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Channel: おやじのつぶやき
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新町宿から藤塚一里塚まで。その1。(旧中山道をゆく。第7日目。)

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 中山道歩きも、もう第7日目。新町から倉賀野、高崎へ。さらに板鼻へと進みます。前の2回はそれぞれほぼ半日の行動だったので、今回は少し家を早めに出て何とか5~6時間くらいは、と。

 2月6日(土)。天気予報ではあまりよくない、とのことでしたが、朝方の予報で群馬は「☀」マーク。2月は来週、再来週と予定が込んでしまうので、思い切って出かけました。
 次第に道のりもはかどってくる感じ。これならあと3回、4月までには「軽井沢」まで行けそうかな、なんて「甘い」思惑もあってのこと。

 それでもまだまだ寒さが、ともたもたしてて在来線(高崎線)で上野から乗って、結局、「新町駅」着がすでに9時30分過ぎ。これではあまり距離が稼げません。コンビニでおにぎりなどを買ってさ、出発!

中山道に復帰し、すぐ右手の駐車場のところに「旅籠 高瀬屋」跡碑。

    

小林一茶宿泊の高瀬屋跡
 江戸後期の俳人小林一茶は、たびたび江戸としなのを往来していました。『七番日記』の文化7年(1810)5月11日に次のような記述があります。
 「前日の雨で烏川が川留となり、やむを得ず高瀬屋五兵衛に泊まる。旅の疲れでぐっすり寝込んでいると、夜の五更(午前4時)頃に起こす者があり、目を覚ますと専福寺の提灯を持った数人の者がいた。新町宿東端の神流川岸にあった木造の灯籠が度々の洪水で流失するので、石造りの灯籠を建てるため寄附をお願いされる。懐が乏しいので寄付は免じてくれと一度は断ったが、少ない所持銭より12文を寄進することになった」

 手枕や 小言いうても 来る蛍
 とぶ蛍 うはの空呼 したりけり
 山伏が 気に喰ぬやら 行蛍 

 その時に一茶がこれらの句を詠みました。  

 石碑の碑文はこのくだりが「七番日記」の原文そのままに刻んであります。

  ・・・さながら罪ありて閻王の前に蹲るもかくあらんと思ふ十二文きしんす
   手枕や古語といふても来る蛍
  迹へ帰らんとすれば、神奈川の橋なく前へ進んと思へば烏川舟なし
  ただ篭鳥の空を覗ふばかり也
   とぶ蛍うはの空呼したりけり
   山伏の気に喰はぬやら行蛍

その先の左手の大きなおうちのところには「小林本陣」跡。

解説板。 

 新町宿が宿場として最も栄えたのは、文化・文政期から天保期(1804~44)にかけての頃です。小林本陣は久保本陣・三俣副本陣と共に参勤交代の定宿でした。諸藩が届けた印鑑綴りには、金沢藩や甲府藩などの印影が保存されています。
 延享2年(1745)の「落合図」が保存され、当時の田畑や道筋が各々色分けされて記されています。元禄4年(1691)の検地水帳には所有者と地割が詳しく記され、落合新町の様子を知ることが出来ます。
 
 ここであらためて新町宿(しんまちしゅく)とは、
中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて11番目の宿場。
 現在の群馬県高崎市新町にあたる。はじめ本庄宿と倉賀野宿との間は、烏川北岸の玉村を経由するルートだったが、慶安4年(1651年)に落合新町、承応2年(1653年)に笛木新町(いずれも烏川南岸)に伝馬役が命ぜられ、ルートが変更された。これに伴い、中山道で最も遅く新町宿が成立した。これにより67宿となったが、東海道と重複する草津宿、大津宿を加えて中山道六十九次(または木曽街道六十九次)と呼ばれた。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、新町宿の宿内家数は407軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠43軒で宿内人口は1,473人であった。

               (歌川広重)

(以上、「Wikipedia」参照)

 余談ですが、中山道にも恵那に「歌川広重美術館」があるそうです。

 右手に「温井川」の土手が見えてくると「新町宿」のはずれ。

(10:00)温井川に架かる「弁天橋」の手前に「スリーデイマーチ発祥の地」碑。

 スリーデイマーチとは、埼玉県東松山市で行われる「歩け歩け大会」のこと。日本では最大規模で、全国各地で行われるようになったウォーキング大会のはしりとなったイベント。例年、11月上旬、3日間でのべ10万人の参加者たちが比企丘陵を歩きます。
 1978(昭和53)年に群馬県多野郡新町(現高崎市)で第1回日本スリーデーマーチが開催されたことを記念する碑です。1980(昭和55)年から宿泊施設や交通の便の関係から埼玉県東松山市に開催地が変更になりました。

温井河畔からは周囲の眺めがいいようですが、今日は霞んでいて、今一つ。
                                                   北から西へ赤城、榛名、浅間、妙義と見えるそうです。

橋を渡ると、藤岡市へ。

旧道は右の細い道を進みます。    

梅の花もちらほら。 

 右手に庚申塔などの石碑がずらっと並ぶ「伊勢嶋神社」を過ぎると、長い白壁が続き、その奥には土蔵が並ぶ、大きな屋敷が現れる。国の登録有形文化財の「川端家住宅」(10:08)。
     

振り返って望む。

中山道は関越自動車道をくぐっていきます。トンネルの向こうは「烏川」の土手。

その手前に木製の道しるべ。この先、随所に立てられています。「倉賀野宿まで4.4㎞」。

(10:17)旧中山道はこの先あたりからほんの一部を残してなくなってしまいます。烏川沿いにサイクリング・ロードがあるので、景色が広がる道を進むことになります。土手の左手、県道沿いには三菱鉛筆の工場。


 河川敷は野球場やサッカーグランドがいくつもあり、土曜なので小学生など球技に興ずる歓声が聞こえてきます。その土手下に木々が生えている一角が見えます。「中山道お伊勢の森」と呼ばれているようです。

    

 「中山道」は初め「お伊勢の森」の北側を通っていましたが、寛保2年(1742)の大洪水以後、川の浸蝕による、文化年間に森の南側を通るようになったそうです。広重の「中山道新町宿」はこのあたりを描いたものらしい。
 ということは、その辺りに中山道が通っていたということに? たしかにこんな立派な土手の上を通っていたはずはありえません。しかし、土手下も整備され、唯一この森だけがかつての姿を伝えるのみ。旧道がそのまま残っているわけもなく、・・・。結局、眺めのいい土手上のサイクリング・ロードを歩くことに。

 

                             
 菜の花が一本咲いています。季節になると一面菜の花畑に。              「利根川合流地点から7㎞」表示。

 この土手道。これまでの方々もサイクリング・ロードを歩かず、右の土手下(烏川河川敷)か、左の土手下の小道(県道脇)、さらに県道沿いに歩くケースがあるようです。いずれも、この先、右手のこんもりした森の辺りで左に折れ、土手下の住宅地を歩く道に「旧道」が残っている、というのは共通しているようです。



(10:32)住宅地の一角。小道が交差する。

道の真ん中に下水溝。    

それなりにおうちが集まっているので、旧道らしい感じもするが・・・。

突き当たりを右折します。

生け垣の中に古びてかすれた「中山道」案内板。

 再び、烏川の土手に上がります。その右手前に蔵造りのおうち。さらに左には「旧中山道」の表示。 

    

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