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Channel: おやじのつぶやき
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御茶屋口。御馳走番所。肴町。坂長。・・・(「日光道中」をゆく。その24。)

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 (14:05)いよいよ「古河宿」の中心部へ。車の通りも少なく、落ち着いた街並みです。

         
      道の左右にはこうした「行燈」のようなモニュメントがあって、名所・旧跡を案内、解説してくれます。

古河公方 足利成氏
 古河の歴史を彩る重要人物は数あれど、日本の歴史上、戦国時代の幕を開けた初代「古河公方」足利成氏(1434?~1897)ほどのビッグネームは見当たらないかもしれない。公方ということばが将軍の異称であることを考えても、成氏の権力と存在感の大きさは、容易に想像できるであろう。
 成氏の父、持氏は、室町幕府開祖の足利尊氏の子基氏にはじまる鎌倉公方の4代目であった。将軍6代目への継承に野心を抱いていた持氏は、幕府への叛逆を企てるも「永享の乱」に敗れて自刃、その後公方不在の関東の情勢が不安定となると、幕府は、成氏を鎌倉公方に任命している。
 しかし父の遺志を受け継ぐかのように、成氏は、幕府へ対抗しはじめ、「享徳の乱」を契機に鎌倉から古河へ移座、「古河公方」を自称した。成氏は、30年に及ぶ享徳の乱後も鎌倉に復帰することなく、古河の地で没。以後、江戸時代に至るまでの130年間、古河は5代にわたる古河公方足利氏の拠点となり、独自の文化を育んでいくのである。

菓子処「清水屋」さん。

「御茶屋口」という道標。



御茶屋口と御成道

 「御茶屋口」、旧日光街道に面するこの口の名前は、かつてこの地に存在したとされる「御茶屋」に由来している。それは日光社参(徳川将軍が、神君徳川家康を祀る日光山へ参詣する行事のこと)に伴い将軍の休憩所として設けられたとされるが、江戸初期のごくわずかな期間に存在したと推定されるこの建造物について、今のところ、記録として残る略図以外にその詳細はわからない。
 ところで、徳川将軍の日光社参は江戸時代を通じて19回おこなわれているが、古河城は、道中における将軍の宿城となることが通例であった。将軍の古河入城に利用された「御成」の入り口がこの御茶屋口である。
 そして、「御茶屋口」から続く将軍御成の道は、諏訪郭(現歴史博物館)を北側に迂回、その後、幅180メートルに及ぶ「百間掘」を渡す「御成道」を経由して城内に至る。杉並木で飾られた「御成道」と城内との接点には、石垣で堅牢に守られていた「御成門」が将軍をお迎えした。
 なお、将軍休憩の御殿というべき「御茶屋」破却後、その場所の一角には、「御茶屋口番所」が置かれている。これは、古河城下を通行する格式の高い大名や幕府閣僚たちの挨拶に対応する役人の詰所であり、明治維新を迎えるまで存続した。

  平成20年1月  古河市教育委員会


    

 実は、ここに来るまでの間、何カ所も史跡・解説板の下に設置されていた郵便受けのような箱の中には、大きな観光記念スタンプが入っています。スタンプラリー風に楽しめるという趣向です。

西側の通りを望む。行く先に「古河城」があります。

こちらはそのまま街道歩きを続けます。

古民家を活かした「レストランサンローゼ」。



枕河盆踊歌♪
 ハア~古河の名所は(ヨーイヨーイ)お雀さまよ
   おがむその手で(コラショ)
   アレサ盆踊り(アリャアリャアリャサ)
 ハア~日光街道の(ヨーイヨーイ)松の葉みやれ
   枯れて落ちても(コラショ)
   アレサ二人連れ(アリャアリャアリャサ)
 ハア~幸手栗橋(ヨーイヨーイ)古河るる身なら
   心関宿(コラショ)
   アレサゆうきじま(アリャアリャアリャサ)

奥くには土蔵造りの建物。

(14:17)その先で左の脇道に入ると、古い建物が並んでいます。

「御馳走番所 米銀」。

 その左隣には、「古河藩使者取次所址」の石碑が立っています。

史蹟 古河藩使者取次所址 
 使者取次所ハ本碑ノ西ニ接續セル元肴町約五十坪ノ地内ニ在リテ御馳走番所トモ呼ビ町役人大年寄ノ詰所ニシテ十萬石以下ノ大名城下通行ノ際ハ其取次ヲ行ヒ藩廳ヨリハ掛員出張シテ應待セシ役所ニテ明治四年廢藩置縣ト同時ニ廢廢止セラレタリ本碑ハ地元壹丁目熊本藤兵衛舩江豊三郎両氏寄贈ノ資ニ依リ之ヲ建ツト云

     昭和十二年六月吉日 茨城縣古河史蹟保存會長 同古河町壹丁目總代

「米銀」の向いに肴町の説明板が掲げられています。

肴町の由来
 その昔、元和の5年(1619)に奥平忠昌公が古河城主として移封された時代のことです。
 忠昌公は、お城の増築や武家屋敷の拡大のために町屋の大移動をはかり、中心部に新しいまちづくりを行いました。後の大工町や壱丁目、石町、江戸町等は皆その時に名付けられたものです。
 江戸時代に古河城下を通過する諸大名は、使者を派遣し挨拶をしに参りました。古河藩からは役人が出向いて歓迎の接待をしたものです。その役所のひとつに使者取次所があり、別名を御馳走番所と言いました。現在米銀の在る処がそれで、今の中央町二丁目麻原薬局角から中央町三丁目板長本店の間、道巾3間半、長さ22間5尺の通りは、「肴町」と呼ばれるようになりました。
 以来、この肴町通りは古河城裏木戸を経て城内にお米やお茶、お酒をはじめその他の食糧品を供給し、城内との交流の道として栄えて参りました。
 今日、食糧品を扱う大きな店の構える通りとなっているのもその縁でありましょうか。
 歴史の重さがしのばれます。

     肴の会

  「米銀 銀の蔵」。


 左手奥には「坂長」・「泉水亭」。

    

   「袖蔵」。

 四つ辻の角地に位置する2階建ての土蔵で、隣接する店蔵と棟を直交して建つ。外壁は白漆喰塗り、屋根は切妻造、桟瓦葺きとする。旧古河城乾蔵を移築したものと伝えられ、牛梁に「文久三年癸亥五月吉日」の墨書がある。店蔵とともに古河城を偲ぶ数少ない遺構である。

国の登録有形文化財に指定されています。

 庭の方に回ってみます。
 
    
      店の裏手。食事をするところ。落ち着いた雰囲気です。


    

石蔵
 屋敷の端に位置する長大な元2階建ての石蔵。外壁は大谷石の切り石積みとし、出入口の両脇柱及びまぐさに長大な一石の切り石を用いる。屋根は切り妻造り、桟瓦葺きとし、2階には窓を設ける。北関東における石蔵の中で、大規模な部類に属する。

 ここは、多目的ホールのような造りに改造されていて、舞台が設置されてあります。たまたま、ここで「詩」の会(朗読会)を企画している方々が下見に来ていました。気に入ったようすで、予約をするつもり。マイクなどはないそうですが、声は響く感じで、なかなかすてきだ、と。
 東海道や中山道でもこうした古い土蔵造りの建物でJazzなどを演奏する案内など見かけましたが、すばらしい試みだと思います。



 まだまだ見所満載の古河宿です。

・「鷹見泉石記念館」
・「繍水草(しゅうすいそう)堂」
・福法寺の山門「旧古河城乾門」

など。

(14:26)それらはまたの機会にして、古河駅に向かいました。

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