(11:05)そのまま道なりに下って行くと、中央道を越える橋に出てきます。「相模湖インター」出口という標識付近に当たります。

沿道のおうちには色とりどりのお花が咲きそろっています。


下る途中、右手に道標。車道は観福寺を迂回するように進みますが、ここから脇道に入ります。これが旧道ということのようです。



(11:12)目の下にJRのトンネルが見えて来ます。線路敷設の為、この道も一部付け替えられたような印象。

再び車道に合流し、右に進みます。その付近に道標。「椚戸(くぬぎと)」。

本来の旧道は車道を越えて沢筋をそのまま直進したものと思われます。

しかし、車道をそのまま進みました。しばらく下ると、左手から先ほどの旧道が合流してきます。しっかりした道だったようです。

その先、左手に「二十三夜塔」などの石碑群。中に「蚕影山(こかげさん)」と刻まれた石碑が目立ちます。

この石碑は茨城県つくば市にある「蚕影山神社(こかげさんじんじゃ)」と関連あり。
蚕影山信仰は、中世末期から養蚕業が日本の基幹産業であった昭和中期まで、長く現役性を保った。「養蚕家の崇敬頗る厚く、遠近より参拝するもの極めて多し」とある。しかし、往古の信仰は、養蚕業の急速な衰退とともにした。
(以上「Wikipedia」参照)
以下は「www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/3160/doso.html」HP参照。
3.蚕影山と養蚕信仰
山梨県甲府盆地の東部に位置する峡東地方では、集落の辻に道祖神と共に「蚕影山」と文字を刻んだ石碑が祀られている事が多い。この蚕影山(こかげさん)は、山梨で養蚕が盛んに行なわれるようになった江戸時代中期から、養蚕の神様として信仰を集めてきた。その本社は、現在の茨城県つくば市神部の蚕影神社であり、山梨県では、「シルクの里」を町のキャッチフレーズとする豊富村に分社された蚕影山神社があり、現在でも厚く信仰されている。それ以外にも、養蚕地帯であった東京多摩地区、神奈川、埼玉、群馬、長野、福島などに分社がある。
養蚕は、江戸時代には、稲作の合間の現金収入の重要な手段として、主に女性によって行なわれた。ところが、蚕は病気に弱く、雨に濡れた桑の葉を食べさせただけでも病気になると言われた(発狂蚕等)。このため、消毒薬剤のない時代にあって、雨天の日の露切りには神経を使い、ついには、人間の生活する部屋を蚕室に切り替え、家そのものを養蚕のために改造する養蚕農家様式(切り妻出窓屋根様式)が峡東地方で誕生するに至った。
人間と同じ屋根の下で蚕が一緒に暮らすことで、農民の蚕に対する愛着はいっそう深まり、養蚕の安全を祈ることが切実であった。このため、蚕を「かいこ」とは呼ばず、必ず「おかいこさん」と大切に呼びならわしたものである。ついには、外部から押し寄せてくる疫病や魔障を防ぎ、地域の繁栄を守ってくれる道祖神とともに、養蚕の神様である蚕影山を一緒に祀ることは、せつない農民の心でもあった。
養蚕農家では、爾を出荷するばかりでなく(主に江戸、京都方面)、自分の家で繭を煮て、生糸取りをし機織りまで行い、より現金収入の増加を図ったり、家族の着物、夜具などをまかなった。
峡東地方では、家庭での糸繰りは昭和30年代頃まで、おばあちゃんの仕事として、一般的に行なわれていた。こうした養蚕に伴う収入は、ある程度女性のへそくりにも認められていたようだ。
現代でも、養蚕に関しては、農家の婦人(姑、嫁)が技術的な面で指導的立場にあった。けし粒のような蚕種の掃き立てから蚕が繭をつむぐための上簇(じょうぞく)まで、弱い生き物を相手に、細かい心遣いを必要とする命を育む技である。どうしても、女衆が寝る間も惜しんで、「お蚕さん」の様子を観察しながら、男衆に作業を指示する形となった。その昔、封建時代とはいっても、現金収入を養蚕に依存していれば、養蚕農家では女性の立場が強くなって当たり前。山梨県内で、「甲州名物かかあ天下にからっ風」といわれる理由は、そこにあった。もっとも、昭和50年代前半以降、養蚕が全県下で(いや全国で)衰微してしまった今では、死語となってしまったのかもしれない。
なお、神奈川県下で残っていた養蚕業者は2010年度にすべて廃業したようです(ただし、一軒のみ続けているという情報もあり)。以前、北関東地方一帯で桑畑が見られ、養蚕業特有のおうちも見かけたが、現在ではほとんど見かけなくなりました。
(11:24)しばらく進んで、相模湖方向を望むと、対岸に先ほどのホテルが見えます。

足下には国道20号線が。

いよいよ「吉野宿」に近づきます。