小公園のところから「国道1号線」をしばらく離れて進みます。すると、ユニークな交通標識。「かねよ」という老舗の鰻屋さん。
![]()
その先には、またまた「蝉丸神社」。![]()
左手には、「元祖走井餅本家」碑。![]()
「走井餅」というと、この先、「国道1号線」沿いの「月心寺」のあるところが定番で、広重もそちらを描いているといわれますが、・・・。
さらに坂道を下りて「国道1号線」に合流します。歩道橋を渡り、京阪線、国道を越えて左側の歩道へ。
「逢坂の関」方向を振り返って望む。左手は京阪大谷駅。
左手に石柱。
大津算盤の始祖・片岡庄兵衛
江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は、慶長17年(1612)片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に製造を始めたものと伝える。同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。なお昭和初期まで、この碑の場所にも同家の子孫が住まわれていた。
その先にあるのが、「月心寺」。
ここの走井(井筒・湧水)でつくられたのが「走井餅」といわれています。しかし、門は閉ざされていました。
走井餅は江戸時代中期の明和元年(1764年)に大津で創業、湧水「走井」を用いて、初代井口市郎右衛門正勝が餡餅を作ったことに始まります。走井は、成務天皇の産湯に用い賜れるほどの名高い水でありました。
刀の荒身を模した独特の形は、平安時代に名を馳せた刀鍛冶・三條小鍛冶宗近が走井で名剣を鍛えたという故事にちなみ、剣難を逃れ、開運出世の縁起を担いだものと伝えられています。
安藤広重「東海道五十三次」の大津宿にも描かれた大津名物走井餅は、明治43年(1910年)6代井口市郎右衛門の四男嘉四郎によって、名水で名高い石清水のふもとへ引き継がれました。
やわたへ受け継がれほどなくして大津の本家は廃業。その跡は現在、月心寺となっております。井口家の生家で、走井餅発祥のその場所には、今でも滾々と走井の名水がわき続けております。なお本家廃業と同時に、当家が直系唯一の走井餅となりました。
![]()
(
HPより)
大津で営業販売しているもう一つのお店のHP。![]()
ここでは、餅のかたちを「しずく」に見たてています。
ここを守っていた村瀬明道尼僧が2年前に交通事故で亡くなり、現在は申込制の公開を実施しているようです。ただし、受付人数は10名から、とのこと。
門前にあった「走井」という行灯もなくなっていて、通り過ぎてしまいそうです。
![]()
東海道五十三次 大津 走井茶屋 絵師 安藤広重 編者 橋口五葉 発行 岩波書店(大正8年)
草津より3里半。琵琶湖の湖畔にある東海道最終の宿駅である。石山寺、三井寺をはじめ多くの寺社があり、また湖畔も風光明媚であって、広重の画題にこまらぬはずであるが、かれはいっさいそれらには目もくれず、清水のこんこんとわきでる井戸、俗に走井の茶店と、その前を行く牛車に興味をもつ。いかにも市井の画人である。この図集が道中風景とともに名物や風俗紹介に重点がおかれているのは、この図集への世人の関心が、どこにあったかを知ることができて興味深い。
(「鹿児島県立図書館」HPより)
大正期のようす(「知足美術館」HPより)。
現在のようす。
ここは、かつては東海道随一の賑わいをしていた追分の地で繁昌していた走井茶屋の跡。境内には今も枯れることなく走井の名水が湧き出ている、はず。
山が迫る狭い土地。街道を挟んで両側に家々がぎっしり建ち並び、大津絵や大津算盤、縫い針などの大津特産の土産物を売る店や茶店がひしめき、旅人と牛馬の往来が多い賑やかな場所に位置していました。
幾星霜を経て、「旧東海道」は「国道1号線」として拡幅・整備され、激しい車の往来の脇でひっそりとしていくのでしょうか。
![]()
1892~1910頃のようす。「今昔マップ」より)←が「月心寺」付近。
![]()
現在のようす(「同」)。道路や鉄道の交通網の整備により変貌が激しい。
この付近に「走井一里塚」(日本橋から123里目)があったようですが・・・。
「一里町」という表示。
しばらく「国道1号線」に沿って緩やかに下って行きます。「名神高速道路」をくぐると、国道から離れ、左の道に入ります。
新バージョン?
緩やかに上って行くと、「追分」。![]()
「みぎハ京ミち ひたりハふしミみち」。
左の道を行くと「伏見」、「淀」、「枚方」、「守口」の4宿を経由して大坂京橋に向かう道となります。「東海道57次」というわけです(「義仲寺」で会った方だと「67次」)。
来た道を振り返って望む。
時刻は、午後5時少し前。今日はここまで。
ということで京阪「追分」駅まで戻り、そこから「上栄町」駅で降り、JR「大津駅」近くのビジネスホテルに泊まることに。
明日はいい天気になりそうです。

その先には、またまた「蝉丸神社」。

左手には、「元祖走井餅本家」碑。

「走井餅」というと、この先、「国道1号線」沿いの「月心寺」のあるところが定番で、広重もそちらを描いているといわれますが、・・・。
さらに坂道を下りて「国道1号線」に合流します。歩道橋を渡り、京阪線、国道を越えて左側の歩道へ。

左手に石柱。

江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は、慶長17年(1612)片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に製造を始めたものと伝える。同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。なお昭和初期まで、この碑の場所にも同家の子孫が住まわれていた。
その先にあるのが、「月心寺」。
ここの走井(井筒・湧水)でつくられたのが「走井餅」といわれています。しかし、門は閉ざされていました。


走井餅は江戸時代中期の明和元年(1764年)に大津で創業、湧水「走井」を用いて、初代井口市郎右衛門正勝が餡餅を作ったことに始まります。走井は、成務天皇の産湯に用い賜れるほどの名高い水でありました。
刀の荒身を模した独特の形は、平安時代に名を馳せた刀鍛冶・三條小鍛冶宗近が走井で名剣を鍛えたという故事にちなみ、剣難を逃れ、開運出世の縁起を担いだものと伝えられています。
安藤広重「東海道五十三次」の大津宿にも描かれた大津名物走井餅は、明治43年(1910年)6代井口市郎右衛門の四男嘉四郎によって、名水で名高い石清水のふもとへ引き継がれました。
やわたへ受け継がれほどなくして大津の本家は廃業。その跡は現在、月心寺となっております。井口家の生家で、走井餅発祥のその場所には、今でも滾々と走井の名水がわき続けております。なお本家廃業と同時に、当家が直系唯一の走井餅となりました。

(

大津で営業販売しているもう一つのお店のHP。

ここでは、餅のかたちを「しずく」に見たてています。
ここを守っていた村瀬明道尼僧が2年前に交通事故で亡くなり、現在は申込制の公開を実施しているようです。ただし、受付人数は10名から、とのこと。
門前にあった「走井」という行灯もなくなっていて、通り過ぎてしまいそうです。

東海道五十三次 大津 走井茶屋 絵師 安藤広重 編者 橋口五葉 発行 岩波書店(大正8年)
草津より3里半。琵琶湖の湖畔にある東海道最終の宿駅である。石山寺、三井寺をはじめ多くの寺社があり、また湖畔も風光明媚であって、広重の画題にこまらぬはずであるが、かれはいっさいそれらには目もくれず、清水のこんこんとわきでる井戸、俗に走井の茶店と、その前を行く牛車に興味をもつ。いかにも市井の画人である。この図集が道中風景とともに名物や風俗紹介に重点がおかれているのは、この図集への世人の関心が、どこにあったかを知ることができて興味深い。
(「鹿児島県立図書館」HPより)


ここは、かつては東海道随一の賑わいをしていた追分の地で繁昌していた走井茶屋の跡。境内には今も枯れることなく走井の名水が湧き出ている、はず。
山が迫る狭い土地。街道を挟んで両側に家々がぎっしり建ち並び、大津絵や大津算盤、縫い針などの大津特産の土産物を売る店や茶店がひしめき、旅人と牛馬の往来が多い賑やかな場所に位置していました。
幾星霜を経て、「旧東海道」は「国道1号線」として拡幅・整備され、激しい車の往来の脇でひっそりとしていくのでしょうか。

1892~1910頃のようす。「今昔マップ」より)←が「月心寺」付近。

現在のようす(「同」)。道路や鉄道の交通網の整備により変貌が激しい。
この付近に「走井一里塚」(日本橋から123里目)があったようですが・・・。

しばらく「国道1号線」に沿って緩やかに下って行きます。「名神高速道路」をくぐると、国道から離れ、左の道に入ります。

緩やかに上って行くと、「追分」。


左の道を行くと「伏見」、「淀」、「枚方」、「守口」の4宿を経由して大坂京橋に向かう道となります。「東海道57次」というわけです(「義仲寺」で会った方だと「67次」)。

時刻は、午後5時少し前。今日はここまで。
ということで京阪「追分」駅まで戻り、そこから「上栄町」駅で降り、JR「大津駅」近くのビジネスホテルに泊まることに。
明日はいい天気になりそうです。