そのまま「国道20号線」を進むと、左手に「明泉学園相模湖セミナーハウス」、その先に「名倉入口」という信号。そこを左へ下って行くのが旧道です。

豊かな自然。

「甲州古道 下小渕下」。

急坂を曲りながら「相模川」方向へ下りていきます。

下ったところに架かっている橋が「境沢橋」。かつては「相模」と「甲斐」との国境でした。現在は、神奈川県相模原市藤野町と山梨県上野原市の県境。



この橋は、相模川に流れる支流の上に架かる橋。
相模川に架かる「堤川橋」が前方にあります。そこからの相模川(相模湖)。

「上野原市」(県境)の標識。

甲州街道はこの橋を渡らず、Uターンするように急な坂(「乙女坂」というとか)を上って行きます。旧道としてはかなり違和感のある道筋。本来、「境沢橋」(国境)を渡ったあと、もっと手前から上っていったのではないかと思われます。

けっこうな急坂で、何回もターンしながら上って行きます。眼下に相模川・相模湖。

坂を登り切った右手に「諏訪関(番所)」跡。


「解説板」には「諏訪番所」とあり、年代を追ってその経緯が記されています。。
諏訪番所
戦国時代に武田氏が小田原北条氏などからの防備のために設置したのが起源とされます。武田氏滅亡後は天正10年(1582)に徳川家康が甲斐国郡内地方(山梨県東部地域)を領した鳥居元忠へ武田時代の通りに取締まるよう命じたといわれます。この時の番所の詳細は不明ですが、近世初頭の郡内地方からの川下げの取り調べは上野原宿本陣の加藤氏が担っていたといいます。
その後、宝永4年(1707)に番所は相州との国境付近の台地の東端、境川近くに移転しました。そのため諏訪番所は境川番所ともいわれます。諏訪番所は本来、甲州街道を往来する旅人の取り調べが任務でしたが、郡内地方から川を下って出される材木や高瀬船の積荷を検査し、関税ともいえる「冥加永」を徴収する業務もおこなっていました。
(この項は、

「甲州街道史跡案内図」。

上って来た道を振り返る。

関所(番所)があったらしい高台は、「上野原自動車教習所」の敷地になっています。


「上野原」は相模川(山梨県内では「桂川」)の河岸段丘上にあって、用水が勢いよく流れています。


ここは「上野原宿」の手前に当たる土地ですが、旧道筋には家が建ち並び、車の通行も少なく、静かで落ち着いた雰囲気のところ。

右手に「船守寺」。


門前の石碑に「日蓮大聖人伊豆御法難の危機を御救い申した船守弥三郎殿 伊東川奈船守山蓮慶寺より分骨の地」とあります。当寺と分骨との関連が?
船守弥三郎記念碑
故郷を捨て、伊豆国伊東の浦に住み着いて漁師となった諏訪の弥三郎は、弘長元年(1261)5月12日漁から帰る時に、日蓮をまないた岩の流罪から救った。日蓮は別れ際に弥三郎の海上安全を祈って、船守の守護を授けた。以来人々は彼を「船守の弥三郎」と呼びその徳を讃え、その名は天下に知れ渡ったという。昭和30年、伊東市蓮慶寺から弥三郎の骨を分骨し、ここに記念碑が建てられた。新町の植松菓子店では、「船守もなか」を販売しているそうだ。鎌倉には弥三郎の子の日実(弥三郎本人ともいう)が開山の妙長寺がある。
なるほどここの出身だったというわけですね。
その先、「二十三夜塔」などの石碑群。
