沼津市は、明治維新後の区画整理や二度の大火のため、「沼津城」をはじめ、江戸時代の城下町・宿場町の痕跡はほとんど残っていないようです。また、第二次大戦での米軍の空襲によって大きな被害を受け、その後の復興整備等もあって、いっそう失われてしまいました。
《沼津城》
「沼津城」は、もともと「三枚橋城」廃城後につくられた。
永禄3年(1560)、今川義元の桶狭間での敗北による今川氏の衰退は、諸国の諸大名による今川領への進入を招いた。西からは徳川氏、北からは武田氏が遠江、駿河に攻めてきた。また、東の後北条氏も武田氏に対抗して駿河に進攻した。後北条氏と武田氏は駿河中部から東部にかけて数度の戦いを繰り広げた。
この頃の武田氏の、駿河における拠点の一つが三枚橋城であった。三枚橋城は現在の沼津の駅南部にあり、本丸を二の丸、三の丸、外郭が狩野川に面した東南部を除いて同心円上に囲む構造になっていた。同城の築城時期については、信玄生存中の元亀元年(1570)には既に築城されていたという説が有力で、同城の城主としては高坂源五郎が名高い。
このような武田氏の駿河における拠点であった三枚橋城も、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、同城は徳川氏に明け渡され、家康の子、松平忠吉とその後見役の松平康親が入城している。
以後、慶長6年(1601)には徳川の家臣大久保忠佐が城主となり、2万石を与えられた。しかし、忠佐死後、後継者がないことを理由に慶長19年(1614)には廃城となった。
三枚橋城廃城後の沼津は、駿府領に編入されて代官支配となったが、安永6年(1777)水野忠友が2万石で沼津に城地を与えられ、沼津水野藩が誕生する。
沼津城は以前の三枚橋城を利用して築城されている。城の南北は現在の野村證券の通りから静岡銀行沼津支店あたりで、大手門はうなぎの浜作本店あたりに造られ、本丸は中央公園辺りにあった。かつて三枚橋城の城内であった上土町や川廓町には、新たに往還道がつくられた。ただ、三枚橋城と比べ規模は小さい(1/2)。
明治になって城は沼津兵学校の校舎に使用されたが、間もなく廃校となり、明治5年(1872)に城は県で競売に付し解体され、同22年(1889)、東海道線開通に伴い、南北に縦貫道路が設けられた。その後、沼津は2回の大火に遭遇し、城の堀は埋められ、その面影を偲ぶことはできなくなった。


築城当時のようす。太く赤い線が東海道。 現在のようす。川は「狩野川」でかつてと流路にほぼ変化がない。
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現在、「大手町」という地名が残るだけで、本丸跡は中央公園として整備され「沼津城本丸址」の碑が建つ。ここまでほぼ完全に破壊された城も珍しいといわれる。
《沼津城》の記事に出ている「沼津兵学校」。
《沼津兵学校》
「沼津兵学校」は、1868年(明治元年)、フランスに倣った軍隊を目指すという目標を掲げ、沼津城内の建物を使って徳川家によって開校された兵学校のこと。初代学長は西周であり、教師は優秀な幕臣の中から選ばれた。
1870年(明治3年)に兵部省の管轄となり、1872年(明治5年)には政府の陸軍兵学寮との統合のため東京へ移転したが、併設された付属小学校は、現在の沼津市立第一小学校の前身である。沼津兵学校は日本の近代教育の発祥であるとも言われる。
教授科目は、『博物新論』『地理全誌』『瀛環志略』『孫子』を論講した。英語、フランス語のうち一科による会話、文典をはじめ、万国地理、究理概略(物理と化学)、天文、万国史、経済説大略を講じた。数学科では代数、幾何、三角、実地測量にプランセット、セキスタントなどの練習を課した。
歩兵学校、砲兵学校、築造将校などの諸科を分かち、それぞれ近代科学的内容の科目をたてて教育訓練を行った。予備校として設立された小学校の科目は、素読、学書、算術、地理、体操、講釈、聴聞の6科を本科とし、剣術、水練を随意科として課した。
語学関係には渡部温、乙骨太郎乙などの著名な学者を教授とし、また未だ普及の遅れていた近代の数学を積極的に教えたところから、「数学の沼津」と言われ、軍隊の中でも工兵、砲兵などの理系の知識を必要とする分野に、多く人材を提供した。
(以上、「Wikipedia」参照)
《沼津市への空襲》
軍需工場が集中したため、沼津市はアメリカ軍の中小地方都市空襲の標的となった。
昭和20(1945)年4月11日の空襲では、午前11時半ころ通横町、吉田町、下河原などに爆弾が落とされた。現在も御成橋の橋柱に残る傷痕は、このとき橋の西北端に落ちた爆弾によるものである。また、4月23日には郊外の海軍技術研究所周辺に爆弾が落ち、女子挺身隊として勤務していた女性らが亡くなった。
5月4日には、郊外の東熊堂に、次いで5月17日には三枚橋、平町に爆弾が投下され、11人が死亡した。5月28日にも同地区に空爆があった。
7月17日未明の空襲は、「沼津大空襲」と称され、274人の死者、505人の重軽傷者という大きな被害を出した。70機を超える数の戦闘機から9,000発以上の焼夷弾が投下され、沼津市は市街地面積の89.5%を焼失した。燃え上がる炎は隣接する三島市をも明るく照らすほどであった。また、千本浜海岸に逃げた人たちは、機銃掃射に狙われ命を落とした。町の姿は一夜にして変貌し、駅から海が一に見渡せるほどであった。
8月3日の沼津駅付近への空襲が沼津への最後の空襲であった。

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さて、かつての沼津宿の中心部へ。
大通りから左に入り、狩野川沿いの石畳状の舗装道「川廓通り」を進む。

川廓町は志多町と上土町との間の東海道往還沿いにあって、東側は狩野川に接し、背後は沼津城の外郭に接した狭い町であった。
「川廓」は「川曲輪」とも記し、狩野川に面した城郭に由来して名付けられたものと考えられる。



この説明板の右手奥に「中央公園」(沼津城本丸跡)。そこで、早めの昼食休憩。


「沼津城本丸址」。周囲の石は、付近で工事の際に発見された、三枚橋城の石垣に使われていたもの。
「川廓通り」を進み、突き当たりの大通りを左に向かう。ビルの建ち並ぶ繁華街

いきなり出くわすのがこれ!

腰掛けるのにはいささか勇気が要りそう。


城下町らしく、道は、左、右、左と角ごとに曲がって進んで、「本町」へ。この付近には、「本陣」、「脇本陣」があった。



右に折れると、まっすぐな道が西へ。ここまで来ると、市内の繁華街から旧街道筋の雰囲気に。
たどってきた道を振り返る。

「するが茶どころ」の看板。


「浅間神社」脇にある「千本浜公園」への案内板。 古い道標「千本濱海水浴場」。
ここを左に曲がっていくと、「千本浜」へ。そこで、ちょっと寄り道。




海岸から富士山方向を望む。

晴れていれば、こんな風景が目に飛び込んでくるはず。

狩野川河口から田子の浦にかけて広がる千本松原は、松の常緑と白雪をいただいた富士山、そして駿河湾の彼方に沈む夕陽といった美しい自然で知られ、白砂青松100選にも選ばれた景勝地です。戦国時代には武田氏と後北条氏の戦いで切り払われましたが、名僧・増誉上人が5年の歳月をかけて植え直したと伝えられています。また、千本松原の一部は公園として整備され、松林の中を散策したり、この地を愛した文人たちの記念碑を見ることができます。
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はるかかなたに白雪に覆われた山々。南アルプス南部? (↓)。
冬空の下、何人かが海岸を散策、語らう人達・・・。晴れていれば、さぞかしすばらしい景観に違いない。
再び旧東海道に戻ってくる。さきほどの分岐点の先に、

浅間町の西続きの旧東海道沿いの町を出口町と称している。
沼津宿の出口に当たることから付けられた地名であろう。
宿の出口には、見張り番所としての見付があり、その西外側の土地ということで地名であろう、この地の見付(領主番所)は、西見付で東見付は、現在の平町にあった。
(付則)沼津水野藩巡見道筋絵図には、見付は「御見附」と書かれ、この地の南付近にあったと思われる。 沼津市
