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Channel: おやじのつぶやき
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与瀬宿~吉野宿~関野宿~上野原宿。その7。(「甲州街道」をゆく。第4日目。)

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 静かな集落を進むと、左手に自動販売機。ベンチに座ったとたん、自販機から「・・・いかがですか」と声が聞こえてきます。ビックリ! そこで、飲み物を購入して、しばし休憩。向かいは、「諏訪神社」の境内。緑濃き、大きな杉並木になっています(13:30)。

     

これは新しい「馬頭観音」。

どっしり構えた大きな屋敷が目立ちます。


              

「油屋」という屋号のおうち。

 (13:36)右手に大きな「旧甲州街道」碑。
 脇に「あいさつをかわす思いやりの道」「昔をしのぶ思い出の道」と刻まれています。

「中央道」を陸橋で渡ります。

 左手奥、台地の遥か下の「桂川」沿いにJR「上野原駅」があります。
 渡ってすぐ右手の「塚場一里塚」跡を見てから左折し、「中央道」沿いに進めば、駅まではさほどの苦労もなかったのですが、そのまま「上野原宿」に向かいました。
 そのため、上野原駅に行くために、「上野原宿」(新町二丁目交差点)から延々下り坂を歩くことに。約20分、最後は長く急な下り階段が続き、いかに「上野原宿」が高い台地上にあるかを否応なしに感じさせられました。

(13:40)真っ赤な鳥居と社の「疱瘡神社」。疱瘡(主に「天然痘」をさす)神を祀った神社。

疱瘡神(ほうそうがみ、ほうそうしん)
 疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神で、疫病神の一種である。
 平安時代の『続日本紀』によれば、疱瘡は天平7年(735年)に朝鮮半島の新羅から伝わったとある。当時は外交を司る大宰府が九州の筑前国(現・福岡県)筑紫郡に置かれたため、外国人との接触が多いこの地が疱瘡の流行源となることが多く、大宰府に左遷された菅原道真や藤原広嗣らの御霊信仰とも関連づけられ、疱瘡は怨霊の祟りとも考えられた。
 近世には疱瘡が新羅から来たということから、三韓征伐の神として住吉大明神を祀ることで平癒を祈ったり、病状が軽く済むよう疱瘡神を祀ることも行われていた。
 「笠神」、「芋明神(いもみょうじん)」などの別名でも呼ばれるが、これは疱瘡が激しい瘡蓋を生じることに由来する。
 かつて医学の発達していなかった時代には、根拠のない流言飛語も多く、疱瘡を擬人化するのみならず、実際に疱瘡神を目したという話も出回った。明治8年(1875年)には、本所で人力車に乗った少女がいつの間にか車上から消えており、疱瘡神除けのように赤い物を身に付けていたため、それが疱瘡神だったという話が、当時の錦絵新聞『日新真事誌』に掲載されている。
 疱瘡神は犬や赤色を苦手とするという伝承があるため、「疱瘡神除け」として張子の犬人形を飾ったり、赤い御幣や赤一色で描いた鍾馗の絵をお守りにしたりするなどの風習を持つ地域も存在した。疱瘡を患った患者の周りには赤い品物を置き、未患の子供には赤い玩具、下着、置物を与えて疱瘡除けのまじないとする風習もあった。赤い物として、鯛に車を付けた「鯛車」という玩具や、猩々の人形も疱瘡神よけとして用いられた。
 疱瘡神除けに赤い物を用いるのは、疱瘡のときの赤い発疹は予後が良いということや、健康のシンボルである赤が病魔を払うという俗信に由来するほか、生き血を捧げて悪魔の怒りを解くという意味もあると考えられている。江戸時代には赤色だけで描いた「赤絵」と呼ばれるお守りもあり、絵柄には源為朝、鍾馗、金太郎、獅子舞、達磨など、子供の成育にかかわるものが多く描かれた。
 江戸時代の読本『椿説弓張月』においては、源為朝が八丈島から痘鬼(疱瘡神)を追い払った際、「二度とこの地には入らない、為朝の名を記した家にも入らない」という証書に痘鬼の手形を押させたという話があるため、この手形の貼り紙も疱瘡除けとして家の門口に貼られた。
 疱瘡は伝染病であり、発病すれば個人のみならず周囲にも蔓延する恐れがあるため、単に物を飾るだけでなく、土地の人々が総出で疱瘡神を鎮めて外へ送り出す「疱瘡神送り」と呼ばれる行事も、各地で盛んに行われた。鐘や太鼓や笛を奏でながら村中を練り歩く「疱瘡囃子」「疱瘡踊り」を行う土地も多かった。
 また、地方によっては疱瘡神を悪神と見なさず、疱瘡のことを人間の悪い要素を体外に追い出す通過儀礼とし、疱瘡神はそれを助ける神とする信仰もあった。この例として新潟県中頚城郡では、子供が疱瘡にかかると藁や笹でサンバイシというものを作り、発病の1週間後にそれを子供の頭に乗せ、母親が「疱瘡の神さんご苦労さんでした」と唱えながらお湯をかける「ハライ」という風習があった。
 医学の発達していない時代においては、人々は病気の原因とされる疫病神や悪を祀り上げることで、病状が軽く済むように祈ることも多く、疱瘡神に対しても同様の信仰があった。疱瘡神には特定の祭神はなく、自然石や石の祠に「疱瘡神」と刻んで疱瘡神塔とすることが多かった。疫病神は異境から入り込むと考えられたため、これらの塔は村の入口、神社の境内などに祀られた。これらは前述のような疱瘡神送りを行う場所ともなった。
 昔の沖縄では痘瘡のことをチュラガサ(清ら瘡)といい、痘瘡神のご機嫌をとることに専念した。病人には赤い着物を着せ、男たちは夜中、歌・三線を奏で痘瘡神をほめたたえ、その怒りをやわらげようと夜伽をした。地域によっては蘭の花を飾ったり、加羅を焚いたり、獅子舞をくりだした。また、琉歌の分類の中に疱瘡歌があり、これは疱瘡神を賛美し、祈願することで天然痘が軽くすむこと、治癒を歌った歌である。形式的には琉歌形式であるが、その発想は呪術的心性といえよう。
 幕末期に種痘が実施された際には、外来による新たな予防医療を人々に認知させるため、「牛痘児」と呼ばれる子供が牛の背に乗って疱瘡神を退治する様が引札に描かれ、牛痘による種痘の効果のアピールが行われた。種痘による疱瘡の予防が一般化した後も、地方によっては民間伝承における疱瘡神除けの習俗が継承されていた。
 21世紀に入っても、赤い御幣などの疱瘡神を家庭で祀っている例があり、疱瘡神の加護によって疱瘡を患うことのなかったことの感謝の念が今なお残っているものと見られている。
 茨城県では土浦市田宮地区の疱瘡囃子が、鹿児島県では薩摩郡入来町(現・薩摩川内市)や大浦町(現・南さつま市)などで行われていた疱瘡踊りが、それぞれ県の無形民俗文化財に指定されている。
                                          (以上、「Wikipedia」参照)
注:天然痘(てんねんとう、smallpox)
 天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つ。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高く、それまで流行していなかった地域においてはさらに致死率が跳ね上がるため、時に国や民族が滅ぶ原因となった事すらある。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残すことから、世界中で不治の病、悪魔の病気と恐れられてきた。世界で初めて撲滅に成功した感染症でもある。

奥州街道を歩いたときには「麻疹地蔵堂」という祠がありました。注:麻疹:「はしか」のこと。
                                          
そこに「塚場一里塚」跡の解説板があります。日本橋から18里目。

上野原市指定史跡 塚場一里塚
 この一里塚は、江戸時代、甲州街道に一里(約4㎞)ごとに築かれた塚の一つです。江戸日本橋から18番目・18里にあたり、甲斐国(山梨県)に入って最初の一里塚です。疱瘡神社の裏手にある小高い塚が一里塚と言われています。塚は直径約9㍍、高さ約3㍍の円丘です。古老の話によると、塚の上にカヤの木が植えられていました。
 一里塚は旅人がもう1里、もう1里と距離を知りながら旅をしたり、塚の木陰でひと休みする場所でした。また人夫や馬を借りるときの駄賃を決める基準にもなり、明治34年(1901)中央線が開通するまで大いに利用されました。
 この一里塚は、古墳時代に築かれた塚場古墳群の一部とも言われています。・・・

 塚跡そのものは、神社裏手のところにあるようです。明治に入って「一里塚」跡に「疱瘡神社」が出来たのか? それとも、この付近では、現在の旧甲州街道自体が江戸時代の道筋とは少し異なっているのか? 「中央道」の建設によって変化したとも思えますが。
  
そこから「上野原宿」方向を望む。

(13:48)「新町」交差点で右から来る「国道20号線」と合流します。旧道を振り返って望む。
             

「大ケヤキの街 うえのはら」。

(13:52)「新町二丁目」。今回はここまで。「上野原駅」に向かいます。

ここから延々下り坂+階段(約2㎞)を「上野原駅」まで。けっこうかかりました。駅到着が14:13。

ホームから北を望む。

南を望む。

 次回は、「上野原」駅から「鳥沢」駅、あるいは「猿橋」駅までか? JR線から離れての歩き旅です。

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