先に進みます。屋根に小さな屋根のついた吹き出し口が目に付く家があります。おそら養蚕を行っていたおうちなのでしょう。この付近も養蚕が盛んだった地域。かつてはこの辺りには桑畑が多くあったと思いますが、今は一本も見当たりません。

(14:52)「国道17号線」に出る右手前の祠の脇に「勅使河原一里塚跡」碑。

そこから来た道を振り返る。

国道に合流すると、いよいよ「神流川」を渡ります。

橋の手前、左手に栄泉の浮世絵入りの解説板。


神流川古戦場と渡し場
神流川合戦は、天正10年(1582)6月18・19日の両日にわたって、武蔵・上野国境の神流川を舞台としておこなわれた織田信長の武将厩橋城主滝川一益と鉢形城主北条氏邦・北条氏直との戦いです。別名金窪原の戦いとも云われ、金久保・毘沙吐周辺が神流川古戦場跡として伝えられています。
また、ここには中山道神流川の渡し場がありました。その様子は渓斎栄泉によって描かれた「本庄宿神流川渡場」で見ることができます。そこに描かれている燈籠は、埼玉県側と群馬県側に一基ずつあって、「見透灯籠」と呼ばれていました。
この見透燈籠は、文化12年(1815)本庄宿の戸谷半兵衛門が寄進したもので、正面には大窪詩仏による「常夜燈」、と桑原北林による「金比羅大権現」の文字が、右側面には「燈に背かざりせば闇路にも迷わせまじ行くも帰りも」と田口秋因の和歌が刻まれています。しかしせっかく建立されたこの燈籠も文政5年(1822)秋の洪水で倒れ、その後、安政4年(1857)に発見されて現在は大光寺へ移転されています。
この解説板がある道を進むと、橋の右側にある歩道には行けないので、交差点を右に渡ります。
目の前には街道筋らしいおうち。

これが「見透灯籠」のモニュメント。


見透灯籠のいわれ
上武二州の国境を流れる神流川は、往古より荒れ川で出水毎に川瀬道筋を変えて旅人や伝馬、人足の悩みの種であった。
文化12年(1815年)本庄宿の戸谷半兵衛が川の両岸に灯籠を建立し、夜になると灯を燈し、夜道を往来する旅人の標準とした。
この常夜燈のモチーフとなった武州側の常夜燈は見透灯籠とも呼ばれ、大光寺に移築されている。
(15:06)



遠くに赤城山。 榛名山。
これで戸田橋で東京から埼玉へと渡ったについで、ここで、埼玉から群馬へと移ります。橋の上は吹きさらっしでけっこう寒く、東海道の時、風花が舞っていた「大井川」を越えた時を思い出しました。この橋の長さもほどほどありました。

群馬県側の「見透灯籠」のモニュメント。


渡り切ったところで「群馬県・高崎市」入り。

「神流川橋」を渡ったところにも

この付近からは左手遠くに浅間山の雄姿が見えるはずですが、雲に隠れているのか、雲の白さにまぎれたのか、見えませんでした。

橋を渡ったすぐのところに「神流川古戦場跡」碑。



神流川合戦
天正10年(1582)織田信長が本能寺に倒れた直後、関東管領瀧川一益は信長の仇を討たんと京へ志し、これに対し好機来たれりと北条氏は5万の大軍を神流川流域に進めた。瀧川一益は義を重んじ勇猛な西上州軍1万6千を率いて、石をも燃える盛夏の中、死闘を展開し、瀧川軍は戦死3760級の戦史に稀なる大激戦で「神流川合戦」と呼んでいる。後世、古戦場に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡として残され東音頭にもうたわれ、神流の清流も今も変わることなく清らかに流れている。
(15:20)旧道はその先で「国道17号線」から右に分かれて進みます。分岐点に大きな常夜燈。



ここは、「新町宿」の入り口でもあります。この常夜燈はさっきの神流川の群馬側にあった、「見透灯篭」を実物大に復元したもの。前に道標が立ち、「従是 左江戸二十四里 右碓氷峠 十一里」と彫られています。

見通し灯籠(常夜灯) 注:ここでは「見透し」ではなく「見通し」となっています。
江戸時代の末期、神流川が度々洪水を起こし、往還が流され瀬違いが出来て渡船場も変わり、白昼でも道筋が分からなくなり、多くの人が道に迷いました。そこで、灯籠を建て夜中の目印としていましたが、寛保年中(1741~43)の大洪水で流失してしまいました。助郷の人々が夜中の通行に困ったため、文化5年(1808)専福寺住職賢顕と宿役人が石灯籠を建てようと発願、旅人からも寄附を募り、常夜灯が石造りで再建されたのは同12年のことです。
(15:27) しばらく進むと右手に「八坂神社」。大きな解説板。


柳の茶屋
新町宿東入口の右側に土蔵造りの八坂神社がある。横に幹の細い若柳が芽をふき、その下に「傘(からかさ)におしわけみたる柳かな」の芭蕉の句碑が立っている。高さ80㎝横50㎝ぐらいの雲母岩に印刻され、新町の俳人小渕湛水と笛木白水が寛政5年(1793)から天保5年(1834)の間に建てたといわれる。
宿の東端に柳の大樹あり、往来する旅人たちは緑のあざやかさにみとれ、傍らの茶屋に休んで旅情を慰め、いつしか柳茶屋と呼ぶようになった。
すぐ隣に「芭蕉句碑」。


「諸国翁墳記」に「翁塚上州緑野郡新町宿小渕湛水・笛木白水建」「傘におしわけ見たる柳かな」とあります。
「諸国翁墳記」は、諸国にある芭蕉句碑を記録したもので、滋賀県大津市の義仲寺(木曽義仲と芭蕉の墓がある)で出版されました。
この句碑は寛政5年(1793)から天保5年(1834)の間に、近くに柳の大木があることから、「柳茶屋」と呼ばれた茶屋島田屋の側を選び、湛水と白水が建てたと思われます。
注:この句は、元禄7年(1694)刊行の芭蕉と弟子たちの連句集『炭俵』所載の句。季語は「柳」で春。ここで詠んだ句ではなさそうです。
(15:38)宿内に入ってしばらくした右手に高札場跡。


高札場
高札場は、江戸幕府や諸藩が庶民を統治するための法令や禁令などを板札に墨書し、町辻・橋詰・街道の追分・渡船場など、人目につきやすい各地の主要な場所に設けました。
新町宿では落合新町と並木新町の境に設置されました。キリシタン禁制は特に自重要で、その管理は厳重で木の柵を巡らし、石垣あるいは土盛りをし、妄りに近寄らせませんでした。管理責任者に町村役人を命じて、付近の清掃、火災の際の避難などにあたらせました。
街中に入って右手、「行在所公園」に栄泉の浮世絵。

(15:40)その奥にある建物が明治天皇の行在所。

解説板。

明治天皇新町行在所(あんざいしょ)
明治天皇は、明治11年8月から12月にかけて、北陸・東海地域の御巡幸(視察)を行いました。その途中の9月2日に新町に宿泊された施設がこの行在所です。
当時は木造瓦葺き平屋建ての本屋と付属家の2棟で、旧中山道に面して正門を設け、周囲は高さ9尺の総板塀で囲い、庭には数株の若松を植えてありました。
昭和55年1月に新町の史跡文化財としての指定をうけました。
その斜め前にあるおうちも立派です。

陽も陰りはじめ、けっこう寒くなってきたので、今回はここまで。JR高崎線・新町駅から帰ってきました。
ところで、こんな看板が「高崎名物 オランダコロッケ」さて?
