高崎宿は、城下町だったことで本陣や脇本陣もなかったようです。
高崎宿(たかさきしゅく)
中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて13番目の宿場。また、高崎宿から三国街道が分岐しており、その起点の宿場。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、高崎宿の宿内家数は837軒、本陣および脇本陣は設けられておらず、旅籠のみ15軒が設けられ、宿内人口は3,235人であった。
(歌川広重)
(以上、「Wikipedia」より)
「三国街道」は「本町1丁目」交差点から「中山道」と分岐して北に向かう街道。
ちなみに、日本橋から「現・中山道」として進んできていた「国道17号線」とも「君が代橋」東詰でお別れ。「国道17号線」は「三国街道」の一部を継承しつつ、新潟に向かいます。「旧中山道」は、その先、「国道18号線」とつかず離れずで進みます。
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広い通りを進みます。 振り返って望む。特に宿場町らしい特徴はなし。
高崎駅広場で小休止して、再開。
高崎駅西口からの中心街の一画「連雀町」。![]()
「連雀町の由来」碑。![]()
連雀町の由来は、行商人が各地から蘞著(れんじゃく・荷物を背負う道具で連尺とも書く)で荷物を背負って城下町に集まり、商いが行われた町を蘞著町と名付けられ、俗に連著町・連雀町と書かれるようになったと伝えられており、時の城主井伊直政が箕輪から高崎へ移城とともに高崎城大手町前に移し、旧名をそのまま変えず連雀町とした。
ここは高崎城下の中央に位置し城主から特に優遇された町で、町割りを決めるとき、最初に連雀町の位置を決め、それから各町の地割りをした。
さらにこの町の店は、清潔な品物を売買するよう城主からきめられていた。また一時この地に本陣がおかれ、ここを通過する諸大名が休憩したり宿泊をした。
高崎の散歩道より
「連雀町」は、「掛川」「浜松」「岡崎」など、東海道中の城下町でもなじみの町名です。いずれも上のような共通の根拠があります。
村上鬼城俳句・英訳句。 念力の ゆるめば死ぬる 大暑かな
村上 鬼城 むらかみ きじょう(1865〜1938) 境涯句を詠み続けた高崎が生んだ近代俳句の巨星
痩馬の あはれ機嫌や 秋高し
いささかの 金ほしがりぬ 年の暮
麦飯に 何も申さじ 夏の月
鬼城の句は、人生の悲惨事をなめつくして初めて得られるところに特徴があり、これを「境涯の句」と呼んで評価したのは、大須賀乙字という俳句評論家です。大正6年に出版された『鬼城句集』の序文で、「明治大正の御代に出でて、能く芭蕉に追随し一茶よりも句品の優った作者がある。実にわが村上鬼城である」と述べています。
実際、鬼城俳句には人生について深く考えさせられる作品が多くあります。
五月雨や 起き上がりたる 根無草
蟷螂の 頭まわして 居直りぬ
など、優れた写生力に加えて、冒しがたく凛とした気品が漂います。
浅間山の 煙出て見よ 今朝の月
雹晴れて 豁然とある 山河かな
郷土色が豊かににじむ句も多彩に残したこともあり、郷土の人々に愛され、旧高崎市内には一五基の句碑が建立されています。
また、鬼城は高崎はもとより、利根・沼田、藤岡、前橋、桐生、中之条など県内各地や愛知、大坂など県外の俳句結社などに直接・間接的に大きな影響を与えました。
村上鬼城は慶応元年7月20日、鳥取藩士の小原平之進の長男として、江戸藩邸に生まれました。祖父小原平右衛門は大坂御蔵奉行を務め、家禄五百石を受けていましたが、その後三代養子が続いて禄を減らされ、父平之進の時には350石となりました。それでも立派な武士の家柄でした。しかし、明治維新後に父が県庁官吏の職を得て、前橋に移住。一年ほど後に高崎に居を移しました。
鬼城は本名を荘太郎といいました。明治8年、11歳で母方村上源兵衛の養子となり、村上を名乗るようになりました。幼少時代の夢は軍人になることで、その目的に向かって勉強に励みましたが、19歳の時に耳疾を患い、あきらめて司法官を志します。
24歳でスミと結婚し、二人の娘を授かったのも束の間、父を亡くすとすぐにスミも27歳の若さで病死します。耳の状態が悪化し悲嘆にくれる中で、司法官も断念した荘太郎は、法律の知識を生かし、高崎裁判所の代書人(現在の司法書士)となりました。
「鬼城」という雅号の由来は、先祖の地・鳥取にある古城「鬼ヶ城」にちなんだもの。鬼城が俳句に熱中し始めたのは、代書人になった30歳の頃からです。日清戦争に従軍するため広島の大本営にいた正岡子規に手紙で俳句の教えを乞いました。
子規の提唱する俳句の革新に共鳴した鬼城は、明治30年に『ホトトギス』が創刊されると、投句に専念しました。「詩歌というものが弱音を吐くために必要になってきて、何かと胸中のムシャクシャを言い表わそうとする」と、鬼城は述べています。32歳でハツと再婚し、二男八女の子宝に恵まれますが、生活は楽ではありませんでした。
大正2年の春、ホトトギス派の重鎮である高浜虚子・内藤鳴雪を招き高崎で盛大に句会が開催されました。この句会で、脚光を浴びた鬼城は、作句に熱心に取り組み『ホトトギス』の雑詠欄に頭角を現していきます。
大正5年、52歳のときに、耳の疾病の悪化から代書人の職を追われますが、法曹界に関係のある俳人数名の訴えで、約1年後に復職することができました。これ以降、地方の俳句雑誌からの選者依頼、指導を求めてくる人からの添削料など、俳句による収入を得るようになりました。大正6年に出版された『鬼城句集』は広く支持を得て、家計にも大きな恵みをもたらしました。ここには鬼城の代表作とされるもののほとんどが納められています。
昭和2年、鬼城が64歳のとき、高崎鞘町の鬼城庵が全焼。虚子などの著名人をはじめとする俳人たちが、鬼城庵再建の具体策を進めて、翌年に高崎並榎町に新居が完成しました。当時はすそ野が広がる榛名山と向き合い、遠く浅間・妙義の峰も望める高台という環境で、鬼城はここで絵を描く楽しさに親しむようになりました。また「並榎村舎」と称して、俳句活動の拠点とし、後進の指導にあたりました。(現在は、村上鬼城記念館として公開されています)
鬼城の主たる活動の場は、新聞『日本』・『ホトトギス』・『山鳩』等の紙誌ですが、中でもホトトギスでは巻頭18回を占め、巻頭作品だけでも205句という俳句が選ばれました。これらの作品の多くは「鬼城自画賛」として書と俳画に残されています。その抜群の造形力やバランス感覚は、近代俳画の最高峰を示すものとして、今日、改めて注目を浴びています。
(
HPより)」
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高崎は周辺の農村で生産される白絹の取り引きで賑わいました。その「絹市場」の雰囲気を今に伝える飲食を主とした「市場」が再現されています。
絹市場の由来
高崎生絹大織売買所は通称「絹市場」と呼ばれ、田町絹市場(現在地)西隣に位置しました。明治27年田町に建築され、その後すぐ高崎商業会議所が設立、ここに同居する。
高崎は周辺の農村で生産される白絹の取り引きが早くから行われ、五、十の日に市が立った。絹市場はこうした取り引きを一定の場所で構成に行う為にあり、又、多くの取引業者で半値委を見せ、「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」と歌にも歌われたことを思い、絹市場の名称を残すことにした。
(14:37)本町3丁目の交差点を左折します。![]()
黒い重厚な印象の土蔵造りのおうち。![]()
こんな造りのお店も。![]()
「旧中山道」は、「本町1丁目」交差点で国道354号と離れてまっすぐ「赤坂通り」という細い道に入ります。この交差点が「三国街道」との分岐点。
「赤坂通り」。
(14:52)左手に煉瓦造りの煙突。
「岡醤油醸造」。
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岡醤油醸造の事務所と煙突
岡醤油は、天明7年(1787)に現みどり市大間々に創業した岡直三郎商店の支店として、明治30年(1897)開業しました。平成に入り、醤油の製造は岡直三郎商店に依頼していますが、事務所は創業当時の店舗がそのまま使用されています。
中山道に面した店舗らしく、屋根の下部分には京風造りを代表する虫籠窓が残っています。揚げ戸や古いガラスを使用した戸などが見られ、明治時代を伝える数少ない建物なので、中山道を歩く人や、町めぐりの人たちが訪れ、テレビの旅番組や雑誌、新聞でも取り上げられたり、映画のロケ地としても何度も使われるなど、昔の良き時代を知る場所となっています。
裏手に見えるレンガ造りの煙突は、昭和初期に修復された記録がありますが、現在も町のシンボルとして地元で愛されています。
その向かい側にあるのが「山田文庫」。![]()
その先の「常盤町」を右折し、烏川方向に向かいます。「ボーリング」などの施設があるスポーツセンターを過ぎると、道が広くなります。
右手奥に三層? の建物は「常仙寺」。![]()
高崎宿(たかさきしゅく)
中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて13番目の宿場。また、高崎宿から三国街道が分岐しており、その起点の宿場。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、高崎宿の宿内家数は837軒、本陣および脇本陣は設けられておらず、旅籠のみ15軒が設けられ、宿内人口は3,235人であった。

(以上、「Wikipedia」より)
「三国街道」は「本町1丁目」交差点から「中山道」と分岐して北に向かう街道。
ちなみに、日本橋から「現・中山道」として進んできていた「国道17号線」とも「君が代橋」東詰でお別れ。「国道17号線」は「三国街道」の一部を継承しつつ、新潟に向かいます。「旧中山道」は、その先、「国道18号線」とつかず離れずで進みます。


広い通りを進みます。 振り返って望む。特に宿場町らしい特徴はなし。
高崎駅広場で小休止して、再開。
高崎駅西口からの中心街の一画「連雀町」。

「連雀町の由来」碑。

連雀町の由来は、行商人が各地から蘞著(れんじゃく・荷物を背負う道具で連尺とも書く)で荷物を背負って城下町に集まり、商いが行われた町を蘞著町と名付けられ、俗に連著町・連雀町と書かれるようになったと伝えられており、時の城主井伊直政が箕輪から高崎へ移城とともに高崎城大手町前に移し、旧名をそのまま変えず連雀町とした。
ここは高崎城下の中央に位置し城主から特に優遇された町で、町割りを決めるとき、最初に連雀町の位置を決め、それから各町の地割りをした。
さらにこの町の店は、清潔な品物を売買するよう城主からきめられていた。また一時この地に本陣がおかれ、ここを通過する諸大名が休憩したり宿泊をした。
高崎の散歩道より
「連雀町」は、「掛川」「浜松」「岡崎」など、東海道中の城下町でもなじみの町名です。いずれも上のような共通の根拠があります。

村上 鬼城 むらかみ きじょう(1865〜1938) 境涯句を詠み続けた高崎が生んだ近代俳句の巨星
痩馬の あはれ機嫌や 秋高し
いささかの 金ほしがりぬ 年の暮
麦飯に 何も申さじ 夏の月
鬼城の句は、人生の悲惨事をなめつくして初めて得られるところに特徴があり、これを「境涯の句」と呼んで評価したのは、大須賀乙字という俳句評論家です。大正6年に出版された『鬼城句集』の序文で、「明治大正の御代に出でて、能く芭蕉に追随し一茶よりも句品の優った作者がある。実にわが村上鬼城である」と述べています。
実際、鬼城俳句には人生について深く考えさせられる作品が多くあります。
五月雨や 起き上がりたる 根無草
蟷螂の 頭まわして 居直りぬ
など、優れた写生力に加えて、冒しがたく凛とした気品が漂います。
浅間山の 煙出て見よ 今朝の月
雹晴れて 豁然とある 山河かな
郷土色が豊かににじむ句も多彩に残したこともあり、郷土の人々に愛され、旧高崎市内には一五基の句碑が建立されています。
また、鬼城は高崎はもとより、利根・沼田、藤岡、前橋、桐生、中之条など県内各地や愛知、大坂など県外の俳句結社などに直接・間接的に大きな影響を与えました。
村上鬼城は慶応元年7月20日、鳥取藩士の小原平之進の長男として、江戸藩邸に生まれました。祖父小原平右衛門は大坂御蔵奉行を務め、家禄五百石を受けていましたが、その後三代養子が続いて禄を減らされ、父平之進の時には350石となりました。それでも立派な武士の家柄でした。しかし、明治維新後に父が県庁官吏の職を得て、前橋に移住。一年ほど後に高崎に居を移しました。
鬼城は本名を荘太郎といいました。明治8年、11歳で母方村上源兵衛の養子となり、村上を名乗るようになりました。幼少時代の夢は軍人になることで、その目的に向かって勉強に励みましたが、19歳の時に耳疾を患い、あきらめて司法官を志します。
24歳でスミと結婚し、二人の娘を授かったのも束の間、父を亡くすとすぐにスミも27歳の若さで病死します。耳の状態が悪化し悲嘆にくれる中で、司法官も断念した荘太郎は、法律の知識を生かし、高崎裁判所の代書人(現在の司法書士)となりました。
「鬼城」という雅号の由来は、先祖の地・鳥取にある古城「鬼ヶ城」にちなんだもの。鬼城が俳句に熱中し始めたのは、代書人になった30歳の頃からです。日清戦争に従軍するため広島の大本営にいた正岡子規に手紙で俳句の教えを乞いました。
子規の提唱する俳句の革新に共鳴した鬼城は、明治30年に『ホトトギス』が創刊されると、投句に専念しました。「詩歌というものが弱音を吐くために必要になってきて、何かと胸中のムシャクシャを言い表わそうとする」と、鬼城は述べています。32歳でハツと再婚し、二男八女の子宝に恵まれますが、生活は楽ではありませんでした。
大正2年の春、ホトトギス派の重鎮である高浜虚子・内藤鳴雪を招き高崎で盛大に句会が開催されました。この句会で、脚光を浴びた鬼城は、作句に熱心に取り組み『ホトトギス』の雑詠欄に頭角を現していきます。
大正5年、52歳のときに、耳の疾病の悪化から代書人の職を追われますが、法曹界に関係のある俳人数名の訴えで、約1年後に復職することができました。これ以降、地方の俳句雑誌からの選者依頼、指導を求めてくる人からの添削料など、俳句による収入を得るようになりました。大正6年に出版された『鬼城句集』は広く支持を得て、家計にも大きな恵みをもたらしました。ここには鬼城の代表作とされるもののほとんどが納められています。
昭和2年、鬼城が64歳のとき、高崎鞘町の鬼城庵が全焼。虚子などの著名人をはじめとする俳人たちが、鬼城庵再建の具体策を進めて、翌年に高崎並榎町に新居が完成しました。当時はすそ野が広がる榛名山と向き合い、遠く浅間・妙義の峰も望める高台という環境で、鬼城はここで絵を描く楽しさに親しむようになりました。また「並榎村舎」と称して、俳句活動の拠点とし、後進の指導にあたりました。(現在は、村上鬼城記念館として公開されています)
鬼城の主たる活動の場は、新聞『日本』・『ホトトギス』・『山鳩』等の紙誌ですが、中でもホトトギスでは巻頭18回を占め、巻頭作品だけでも205句という俳句が選ばれました。これらの作品の多くは「鬼城自画賛」として書と俳画に残されています。その抜群の造形力やバランス感覚は、近代俳画の最高峰を示すものとして、今日、改めて注目を浴びています。
(



高崎は周辺の農村で生産される白絹の取り引きで賑わいました。その「絹市場」の雰囲気を今に伝える飲食を主とした「市場」が再現されています。
絹市場の由来
高崎生絹大織売買所は通称「絹市場」と呼ばれ、田町絹市場(現在地)西隣に位置しました。明治27年田町に建築され、その後すぐ高崎商業会議所が設立、ここに同居する。
高崎は周辺の農村で生産される白絹の取り引きが早くから行われ、五、十の日に市が立った。絹市場はこうした取り引きを一定の場所で構成に行う為にあり、又、多くの取引業者で半値委を見せ、「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」と歌にも歌われたことを思い、絹市場の名称を残すことにした。
(14:37)本町3丁目の交差点を左折します。

黒い重厚な印象の土蔵造りのおうち。

こんな造りのお店も。

「旧中山道」は、「本町1丁目」交差点で国道354号と離れてまっすぐ「赤坂通り」という細い道に入ります。この交差点が「三国街道」との分岐点。

(14:52)左手に煉瓦造りの煙突。



岡醤油醸造の事務所と煙突
岡醤油は、天明7年(1787)に現みどり市大間々に創業した岡直三郎商店の支店として、明治30年(1897)開業しました。平成に入り、醤油の製造は岡直三郎商店に依頼していますが、事務所は創業当時の店舗がそのまま使用されています。
中山道に面した店舗らしく、屋根の下部分には京風造りを代表する虫籠窓が残っています。揚げ戸や古いガラスを使用した戸などが見られ、明治時代を伝える数少ない建物なので、中山道を歩く人や、町めぐりの人たちが訪れ、テレビの旅番組や雑誌、新聞でも取り上げられたり、映画のロケ地としても何度も使われるなど、昔の良き時代を知る場所となっています。
裏手に見えるレンガ造りの煙突は、昭和初期に修復された記録がありますが、現在も町のシンボルとして地元で愛されています。
その向かい側にあるのが「山田文庫」。

その先の「常盤町」を右折し、烏川方向に向かいます。「ボーリング」などの施設があるスポーツセンターを過ぎると、道が広くなります。
右手奥に三層? の建物は「常仙寺」。
