Quantcast
Channel: おやじのつぶやき
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2703

与瀬宿~吉野宿~関野宿~上野原宿。その2。(「甲州街道」をゆく。第4日目。)

$
0
0
 山に行くのか、キャンプに行くのか、満員のバス、人々。それらを尻目に「国道20号線」を進みます。同好行らしい姿はいません。しばらくして左手に「セブンイレブン」が見えたら、右手の坂道を上ります。
 (10:26)その曲がり角に「明治天皇與瀬御小休所趾」。

この裏手に「与瀬本陣」跡の大きなおやしき。

急坂を上ると、「慈眼寺」。左手に「与瀬神社」と続きます。


二十三夜塔。 

 「月待行事」という民間信仰の一種。
 十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事。江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行した。
 特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広くみられる。十五夜塔も多い。群馬・栃木には「三日月さま」の塔も分布しており、集まる月齢に関しては地域的な片寄りもみられる。
 二十三夜塔は、旧暦23日の月待の記念として、二十三夜講中によって造立された塔である。月待を行う日は、毎月23日、あるいは正月、5月、9月、11月の23日など、地方によって異なる。他の月待塔は地域による分布の偏りがあるのに対し、二十三夜塔は日本全国に分布している。文字塔と刻像塔があり、刻像は勢至菩薩が多い。二十三夜待は「三夜待」「三夜供養」のように二十を省略して呼ばれることがあり、文字塔には「念三夜」と刻むものがある。
                                     (以上、「Wikipedia」参照)
 旧街道歩きでは随所でよく見かけます。「馬頭観音」もたくさん。

馬頭尊。

住宅地の中、石垣に沿って進むと、中央道の石垣にぶつかります。その先の階段を下りていきます。
振り返る。

(10:35)「中央道」をくぐって国道脇を進むと、右手にラーメン店があります。旧道はラーメン屋さんの裏手を進んでいて、その道が復活しているようですが、入口を見つけられず。


もう一度「中央道」をくぐって、右手の坂を上って行きます。来た道を振り返って。


そのまま坂道を。右から合流する道が旧道のようです。写真では右手の坂を上って来ました。


「甲州道中 横道」。

 ここまでの感想ですが、一部の区間を除いて「旧甲州街道」は鉄道敷設、「中央道」建設、それに伴う道路整備などでかなり消失・寸断されてしまった感がします(地元の努力で部分的に復活されているところもあり)。狭隘な土地に、鉄道、高速道路、さらには土地開発ということで仕方がない面もありますが。 
 旧宿場、集落などを通過する道や峠道の一部以外は旧道ではなさそうな印象です。
 石仏などもまとまっているところが目立ちますが、旧道沿いにバラバラにあったものを一カ所にまとめた、というような印象。
 無論、このことは甲州街道に限ったことではありません。現代の旧街道歩きは、かつての姿を垣間見する楽しみがあります。
 さらに、歩きの人間にとって、日光近くまでの「日光街道」、高崎までの「中山道」(「板橋宿」付近の方が標高は高い! )、ゴールまでの「水戸街道」と異なって、「甲州街道」は、「内藤新宿」(標高約40㍍)を出てから、思った以上にけっこうアップダウンが続く街道です。直線で平らな道の部分はほとんどありません。膝に負担も出てきそうな道のり。
(余談ですが、高崎線・高崎まで、東北線・宇都宮まで、常磐線・水戸までにはトンネルがありません。中央線は八王子を過ぎるとトンネル続き。)

「相模湖」を望む。

「相模湖」は1947年(昭和22年)に完成した人工湖。それによっても旧道は湖の底に消失していたり、付け替えられてしまっています。今見る景色と江戸時代当時ではまったく異なるもののはずですね。

(10:45)目の下には中央道、相模湖湖畔のホテル。リゾートタウン。遠くに見える橋は、「勝瀬橋」。


            

石仏群。

左手に工場。

 

   

しばらく峠道の上りが続きます。道標「甲州道中 橋沢」。この付近で「藤野」町になります。のんびりと歩けます。


(10:59)住宅地に近づくと、左手の道を降りて行きます。(写真では写っていない一番左の坂道)


道標「子の入」。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 2703

Trending Articles