吉野宿(神奈川県相模原市)
甲州街道11番目の宿場。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒と小さな宿であった。この辺りは桂川(「相模川」上流の名称)に由来して「桂の里」と呼ばれていた。
下り坂の途中に「高札場」跡碑があります。「高札場」がここにあるということは、宿場内では人が行き交う、けっこう中心的な場所のはずです。かつては下の街道(現:国道)から丘の上にかけて宿場町が形成されていたのでしょう。小規模な宿場でしたが、飯盛り女がたくさんいたという話も。

(11:27)そこから国道へはすぐ。

右手に「吉野宿本陣」。


吉野本陣
此処、藤野町吉野238番地吉野家は、江戸時代甲州街道吉野宿本陣・名主であり、現在でも屋号を「本陣」と呼びます。吉野家の由緒は弘安年間に遡り、承久の乱(1221年)の時、一族は天皇方に従い、宇治勢田で北条義時を討ったが闘いに敗れ、故郷を去りこの地に住み着きました。
江戸時代に関東五街道制定と共に参勤交代の大名宿泊のため、街道宿駅名主の家を本陣に定め、道中奉行の統制のもと公用人馬の中継ぎを行わせていた。江戸時代末期の本陣は、木造5階建ての偉容を誇り、明治13年明治天皇行幸の際は行在所となり、陛下はこの2階で昼食をされたとの事であります。建物は明治29年暮れの大火で焼失したが、当時侍従であった神奈川県令の書と天皇御出立直後の写真が今も保存されています。
現在のようす。



向かい側に「郷土資料館・吉野宿ふじや」。


明治29年の大火で宿場全焼、その後現在は郷土資料館として地域の歴史文化を学ぶ場とする為に再建されました。
かつては甲州街道10番目の宿場・吉野宿の旅篭「ふじや」として大変賑わったそうです。
1階はかつての「ふじや」の模型の側は畳部屋となっており、ご自由に休憩して頂けます。2階には地元で出土した土器や当時の人々が用いていた生活用具、そして養蚕業に関する展示がされています。
(「相模原市観光協会」HPより)
中に入って休憩兼見学。
かつての宿場のようす。

「相模川」の河岸段丘上にあったことがわかります。
現在のようす。

祝日のせいか、車の通りもほとんどなく、国道沿いとは思えない、静かで落ち着いた街並み。
壁には宿場の一覧表が宿間の旅程と共に掲げられています。



(11:34)「東京から68㎞」ポスト。



(11:47)しばらく進むと、「吉野橋」。

「小猿橋」の解説板。

小猿橋 小猿橋は、現在の吉野橋よりやや南寄りにあり長さ14間(約25㍍)幅2間(約3.6㍍)高さ5丈8尺(約25㍍)の欄干付きの板橋でした。この橋は、山梨県大月市の猿橋と工法も形も同じで、その規模が少し小さいことから「小猿橋」と呼んだと言われております。
元禄11年(1698年)の記録によれば、橋の周辺の地形・地質が悪く迂回路の場所がないため、架け替え工事が非常に困難であった。その工事費は江戸幕府の支出で行われ、額は400両であった。その後、次第に工事費は減り、文久2年(1862年)には70両となり、徐々に幕府の支出はなくなっていった。地元では、人馬通行橋銭の徴収、宿場の貸座敷や旅籠の飯売り下女からの割銭等を財源として架け替え工事を行っていた。その折、八王子千人隊、萩原頼母を組長とする一部が工事中の警備・木材搬出の式に当たったと言う。
明治初年からは総て官費で行われるようになり、明治中頃には上流約500㍍の地点に「新猿橋」という木橋ができた。大正8年、道路法制定と共に甲州街道は国道8号線となり、昭和8年8月の吉野橋の完成に伴い小猿橋、新猿橋は消滅した。
注:上流500㍍というと、宿場(旧甲州街道)からかなり遠くなり、道筋としては考えられない。数字の間違いではないか。
橋の下では釣り人が。

「沢井川」上流を望む。
