(12:19)街道の右手には「高札場」が復元されています。


高札場・上町問屋場跡
江戸時代を通じてこの辺りには高札場・上町の問屋場・二軒の脇本陣などがあり、倉賀野宿の中心街をなしていました。
高札場は、問屋役兼年寄の須賀長太郎家(須賀長)の前にあり、高さ3.6m、屋根付きの大きなもので、幕府の禁令や高崎藩のお触れなどの高札が十数枚掲げられていました。
問屋場は、宿場の重要施設で、幕府が定める公用の人馬及び物資・書状などの継ぎ送りを主要な業務とする一種の役所でした。
倉賀野には三ヶ所の問屋場があり、各月の上旬は中町、中旬は上町、下旬は下町の閣問屋場が十日間ずつ務めました。
上町の問屋場は、ここ須賀長の前に設けられ、毎月中旬の十日間、毎日問屋一人、年寄一人、帳付一人、書役二人、馬差一人以下二十人ほどが勤務していました。

「高札場」の裏手に、一本の樅の木と解説板が。


安政3年(1855)3月、倉賀野宿が大火に見舞われ、一面、焼け野原になったが、ただ一軒焼けなかった。どこからか大天狗が現れ、楓の木から樅の木と飛び移って迫ってくる猛火を鎮めた、という。その楓と樅の古木は枯れ、現在の樅の木に植え替えられたそうです。(かなりの長文の解説文なので、要約)
宿場独特の間口が狭く、奥行きが長い敷地がそのまま今も。

ところどころにしっかりした古いおうちが。

しばらく進むと、安楽寺境内に異形板碑がいくつか。


板碑は中世仏教で使われた供養塔のこと。板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものである。
分布地域は主に関東であるが、日本全国に分布する。設立時期は、鎌倉時代~室町時代前期に集中している。分布地域も、鎌倉武士の本貫地とその所領に限られ、鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられている。現代の卒塔婆に繋がる。
板碑は地域・時代等により形態や石材に多様性があり、地域間交流を知る考古資料として注目されている。(以上「Wikipedia」参照)
ここの板碑は室町時代のもので、砂岩でできた将棋の駒形をしています。なお、「安楽寺」付近が倉賀野宿上の木戸(京側出入口)があった場所らしい、とのこと。
(12:30)少し先の「上町西交差点」に『一里塚』跡の解説板。


中山道の一里塚跡
一里塚は、江戸幕府が慶長9年(1604)に江戸日本橋を起点として、東海道や中山道などの主要街道の一里ごとに、道の両側に築かせた道標です。
ここにあった塚は日本橋から26番目のもので、規模は径が約15m、高さが約4.5mほどの小山で、頂上に榎木が植えられていました。そのため、「一里山」と呼ばれていました。
明治になり道路改修が進むにつれて塚は次第に崩され消滅してしまいました。
「一里山」という地域名は「東海道」でもおなじみでした。道路が広く整備された時に解説板が設置されたようです。

この先、右手には「松並木」が続きます。最近整備されたようで、若い松の木が植えられています。


(12:49)ドラッグストアや車屋さんが並ぶ街道を進むと、左手前方にこんもりした森が見えてきます。「浅間山古墳」です。の裏手を斜めにあぜ道を進むと古墳に登ることが出来るようですが、「ダイハツ」さんの駐車場から遠景をパチリ。

全長171.5mの前方後円墳。後円部の直径105.5m、高さ14.1m。前方部の長さ66.3m高さ5.5m(現状は畑地)。周囲の環濠部は現状、畑地や水田となっている。築造された年代はおよそ1,200~300年ほど前。4世紀末から5世紀初頭。地方豪族の墳墓と考えられている。群馬県内では2番目の大きさ。

1880年代のようす。○が「浅間山古墳」。上の街道が「中山道」。長い(杉)並木になっている。

右手に「旧中山道」の標識。

左手には高崎駅名物「だるま弁当」の工場。

(13:02)この先で旧道は広い道路から右の道に入って行きます。

途中行き止まり。その先で再び右に入って行きます。路地裏のような道ですが、先達の案内ですとこれが旧道らしい。再び合流すると、そこに「旧中山道」という古びた矢印があります。
①


③


(13:06)分岐点から振り返って望む。

「高崎宿」に向かいます。


(13:29)そこを越えて、次の交差点。

(13:35)新幹線の高架橋をくぐり、「上信電鉄」の線路を越えると、「高崎宿」。
