追込坂。甘酒茶屋。於玉坂。白水坂。天ヶ石坂。・・・(箱根路。その6。)
そのまま、ゆるやかな県道を上ると、バス停。 バス停「猿滑坂」。 実は、県道のすぐ下を通る道が「須雲川自然探勝歩道」。先ほどの分岐点を左にとる道筋。 「案内図」。 その最後の詰めにある坂が「猿滑(さるすべり)坂」。 「西海子坂」「橿木坂」と並んで箱根街道きっての急坂といわれていたところ。「殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす。」と、難所らしい坂の名の由来がある。...
View Article「箱根馬子唄」碑。二子山。権現坂。元箱根。一里塚。・・・(箱根路。その7。)
旧街道の石畳道が続く。先ほどよりは歩きやすく、芦ノ湖から「甘酒茶屋」お目当ての観光客も行き来。 右手に小さな広場があり、「箱根馬子唄」碑がある。 箱根八里は馬でも越すが こすに越されぬ大井川 この広場からは木が邪魔で見えにくいが「二子山」が右手にある。 説明板。 「二子山について」...
View Article箱根旧街道杉並木。「箱根八里」碑。箱根関所。・・・(箱根路。その8。)
杉並木を進みます。 「箱根旧街道杉並木」碑。 「説明板」。 そこには、東海道では唯一のもので、第二次世界大戦中に伐採されそうになったこともあった、現在では国指定史跡として保護され、約420本の杉の大木が残されている、とのことなどが記されている。...
View Article『そして誰もいなくなった』(「 And Then There Were None」)アガサ・クリスティ
そしてみんないなくなった 浅尾代表が解党会見(朝日新聞) - goo ニュース 以前、民主党の政権転落後のドタバタ劇について、掲載した記事。今回また載せます。 『そして誰もいなくなった』(原題: 「Ten Little Niggers」 のちに改題「 And Then There Were None」) 1939年に刊行されたアガサ・クリスティの代表的な長編推理小説。...
View Article向坂。赤石坂。・・・。挟石坂。こうして風吹き荒ぶ「箱根峠」。(箱根路。その9。)
前日の雨もすっかり上がり、好天。けれども、風が吹き荒れる、そんな12月2日。箱根宿から三島まで歩きました。 「旧箱根路西坂」。 「箱根湯本」駅に着いたのが、朝9時少し前。平日とあって人も少ない。しかし、前夜来の強風、そのため、観光船もロープウエーも運行せず、との張り紙。戸惑う観光客も何人か。...
View Article兜(甲)石坂。山中新田一里塚。接待茶屋。雲助徳利の墓。・・・(箱根路。その10。)
さて、これから「三島宿」に向かって気を引き締めて・・・。 門柱に「箱根旧街道」の看板。 大型トラックが停まっている駐車場をぐるりと石畳道を進む。その一角に「新箱根八里記念碑(峠の地蔵)」。 8人の女性の手による一言がそれぞれ刻まれている。橋田壽賀子さんの「おしん 辛抱」とか・・・。 ここからは、神奈川県から静岡県に入る。 駐車場のはずれで国道から離れ、県道を進みます。 振り返って望む。...
View Article山中城跡。富士見平。三島大吊り橋。「笹原一里塚」。・・・(箱根路。その11。)
「歩道橋」を渡ると、「山中新田」、山中城跡。 向かって左からやって来た道を振り返って望む。 「史跡 山中城跡」。 山中城跡は、文献によると、小田原に本城があった北条氏が、永禄年間(1558~1570)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。...
View Articleこわめし坂。小時雨坂。題目坂。臼転坂。初音が原松並木。錦田一里塚。・・・(箱根路。その12。)
「こわめし坂」は、アスファルトで舗装された道だが、予想以上にきつい下り坂が続く。上るときはいかに大変かが想像できるような坂。雨の日では上りも下りも足元が滑りそう。途中の農家。ちょうど大根の収穫期、選別作業中。庭先に大根を干してある家がここかしこに。...
View Article新町橋。「三島宿」。「水辺の文学碑」。・・・(箱根路。その13。)
「愛宕坂」を下って行くと、JR東海道本線の踏切。ここは、すでに「JR東海」のエリア(御殿場線、「函南」駅~)。 「旧東海道踏切 118K832M」。 東海道本線の踏切を渡るのは、「保土ケ谷宿」以来? (「戸塚宿」の大踏切には渡線橋が完成していた) 「保土ケ谷・東海道踏切」。ここは、東京駅からまだ32㎞付近。すでに100㎞を超えている。...
View ArticleDo n't forget (Wasurenaide)・・・。
(写真は、HPより) 7月の時のお約束通り、「JR日暮里駅改札口。5時集合」。いつものメンバー「じじばば」が集まりました。集まったら、その時にその人数で場所を予約する、という約束。 5時前に着いたら、まだ1人。でも、事前に連絡をくれた方もいるので、ま、7人くらいで予約すれば、いいだろう、と長年のカンでエスカレータを下って、駅前の居酒屋に予約。...
View Article読書「忠臣蔵 赤穂事件・史実の肉声」(野口武彦)ちくま学芸文庫
元禄15年12月14日(1703年1月30日)、赤穂浪士(最近、「浪士」という言い方にクレームがついたらしい、「義士」だと。この書の筆者ではないが、世間の「忠臣蔵」に引きずられているのでは? )の一団が本所・吉良邸を急襲、吉良上野介の首を取り、主君の仇を晴らした、という「事件」現場跡が、「本所松坂町公園」。その1年有余前は、この事件の発端となった刃傷沙汰、「江戸城内松の廊下」が事件現場であった。...
View Article本陣跡。時の鐘。三島広小路。農兵節。境川。千貫樋。・・・(三島から片浜へ。その1。)
12月10日。まだまだ太平洋側は晴れが続くだろうと思って、やってきました。しかし、三島で降りる頃には、怪しい雲行き。このコースは、富士山を展望しながら、と思っていました。が、雲の向こうに、白雪の頂が時折見えるだけ(白と白で肉眼でかろうじて判別できるが、携帯ではまったく区別がつかない)。 寄り道もしたので、「原」までとの当初の目的を果たせず、その途中まで。何とか雨にだけは遭わずにすみました。...
View Article常夜燈。伏見一里塚。対面石。沼津日枝一里塚。三枚橋。・・・(三島から片浜へ。その2。)
旧道らしい道筋が続きます。 「こうじ製造所」という看板を掲げた古いたたずまいの家。 通りの右手にある常夜燈。 その左先には、細かい絵入りで、個人の手による親切な行き先案内板。 「一里塚」間の距離と時間を示してくれていて、便利。この図では次の一里塚(29番目)は地名から「新宿一里塚」とあった。 築百年のおうち。目下、補強工事中らしい。...
View Article川廓通り。沼津城址。本陣跡。千本浜。西方見附跡。・・・(三島から片浜へ。その3。)
沼津市は、明治維新後の区画整理や二度の大火のため、「沼津城」をはじめ、江戸時代の城下町・宿場町の痕跡はほとんど残っていないようです。また、第二次大戦での米軍の空襲によって大きな被害を受け、その後の復興整備等もあって、いっそう失われてしまいました。 《沼津城》 「沼津城」は、もともと「三枚橋城」廃城後につくられた。...
View Article蛇松緑道(国鉄・蛇松線跡)をたどる。(三島から片浜へ。その4。番外編。)
そのまま西へ向かうと、交差点。そこに、右斜めからから左斜めに道路を横断する緑道が。カーブになっていて、これは、間違いなく廃線跡。 帰宅後、調べると、 沼津駅と狩野川河口にあった沼津港の間に建設された国鉄沼津港線(蛇松線)が昭和49年8月に廃線となったことに伴い、線路敷地(白銀町~狩野川河口の蛇松町までの約1.8キロメートル)が緑道として整備されました。...
View Article沼津藩領境傍示杭。松長一里塚。・・・(三島から片浜へ。その5。)
再び、旧道に戻って西に向かう。まだ2時過ぎ。それでも、9時過ぎから、途中、コンビニのおにぎりを食べただけで、ほとんど休まずにここまで。そろそろくたびれてきた。 「六代松」の碑は道の反対側にあった(あるはずな)ので、見逃してしまう。 県道を横断。この辺りの地名は「間門(まかど)」。...
View Article原宿。富士山の霊水。原一本松一里塚。・・・(片浜から富士まで。その1。)
北日本を中心に大荒れの天気だった12月17日(水)。静岡地方は、一応マークになっていたので、「旧街道からの富士山」見たさにやってきました。 しかし、富士山は裾野が見えるのみ。晴れていても厳しい西風に向かって歩き続けるはめに。名古屋地方が大雪で大変だった様子。たしかに、はるか西の方は雲で一面白く、富士山の中腹から上もすっかり覆われています。晴れてはいてもこれでは!...
View Article「望嶽碑」。昭和放水路。沼田新田一里塚跡? 田子の浦。・・・(片浜から富士まで。その2。)
この先の「柏原」地区は、原と吉原の「間宿」(間の宿)だったようだ。この富士市の案内碑がこれから随所に。 しばらく進み、交差点を右手に行くと、JR「東田子の浦」駅。その手前にあるのが、 「六王子神社」。 伝説 「三股の伝説」 昔、沼川と和田川と潤井川とが合流し深い渕になっている所を「三股」と呼んでいました。...
View Article(元)(中)吉原宿。依田橋一里塚? 左富士。・・・(片浜から富士まで。その3。)
「吉原宿」は、三度、宿場の中心が移っている。 「吉原宿」は当初現在のJR吉原駅の東付近にあった(元吉原)が、1639年(寛永16年)の津波により壊滅的な被害を受けたことから、再発を防ぐため内陸部の依田橋付近に移転した(中吉原)。 しかし1680年(延宝8年)8月6日の津波により再度壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町「新吉原」に移転した。...
View Article「平家越(え)の碑」。(新)吉原宿。鯛屋旅館。・・・ (片浜から富士まで。その4。)
しばらく休憩して、出発。学校帰りの小学生たちがじろっと見ながら通り過ぎる。ぼんやり休んでいて「暇な」おじいさんだなあ! ・・・。 しばらく進み、二叉に分かれた道を左手に。「平家越え橋」の手前、右手に「平家越」の碑。 平家越...
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