「吉原宿」は、三度、宿場の中心が移っている。
「吉原宿」は当初現在のJR吉原駅の東付近にあった(元吉原)が、1639年(寛永16年)の津波により壊滅的な被害を受けたことから、再発を防ぐため内陸部の依田橋付近に移転した(中吉原)。
しかし1680年(延宝8年)8月6日の津波により再度壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町「新吉原」に移転した。
このため、海沿いを通っていた東海道は元吉原宿先で海から離れ、内陸部に大きくカーブすることになり、それまで(江戸から京に向かった場合)右手に見えていた富士山が左手に見えることから、「左富士」と呼ばれる景勝地となった。
(以上、「Wikipedia」参照)
東海道には二ヶ所あって、もう一つは「南湖の左富士」(茅ヶ崎)(紹介済み)。

かつての宿場町の面影はなく、静かな住宅街。

小学校のある左手一帯(南から西側にかけて)は小高くなっていて、津波に襲われることはなさそう。元吉原宿の中心は、JR吉原駅の南東側の海岸寄りにあったようだ。「田子の浦」は深く内陸部に入り込んでいて(現在も)、大津波で低地にあった東海道沿いが甚大な被害を受けたという印象。
また、JR吉原駅北西側に位置する「中吉原宿」も、入江に注ぐ河川があり、海から押し寄せる津波の影響は受けやすい土地柄であった、と思われる(「東日本大震災」の時のように、大津波が川を遡上する)。


「立場(たてば)」という名称に興味を持った。
「立場」とは、江戸時代、次の宿場町が遠い場合の途中に、また峠のような難所がある場合その難所に、休憩施設として設けられたもの。茶屋や売店が設けられ、馬や駕籠の交代を行なうこともあった。藩が設置したものや、周辺住民の手で自然発生したものもある。
この「立場」が発展し、大きな集落を形成し、宿屋なども設けられたのは、間の宿(あいのしゅく)という。
ここは、妙法寺参詣者のための宿泊施設とも考えられるが、「吉原宿」が遠く内陸部に移ったために、かつての宿場の名残と旅人の便宜を図るための施設名であったと考えると、「立場」という名称に歴史を感じる。


「日本製紙鈴川工場」。東海道線の向こう側にある大きな製紙工場の煙突。

東海道線の踏切を越えるために、右折。旧東海道は、そのまま線路方向に。



「鈴川踏切」。 沼津方向を望む。
本日、三回目の踏切通過。しばらくは「東海道線」ともお別れ。内陸部に歩みを進める。次は、富士川駅付近で出会うことに。

その踏切を渡った通り沿いにぽつんと残された民家。

旧街道沿いにある建物のような雰囲気。

「ここは鈴川本町」との表示。かつての駅名は「鈴川」だった。左手奥が吉原駅。とっくの昔、当初、駅の南にあった宿場町が北西に移転し、それに伴って東海道の道筋も大きく変更、さらには明治に入って鉄道が開通し、旧来の町並みは分断され、住宅と工場がある閑散とした街並みに。

「沼川」に架かる「河合橋」を越える。

正面左手が「田子の浦港」。そして、臨港工業地帯が広がっている。
道なりに左に曲がって行く。正面には、雲が無ければ白雪の富士山の姿が。



松の大木がぽつんと。その下に「東海道」と「名勝左富士 (中)吉原宿跡」の標識。周囲は工場。「中吉原宿」の位置は、ここよりもっと西側、「富士署」東、現八代町付近にあった。「中吉原」時代、東海道も西北に進んでいた。そのため、「左富士」という景勝地はなかった、はず。
大通りに合流し、国道1号線と新幹線の高架下にある「依田橋西交差点」を右奥の方に曲がると、いよいよ「左富士」の地へ。

このあたり(現「左富士神社」付近)に「依田橋一里塚」(日本橋から34番目)があったという。これで、二ヶ所連続、「一里塚」跡(碑)を見ることができなかった。
道路を渡った正面が「名勝 左富士」。残念ながら正面に富士山は見えず。


東海道 名勝 左富士
東海道を東から西へ行くとき、富士は右手に美しい姿を見せますが、この辺りは松並木の間から左手に見えることから “左富士” と呼ばれて、街道の名勝となりました。
浮世絵師安藤広重が描いた風景画「東海道五十三次内吉原」は左富士の名画であり、彼の道中日記に「原、吉原は富士山容を観る第一の所なり。左富士京師(京)より下れば右に見え、江戸よりすれば反対の方に見ゆ。一町ばかりの間の松の並木を透して見るまことに絶妙の風景なり。ここの写生あり。」と記されています。今日、周辺には工場、住宅が建ち並び、浮世絵に見るのどかな風情はありませんが、わずかに残る1本の老松は往時の左富士をしのぶものとして、大変貴重です。
昭和61年2月1日 富士市教育委員会


原より3里6町。吉原の宿駅は,むかしはこれより東南にあったが,延宝8年(1608)8月6日の暴風雨のさいにながされたので,翌々天和2年に現在の地にうつされたとつたえられている。このあたりに一カ所左に富士が見える場所がある。東海道を西に上るさい,富士はつねに右側に見えるのであるが,このあたりで道が大きく右折し,そのため富士が左に見える。左富士といってとくに興味をもたれたのである。図はそれをしめしている。美しい松並木をこどもをのせたウマが尻を見せていく。
(「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)


往時の松並木とは比すべきもないが、小休止して富士山を眺めるのはいいポイント。今日はまったく見えず、残念!
このあいだ、箱根峠からの下り。旧東海道が工事中のため通れず、「富士見平」付近から国道一号線に迂回して歩いたときに、思いがけず「左富士」を眺めたせいなのか・・・、「左富士」の地が三ヶ所は、ないから。
今の東海道(国道1号線)には、何カ所か「左富士」となるところがありそうだ。