土手に上がります。かつての中山道は「烏川」をこのあたりで「舟渡し」によって向こう岸に渡っていたのでしょうか?
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現在はもう少し上流にある「柳瀬橋」を渡って行きます。
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川の中州に棒杭のようなものが点々と立っています。![]()
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1880年代のようす。当時の橋(明治になってから架橋された)は旧中山道に架かっていた。
これ以降、大がかりな堤防整備などが行われている。
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ほぼ同じ所の1970年代のようす。現在の「柳瀬橋」は上の図よりも250メートルほど上流に位置する。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
(10:53)
上流を望む。鉄橋は高崎線。
「柳瀬橋」を渡ると、再び「高崎市」へ。
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上の古地図でも分かるように、旧道はもう少し「烏川」の下流付近を通っていたので、その道に出るため、橋を渡ってすぐ土手を右に折れ、土手上をしばらく進み、土手から左の道に入ります。
土手上から対岸(新町宿側)を望む。![]()
(10:56)土手の階段を下りて旧道に進むと、「旧中山道」の表示。![]()
「Old Nakasendo」とあります。
旧道は、岩鼻町交差点方向に進みます。![]()
旧街道沿いらしいおうちも。![]()
交差点を渡ります。向こう側に「旧中山道」の表示。![]()
おなじみの道しるべ。![]()
(11:07)すぐに左手の道に進みますが、ほんのわずかで先ほどの道に合流します。
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合流点から見た道を振り返る。![]()
「←倉賀野宿1.3㎞、→新町宿3.9㎞」
広いほぼ直線道路を西に向かいます。
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(11:18)「高崎線」の上下線を跨線橋で越えて行きます。
けっこう広い道。振り返って望む。![]()
「東京マツシマ」という会社のところを左に。
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ここもすぐに右に曲がって、合流。![]()
そこに「慰霊碑」のような大きな碑。碑面、確認出来ず。![]()
(11:34)しばらく進むと、「追分の閻魔堂」。![]()
ここが「中山道」を京からやって来ると「江戸(中山道)」と「日光(例幣使街道)」へと分かれる地点。
左奥の道が「例幣使街道」。
「解説板」。
高崎市指定史跡 例幣使街道の常夜灯及び道しるべ
江戸時代、日光東照宮には毎年4月に朝廷からの使いが派遣されていた。これを日光例幣使と言う。例幣使は、京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野で玉村への道をとり、下野国桧木で壬生道、同国今市で日光道中に入った。例幣使道(街道)は、一般的に倉賀野から桧木までとされる。
この辻には、常夜灯と道しるべ及び閻魔堂がある。
常夜灯の基台には、四面にわたり各地の問屋・旅館・著名人312名の寄進者の名が刻まれており、この中には相撲関係者も見られ、長く大関をつとめた雷電為右衛門や鬼面山与五衛門など38名も含まれている。
勧化簿という資料によれば、上野国那波郡五科(玉村村)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反省し、常夜灯建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し、その不足分を多くの人から寄進を仰いで建立したとある。
常夜灯
正面「日光道」右側面「中山道」左側面「常夜燈」
裏面「文化十一年甲戌(1818)正月十四日
高橋佳年女書」
総高 373㌢ 台石高 67㌢
灯籠高 305㌢ 灯籠屋根幅 105㌢
道しるべ
正面「従是 右 江戸道 左日光道」
裏面「南無阿弥陀仏 亀涌書」
総高 172.8㌢ 台石高 8.8㌢
石柱幅 一辺33.7㌢
平成8年3月 高崎市教育委員会
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「常夜灯」。 「道しるべ」。
「例幣使街道と倉賀野常夜燈」。
中山道は、倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例幣使街道と分かれる。そこには、道しるべ、常夜燈、閻魔堂がある。
・・・(中略)
日光例幣使街道は13宿中、上州5宿(玉村・五科・芝・木崎・太田)野州8宿となっている。正保4年(1647)に第1回の日光例幣使の派遣があって以来、慶応3年(1867)の最後の例幣使派遣まで、221年間、一回の中止もなく継続された。また、この常夜燈は、県内では王者の風格をもっており、文化10年(1814)に建てられ、道標の役割を果たしていた。
高崎市 高崎観光協会
お堂の裏手には「馬頭観音」「庚申塔」などが。![]()
ここから「倉賀野宿」となります。![]()
右が「中山道」、左が「例幣使街道」。

現在はもう少し上流にある「柳瀬橋」を渡って行きます。


川の中州に棒杭のようなものが点々と立っています。





1880年代のようす。当時の橋(明治になってから架橋された)は旧中山道に架かっていた。
これ以降、大がかりな堤防整備などが行われている。




ほぼ同じ所の1970年代のようす。現在の「柳瀬橋」は上の図よりも250メートルほど上流に位置する。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
(10:53)

「柳瀬橋」を渡ると、再び「高崎市」へ。


上の古地図でも分かるように、旧道はもう少し「烏川」の下流付近を通っていたので、その道に出るため、橋を渡ってすぐ土手を右に折れ、土手上をしばらく進み、土手から左の道に入ります。
土手上から対岸(新町宿側)を望む。

(10:56)土手の階段を下りて旧道に進むと、「旧中山道」の表示。

「Old Nakasendo」とあります。
旧道は、岩鼻町交差点方向に進みます。

旧街道沿いらしいおうちも。

交差点を渡ります。向こう側に「旧中山道」の表示。

おなじみの道しるべ。

(11:07)すぐに左手の道に進みますが、ほんのわずかで先ほどの道に合流します。


合流点から見た道を振り返る。


広いほぼ直線道路を西に向かいます。


(11:18)「高崎線」の上下線を跨線橋で越えて行きます。
けっこう広い道。振り返って望む。

「東京マツシマ」という会社のところを左に。


ここもすぐに右に曲がって、合流。

そこに「慰霊碑」のような大きな碑。碑面、確認出来ず。

(11:34)しばらく進むと、「追分の閻魔堂」。

ここが「中山道」を京からやって来ると「江戸(中山道)」と「日光(例幣使街道)」へと分かれる地点。


高崎市指定史跡 例幣使街道の常夜灯及び道しるべ
江戸時代、日光東照宮には毎年4月に朝廷からの使いが派遣されていた。これを日光例幣使と言う。例幣使は、京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野で玉村への道をとり、下野国桧木で壬生道、同国今市で日光道中に入った。例幣使道(街道)は、一般的に倉賀野から桧木までとされる。
この辻には、常夜灯と道しるべ及び閻魔堂がある。
常夜灯の基台には、四面にわたり各地の問屋・旅館・著名人312名の寄進者の名が刻まれており、この中には相撲関係者も見られ、長く大関をつとめた雷電為右衛門や鬼面山与五衛門など38名も含まれている。
勧化簿という資料によれば、上野国那波郡五科(玉村村)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反省し、常夜灯建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し、その不足分を多くの人から寄進を仰いで建立したとある。
常夜灯
正面「日光道」右側面「中山道」左側面「常夜燈」
裏面「文化十一年甲戌(1818)正月十四日
高橋佳年女書」
総高 373㌢ 台石高 67㌢
灯籠高 305㌢ 灯籠屋根幅 105㌢
道しるべ
正面「従是 右 江戸道 左日光道」
裏面「南無阿弥陀仏 亀涌書」
総高 172.8㌢ 台石高 8.8㌢
石柱幅 一辺33.7㌢
平成8年3月 高崎市教育委員会


「常夜灯」。 「道しるべ」。

中山道は、倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例幣使街道と分かれる。そこには、道しるべ、常夜燈、閻魔堂がある。
・・・(中略)
日光例幣使街道は13宿中、上州5宿(玉村・五科・芝・木崎・太田)野州8宿となっている。正保4年(1647)に第1回の日光例幣使の派遣があって以来、慶応3年(1867)の最後の例幣使派遣まで、221年間、一回の中止もなく継続された。また、この常夜燈は、県内では王者の風格をもっており、文化10年(1814)に建てられ、道標の役割を果たしていた。
高崎市 高崎観光協会
お堂の裏手には「馬頭観音」「庚申塔」などが。

ここから「倉賀野宿」となります。

右が「中山道」、左が「例幣使街道」。