には、お仮屋を街道から離れたところに移動して、一行を通過させているので、このころから廃止されたと考えられる。
少し高台になっています。地名は「台町」。
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どこまでも平坦だった関東平野も次第に丘陵地帯に近づきつつあるようです。
広い道に合流すれば、その先はいよいよ「古河宿」になります。![]()
(14:02)入口には「常夜燈」のモニュメント。
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来た道を振り返って望む。
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松並木のある風景 日光街道
江戸時代、ここには松並木が整然と続き、数ある街道の中でも、もっとも美しい景観のひとつとして評されていました。
高低差のない平らなこの区間、松並木の間から見える白壁の古河城、そして富士山や筑波山、浅間山や男体山などは、多くの文化人や画家たちの漢詩、紀行文、絵画などに表現されています。
当時の松並木は、現在地よりも400㍍ほど南を起点におよそ5キロメートルにわたって続いていましたが、今ではその風情を伝えるものは残されておりません。
失われた景観を惜しみ、その歴史が未来に語り継がれることを願い、ここに松の植樹を行いました。
平成17年3月吉日 日光街道街並み景観づくり推進協議会
この表現からは、現在、中田地区に植樹されている松並木がまったく考慮されていないのが気になります。平成17年以降に松並木として若松が植えられたということなのでしょうか?
古地図からは利根川の北側・中田宿からこの手前まで、ほぼ直線道路の両脇に、松並木がおよそ5㎞続いていたことが分かります。
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1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
このように利根川を渡ったところ(→)から古河宿入口(← 解説板があるところ)の手前まで、沿道の約5㎞にわたって「松並木」がありました。現在の道もほぼ同じ道筋です。
ここからは「古河宿」内になります。
古河宿
日光街道の江戸・日本橋から数えて9番目の宿場。
江戸時代の全期を通じて、古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣・脇本陣は1軒ずつ設けられ、旅籠が31軒(大5,中6,小20)あった。宿内の家数は1,105軒、人口は3,865人であった。
将軍家による日光社参では、古河城は岩槻城・宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、日光街道における主要な宿場の一つであった。日光社参のときには、従者の数が膨大になるため、通常の宿泊施設だけでは足りずに、城下の武家屋敷や町屋も割り当てられた。宿場は日光街道沿いの台町・一丁目・二丁目・横町(現在の本町・中央町・横山町の一部)にあったが、渡良瀬川等による河川交通も発達していたことから、古河の町は日光街道から河岸へ向けて折れ曲がった石町・江戸町等にも広がり、T字型に形成されていた。
大名が宿泊する本陣は時期により異なるが、最もよく知られているのは二丁目にあったもので、現在、跡地には「本陣跡碑」がある。脇本陣も二丁目にあった。
古河城下・古河宿(江戸時代後期)
町割りの特徴は、古河城の主要な出入口が北側にあり、西側に渡良瀬川があることから、城下町・宿場町が城の北側と東側に集中していることである。また、このために城と上級武士の住居が低地にあり、町人や下級武士の住居が台地上となっており、他の城下に見られない個性的な景観をなしていた。
日光街道に面した町を「通町」と呼び、他は「脇町」と呼んだ。また町の発展に伴い、本町とされた通町・脇町から枝町が派生した。
電柱のない、すっきりした広い通りが一直線に延びています。
右手の畑越しには、JRの線路。ちょうど貨物列車が通過中。


この辺りも「カサリーン台風」では大きな被害を受けています。赤いテープが剥がれかかっています。よく見ると、表示は2m以上。
道が少し狭くなり、植樹の種類が異なってきました。

「カラオケ喫茶 昭和」。中から昔懐かしい演歌の歌声が。

今度は普通電車が通過中です。

振り返って望む。


両側が小高くなっています。「大堤」という地名もあります。
「星ヒカリ 自転車ピカリ 帰り道」。


次第に街並みが出てきました。国道354号線を越え、少し上り坂を進むと、右手に「古河第二高校」。この校庭に日本橋から16里目の「一里塚」の碑があるというので見たところ、高いフェンスに囲まれてよく分かりません。ふと振り返ると道の角にありました。


(13:46)左手には「十九夜」塔があります。

振り返って望む。

家に帰ってから調べてみると、これは「十九夜塔」がメインで「一里塚」ではなさそうです。「一里塚」はやはり校庭の中にあったようで、高いフェンスの内側の中、塚の上に大きな木が植わっているところ、ということでした。どうも結果的には早とちりであったようです。これから歩く方もご注意あれ!


祭礼道
祭礼道とよばれる日光街道のバイパス道が市街地の東側に設けられ、原町口と横町口を結んでいた。雀神社例祭の際には、二丁目・高札場付近にお仮屋が建ち、出社したご神体のまわりに町民が集まっていたため、旅行者を迂回させて町民とのトラブルを防止した。藩主が土井利勝の頃に完成したと考えられている。明治12年(1879年)、米国元大統領・グラントが日光を訪れた際には、お仮屋を街道から離れたところに移動して、一行を通過させているので、このころから廃止されたと考えられる。
少し高台になっています。地名は「台町」。


どこまでも平坦だった関東平野も次第に丘陵地帯に近づきつつあるようです。
広い道に合流すれば、その先はいよいよ「古河宿」になります。

(14:02)入口には「常夜燈」のモニュメント。


来た道を振り返って望む。


松並木のある風景 日光街道
江戸時代、ここには松並木が整然と続き、数ある街道の中でも、もっとも美しい景観のひとつとして評されていました。
高低差のない平らなこの区間、松並木の間から見える白壁の古河城、そして富士山や筑波山、浅間山や男体山などは、多くの文化人や画家たちの漢詩、紀行文、絵画などに表現されています。
当時の松並木は、現在地よりも400㍍ほど南を起点におよそ5キロメートルにわたって続いていましたが、今ではその風情を伝えるものは残されておりません。
失われた景観を惜しみ、その歴史が未来に語り継がれることを願い、ここに松の植樹を行いました。
平成17年3月吉日 日光街道街並み景観づくり推進協議会
この表現からは、現在、中田地区に植樹されている松並木がまったく考慮されていないのが気になります。平成17年以降に松並木として若松が植えられたということなのでしょうか?
古地図からは利根川の北側・中田宿からこの手前まで、ほぼ直線道路の両脇に、松並木がおよそ5㎞続いていたことが分かります。








1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
このように利根川を渡ったところ(→)から古河宿入口(← 解説板があるところ)の手前まで、沿道の約5㎞にわたって「松並木」がありました。現在の道もほぼ同じ道筋です。
ここからは「古河宿」内になります。
古河宿
日光街道の江戸・日本橋から数えて9番目の宿場。
江戸時代の全期を通じて、古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣・脇本陣は1軒ずつ設けられ、旅籠が31軒(大5,中6,小20)あった。宿内の家数は1,105軒、人口は3,865人であった。
将軍家による日光社参では、古河城は岩槻城・宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、日光街道における主要な宿場の一つであった。日光社参のときには、従者の数が膨大になるため、通常の宿泊施設だけでは足りずに、城下の武家屋敷や町屋も割り当てられた。宿場は日光街道沿いの台町・一丁目・二丁目・横町(現在の本町・中央町・横山町の一部)にあったが、渡良瀬川等による河川交通も発達していたことから、古河の町は日光街道から河岸へ向けて折れ曲がった石町・江戸町等にも広がり、T字型に形成されていた。
大名が宿泊する本陣は時期により異なるが、最もよく知られているのは二丁目にあったもので、現在、跡地には「本陣跡碑」がある。脇本陣も二丁目にあった。
古河城下・古河宿(江戸時代後期)
町割りの特徴は、古河城の主要な出入口が北側にあり、西側に渡良瀬川があることから、城下町・宿場町が城の北側と東側に集中していることである。また、このために城と上級武士の住居が低地にあり、町人や下級武士の住居が台地上となっており、他の城下に見られない個性的な景観をなしていた。
日光街道に面した町を「通町」と呼び、他は「脇町」と呼んだ。また町の発展に伴い、本町とされた通町・脇町から枝町が派生した。
電柱のない、すっきりした広い通りが一直線に延びています。
