昨日、今日と春の嵐。だんだんと春が近づいてくる時節。このところ連続でお葬式があったりして、ばたばた。
間があきましたが、「中山道」歩きの続きを。
倉賀野宿の中心部に入っていきます。格調高く大きな古いおうちが目に付きます。上の写真は、「吉野家 叶家」。
続いて「大山家(大山小児科)」。どちらも見上げるほどの立派な造り。

通りのようす。



ところで、小栗上野介と徳川埋蔵金。いっときはTVでも扱っていたが、今は下火? 隠したところは赤城山山中、とか。この碑では倉賀野の地も関係するようです。
そこで「Wikipedia」を参照して。
埋蔵金伝説
1868年4月に江戸城が無血開城となった際、当時財政難に喘いでいた明治新政府は幕府御用金を資金源として期待していた。ところが城内の金蔵は空であったため、幕府が隠匿したと判断した新政府軍による御用金探しが始まった。
探索の手は大政奉還当時勘定奉行であった小栗忠順にも及んだ。小栗は奉行職を辞任した後、上野国(群馬県)群馬郡権田村に隠遁していた。彼が幕府の財政責任者であったということから「小栗が幕府の金を持って逃げた」といった流言が飛び、更には「利根川を遡って来た船から誰かが何かを赤城山中へ運び込むのを見た」と証言する者まで現れた。加えて小栗が江戸城開城に伴う幕府側の処分者の中で唯一命に関わる刑罰(斬首)となったことも重なり、「幕府の隠し金が赤城山に埋められていることは事実である」と信じた人々が赤城山の各所で発掘を試みた。
その後、埋蔵金研究者達により赤城山に眠る徳川埋蔵金は以下のようなものであると定義された。
・幕府の将来を憂慮した大老井伊直弼により莫大な金を赤城山麓に埋蔵することが企画された。
・井伊直弼が横死した後、軍学者であった林梁によって埋蔵が実施された。
・埋蔵された額はおよそ360万 - 400万両。この額の根拠は、勝海舟の日記に「軍用金として360万両有るが、これは常備兵を養う為の金で使うわけにいかない。」との記述が元と思われる。
・埋蔵に際しては中国の兵法の1つである「八門遁甲」が施され、各所に偽計が張り巡らされている。
・山中にある双永寺は埋蔵時、見張り所とされていた。
・小栗忠順は機を見て埋蔵金を掘り返し、幕府再興を画策する役を負っていた。
物的証拠もいくつか挙げられているようです。
・大義兵法秘図書「たいぎへいほうのひずしょ」 (明治24年 児玉惣兵衛宏則なる人物が書き残したとされる)
・意味不明な文字や絵図が刻まれた3枚の銅版 (双永寺の床下から出たとされる)
・・・
赤城山での発掘が次々と失敗に終わって行く中、これを見た一部の人々は赤城山を本当の埋蔵場所を隠すための囮だと考えるようになり、「真の埋蔵場所」を求めて持論を展開するうちに各地で埋蔵金伝説が誕生した。以下にその一部を記す。
・日光山内(東照宮、二荒山神社など、それぞれの論により詳細な場所は異なる)
・男体山、中禅寺湖、明智平(いずれも奥日光)
・榛名山、妙義山(赤城山を加えて上毛三山と言われる)
・備前楯山(足尾銅山の坑道)
・上野東照宮、久能山東照宮、日吉東照宮、世良田東照宮など各地の東照宮
都市伝説上ではあるが、童謡「かごめかごめ」の歌詞中に埋蔵金の在り処を示すとされているものがある。
実際には、徳川埋蔵金は多くの発掘プロジェクトが各地で行なわれているが、そのほとんどが全く成果を出しておらず、埋蔵金自体も発見されていない。
マスメディアによる推理・発掘
・TBSのテレビ番組『ギミア・ぶれいく』で、糸井重里を中心としたプロジェクトチームを結成。自称超能力者の助けを借りるなどして埋蔵箇所を「源次郎の井戸」と推定し、大型重機を使用した大掛かりな発掘を試みた。江戸時代以降に掘られたと見られる穴や遺物を多数発見したが、埋蔵金に直接繋がるような発見は無く、プロジェクトチームも解散した。糸井はのちにこの番組について「世界唯一の土木番組」だったと自嘲している。
・2008年にもこの番組の後継番組『バラエティーニュース キミハ・ブレイク』が同様の発掘企画をした。
・TBSのテレビ番組『日立 世界・ふしぎ発見!』で「埋蔵金伝説の赤城山とは世良田東照宮に作られた擬似赤城山である」という推理が紹介された。
・テレビ朝日のテレビ特番『水曜特バン! 徳川埋蔵金大発掘』で群馬県内の別の場所が掘られた。TBSのプロジェクトと同時期に行われ、埋蔵金研究者の八重野充弘が企画・出演した。
・日本テレビの『TVムック謎学の旅』においても「かごめかごめ」の説を元に別の場所を予想し、金属探知機による調査が行われた。
ただの「夢物語」といったら、身も蓋もないですが・・・。最近でも世界でもナチスの隠した財宝が発見されたとかのニュースが話題になりました。こうして「埋蔵金」があることを確信し、今でも粘り強く探している方々の存在はやはり「貴重」ですね。

倉賀野宿(くらがのしゅく)
中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸・日本橋から数えて12番目の宿場。日光へ向かう日光例幣使街道が分岐している。
5世紀頃、この地域には浅間山古墳などの大古墳が築造されました。鎌倉時代には武蔵児玉党の子孫が倉賀野氏を名のり、南北朝の頃には倉賀野城を築城、戦国期になって上杉、武田、北条氏の勢力争いに巻き込まれ、天正18年(1590)に倉賀野乗は落城して廃城となった、そうです。
江戸時代に入り、中山道が整備されると、倉賀野宿となりました。また、烏川には倉賀野河岸が整備され、江戸と信越方面を結ぶ物資輸送の中継地であったことから、宿場は参勤交代や旅人、船頭、人足、町人などで大変賑わいました。長さ11町38間(約1.2km)で、上町、中町、下町があり、中町が中心地。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、倉賀野宿の宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒で宿内人口は2,032人。明治に入っても明治16年(1883)に鉄道が敷設されるまでは、東京や信越方面を結ぶ水運の川岸舟場として栄え、料理屋や遊郭などもあり、賑わった、ということです。

(11:45)しばらく進んだ右手に「倉賀野古商家おもてなし館」。

最近、つくられたようです。大きな座敷と湯茶の接待などもあって、ゆっくりできます。
この建物は、かつては「大黒屋」の屋号で穀物商を営んでいた蔵造りの商家。中山道からの路地に並んで建つ土蔵のナマコ壁が続きます。明治後期に曳家をしたもので、明治6年(1873)の築造といわれています。

そろそろお腹も空いてきたので、中にお邪魔してお茶をいただきながら、コンビニで買っておいたおにぎりを。

さて、再開。すぐ先には「太鼓橋」。


五貫堀に架かる太鼓橋は、その昔、現県道よりもかなり低いところにあり、板橋であったため、度々の大水で押し流されました。享和3年(1803)、当時としては珍しいアーチ橋に架け替えられました。
その石は、倉賀野宿の繁栄を陰で支えた飯盛女が名前を刻んで寄進したと伝えられ、現在、名の刻まれた石は倉賀野神社の境内に保管されています。
参勤交代の大名も日光例幣使も、そして、皇女和宮の行列も渡った太鼓橋です。
解説板には「宝蔵橋」(正式な橋名)と刻んだ柱石の写真が載っています。橋の下に流れていた五貫堀(「倉賀野城」外堀)はすでに暗渠になっています。
(12:12)左側にあるスーパー「ベイシアマート」の駐車場に「倉賀野本陣」の石碑と解説板があります。


倉賀野宿本陣跡
倉賀野は江戸時代中山道の宿場として、公用の人馬・荷物の継立てと、公的旅行者への宿舎の提供が課せられていました。本陣はその宿の最上級の旅宿で、大名・久下などが休息・宿泊する場でした。倉賀野の本陣は1軒で、元和年間(1615~23)から一貫して勅使河原家がその任に当たってきました。
往還(中山道)からやや奥まって北向きに建てられ、門構え、玄関・上段の間を備えた格式高い造りで、建坪は百坪(約330㎡)もある広大なものでした。
向かい側に古民家。空地には現代的な建物が建つのでしょうか?

倉賀野駅前交差点先に「倉賀野仲町山車倉」があり、その前に「中仙道 倉賀野宿 御傳馬人馬継立場跡」という石碑があります。「問屋場」があったところ。


そこから来た道を振り返って望む。まだ雪が残っています。



「脇本陣」だった須賀家。
倉賀野宿の建物は、幕末・安政期の大火や旧中山道の拡幅工事などで明治に入って建てられた建物が多いようですが、かつての宿場町のようすをよく残した建物が残っています。
向かいの民家の前にはもう一軒の「脇本陣」だった跡碑。
