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Channel: おやじのつぶやき
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札の辻。旧逢坂山ずい道。逢坂の関。・・・(草津駅から京阪追分駅まで。その6。)

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 「京町1丁目」交差点。通りを渡った角に、「大津市道路元標」と「札の辻」解説板。そのまままっすぐ行けば、「三井寺」方向になります。

札の辻の由来

 札の辻の名は、江戸時代、幕府の法令を記した高札が建てられた四つ辻であったことに由来しており、旅人たちに、馬や人足を提供する大津宿の人馬会所もこの角にあった。ここは、東海道と北国街道(西近江路)の分岐点でもあり、京都から来た東海道は東へ向かい、西へ行くと北国街道であった。

                                 

 「札の辻」を左折して、京阪電車が右(西)の方へ離れて行く先の左側に「本陣跡」があります。

    

大津宿本陣跡
 本陣とは、大名・公家などが宿泊するために設けられた施設で、大津宿では大阪屋嘉右衛門(大塚本陣跡)、肥前屋九左衛門の2軒の本陣と、播磨屋市右衛門の脇本陣1軒が八丁筋におかれていました。八丁筋には、旅籠などが多数軒を連ね(下図参照。図の中央はびわ湖です。)、旅行く人々を迎えていました。大津は、北国街道と東海道の合流地点であり、また湖上交通の拠点でもあったことから繁栄を極めました。しかし、現在は本陣に関する遺構などは残っておらず、明治天皇の休憩所として利用されたことを示す「明治天皇聖跡碑」が建つのみです。

 大津まちなか元気回復委員会 

 余談ですが、何カ所にも解説板を設置している「 大津まちなか元気回復委員会」という名称が「おやじ」のツボにはまります。

 ここから「逢坂山」の上りになります。JR線を越えると、右手に「関蝉丸神社下社」。
      

 京阪線の踏切を渡ると、いよいよ山道の雰囲気になります。途中、「安養寺」山門前に「逢坂」の解説があります。

「逢坂」解説板。

逢坂(おうさか)
 「日本書紀」によれば、神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とぱったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。

 そのすぐ先、「国道1号線」との合流手前に「旧逢坂山ずい道東口」があります。ぜひ見学したかったところです。
 
「鉄道記念物 旧逢坂山ずい道東口」。

    

解説板。

旧逢坂山ずい道東口
 このずい道は、日本人の技術者、技能者が主体となって設計・施工をおこなったわが国初の山岳ずい道です。
 明治11年(1878)10月5日東口から、また同年12月5日西口からそれぞれ掘削を始め、約1年8ヶ月の歳月を費やして明治13年6月28日竣工したもので、大正10年8月1日、線路変更により廃線となるまで、東海道本線の下り線として使用されていたものです。
 全長664.8㍍におよぶこのずい道は、当時の工部省の直轄であった生野銀山の労働者が伝統的なノミやツルハシを主体とした手掘りで掘り抜いたとされています。
 こうして完成した逢坂山ずい道は、鉄道の歴史に残る記念すべきもので、日本の技術史の上でも大きな意義をもつものです。
 坑門上部にある「楽成頼功の扁額は竣工を記念して時の太政大臣・三条実美の揮毫によるもので、「落成」は「落盤」に通じる忌み言葉であることから、縁起の良い「楽成」の字をあてました。
 日本の近代トンネル技術は、その後、世界的なレベルへと大きく発展することとなりました。

 鉄道記念物 昭和35年10月14日指定
                     西日本旅客鉄道株式会社 平成20年3月 設置

    
                                           扁額。
    
                            隧道(ずいどう)内部。

 旧ずい道(トンネル)は、「京大防災研究所附属地震予知研究センター」の施設にもなっています。

 「国道1号線」との合流地点先で歩道がなくなるので、国道の左側に渡ります。その先には、日本橋から「486㎞」の表示が。

左は京阪線。

頭上は「名神高速道路」。

右側に関蝉丸神社上社の石段が見えてきます。

「逢坂常夜灯」。

坂を登りきった右側に常夜燈と「逢坂山関址」碑。

「逢坂の関」解説板。
 「逢坂の関」は、伊勢の鈴鹿・美濃の不破を並ぶ天下の三関のひとつで、歌枕としても名高いところです。横断歩道で右側に渡ると、平成21年につくられた小公園・休憩施設があります。

    

 ここで、解説板を見ながら小休止。

逢坂の関と文学

・小倉百人一首

  これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関   蝉丸
  夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ   清少納言

・源氏物語
 「関屋」の巻
  常陸介と共に東国に下っていた空蝉と石山詣での途中の光源氏が再開する非常に印象的な 場面が描かれています。
 「賢木」の巻
  斎宮下向の日、思いを募らせた光源氏が、娘と共に伊勢に下る六条御息所に歌を贈ります。それに対する御息所の返歌 「またの日 関のあなたよりぞ御返しある」(「関」とは逢坂の関)

・その他
 『枕草子』の中にも逢坂の関についての記述があります。

逢坂峠と東海道

 大津は、奈良時代の昔から、物資の集散する京の玄関口として大いに栄えましたが、この繁栄を支えてきたのはまぎれもない東海道でした。特に、逢坂峠は、東海道の中でも要衝の地として重視されており、逢坂峠から瀬田を含む大津宿周辺は、街道一の繁栄を極めました。街道沿いには、大津絵や針、大津算盤などを売る多くの店が軒を連ねるようになります。また、車石と呼ばれる石を敷き詰める街道の整備も行われました。

車石

 江戸時代に逢坂越は、大津港で陸揚げされ京都へ運ばれた米俵などの輸送にも重要な役割を果たしました。これら物資を運ぶ牛車が泥道で立ち往生しないように車石と呼ばれる石が敷設されました。その工事は文化元年(1804)から翌2年にかけて行われました。車石は、今も京都・大津間の旧東海道沿いに残されており、当時としては画期的な街道整備を知る貴重な文化財となっています。

大津算盤 

 大津は日本国内での算盤発祥の地と伝えられています。大津算盤は、慶長17年(16129)、大津一里塚町(現大谷町の西側)の片山庄兵衛が、長崎で明(中国)から算盤を手に入れ、改良を加えたことに始まります。材質は、珠がツゲ、ヒイラギ、ウメ、枠がカシ、カキ、黒タン、紫タンなどで、桁の軸には丈夫な細竹が使用されていました。また枠や梁の裏側(底部)には、作者の居住地と名前が木版印刷された和紙が貼られているものが多くあります。算盤製造は明治期に入って廃れていきましたが、算盤師の看板や製作道具、宝永2年(1705)銘の算盤などが現存しています。なお、製作道具と宝永銘の算盤は市指定文化財です。

大津針

 江戸時代の『東海道名所図会』によると、逢坂山付近の名物として「大津絵、算盤、縫い針」の人気がありました。貝原益軒は「逢坂山この辺の町に針を売る所多し、虎屋を良工とす」と評しています。このように大谷の虎屋針は良質の針として知られていました。また追分池川針やみすや針も有名で、当時は人気を得ていたと伝えられています。いずれも現在は途絶えています。

大津絵

 大津絵がいつごろから始まったものか、はっきりと年代を示す史料はありません。しかし、17世紀前期には、東海道を往来する旅行者用の土産物として絵が知られるようになったと考えられています。その後、大津絵は近松門左衛門の「傾城反魂香」(宝永5年(1708)初演)によって全国にその名前が知れわたることになりました。
 大津絵は庶民向けの絵であることから、生産コストを抑えるために描写も簡略化し、細かい描写は小型の版木を押して、すばやく描けるように工夫してあります。
 そして、その素朴な画風は様々な画家に愛され円山応挙や富岡鉄斎、浅井忠なども大津絵をモチーフにした絵画を描いています。また、大津絵の魅力に魅せられた愛好家は全国各地にたくさんおられ、その伝統は今でも受け継がれています。

 興味深い解説文でした。時刻はまもなく4時20分。もう少し先まで行くことにします。 

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