「家棟(やのむね)川」。以前は天井川でしたが、河川改修の結果、普通の川のように橋で越えることに。
当時の隧道の扁額。![]()
この場所から東約50m先の交差点付近には、以前天井川の家棟川があり、隧道(トンネル・マンボ)がありました。
旧東海道の家棟川隧道は、長さ21.8m、3.6m、4.5m、欠円アーチ断面両側壁とも花崗岩切り石積みで、1886年(明治19年)に築造、家棟川の平地化に伴い1979年(昭和54年)にその姿を消しました。
当時のものとして県令(知事)中井 弘 筆「家棟川」扁額(頚学)が、ここに残されています。
現存する隧道は、1886年(明治19年)に竣工した由良谷川隧道と1884年(明治17年)、竣工した大沙川隧道の二ヵ所でで、国指定重要文化財に相当する土木遺産と評価されています。
・・・
平成26年6月(2014) 三雲学区まちづくり協議会
「家」の「棟」という川の名に「天井川」という印象を持たせます。残る二つのうち、「由良谷川隧道」も早晩、消えゆくことになりそうです。
この付近には国の天然記念物「うつくし松」の自生地があるようです。
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国指定天然記念物 うつくし松
平松に自生する赤松の変種、根から放射状に出て傘をひらいたような美形の松で、その名も「うつくし松」。大小200本が群生し、日本でここだけしかなく、国の天然記念物に指定されています。
平安時代、体が悪く弱々しい生活を送っていた藤原頼平という青年がこの地を訪れたとき、美娘が突然現れ、松尾神社のつかいで頼平のお供を命じられたといって須賀Tを消した。辺りを見ると周辺の木々が美しい松に変わったという。
この地を頼平の平と美松の松をとって平松となったと言われています。
湖南市観光協会
行くことができなかったので、
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美松山の斜面だけに群生する、極めて珍しいマツ。劣性遺伝による変種といわれ、国の天然記念物に指定されています。根本近くから枝が放射状に分岐した樹形は、まるで扇か傘のよう。平安時代、藤原頼平が静養でこの地を訪れた際、松尾神社の使いの童女が現れ、周囲の山を美しい松に変えたとか。そんな伝説にふさわしい、神秘的なムードをたたえた名所です。
(「
」HPより)
先に進むと、左手に「高木陣屋跡」。![]()
元禄11年(1698)道中奉行に任命された高木伊勢守が、元禄12年(1699)に平松を領するようになった。その後、文化年間(1804~1817)に宏壮な二階建ての陣屋を建てたが、明治維新後、個人の所有となり建物が取り払われた。
しかし、陣屋の門は、その後所有者が転々とするが、現在は三雲の郷内にあるレストラン入口の門として再移築されて、当時の面影を残している。
湖南市観光協会
旧街道らしい家並みを進みます。
振り返って望む。
左に曲がる付近には「常夜燈」。![]()
その向かいには「お休み処」。![]()
「ようこそ! きずな街道(東海道)へ」。
小さな橋を渡ると、「石部宿」。
時刻は、午前10時20分前。
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宿内のようす。
しばらく進むと「石部宿・東見附」跡。![]()
東の見附は目川屋より約30㍍東にいったあたりで、道路の中央付近まではみ出していた幅3㍍ばかり高さ2㍍程度の台場であり、石部宿の両入口にあった。
枡形城門の俗称で番兵が通行人を見張るところから「見附」と言われた。
石部宿には東西二ヶ所に設けられていた。
湖南市観光協会
(
HPより)
そのそばにある「目川米穀店」。![]()
道路沿いの街灯には「東海道」の幟が続きます。
ここでも地元の熱意を感じます。
「石部中央」の交差点脇は小公園になっていて、常夜燈や石部町の案内等があります。
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石部町
石部町は、古くは東海道五十三次の五十一番目の宿場町として栄えた。
明治22年4月1日に石部村、東寺村、西寺村の三ヵ村連合区域の統合によって「石部村」として誕生、明治36年6月1日には、県下で12番目、甲賀郡では2番目の町制施行によって「石部町」となり、今日まで永い歴史が刻まれています。
2000年(平成12年)3月吉日
さらに「高札場」跡の解説板。
高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所で、現在の県道113号(とんや道)と旧東海道の交差点の道路の中ほどのあたりで問屋場の横にあったと伝えられている。
約80センチメートル程度の石垣の上にたっていた。
元禄の頃は、みのや橋の横にあったが、いつの時代か問屋場の横に移転された。
湖南市観光協会
その隣には「石部城跡」の解説板。
壁には広重の浮世絵。![]()
「都(つ)つじいけて その陰に干鱈 さく女 芭蕉 (つつじいけて そのかげにひだら さくおんな)」
も紹介されています。
《昼の休(やすら)ひとて旅店に腰を懸けて》と詞書あり。貞亨2年、『野ざらし紀行(甲子吟行)』の旅で、大津から水口宿に出る途上での一句。ただし、『野ざらし紀行』には載せられていません。『泊船集』に所載。
季語は「つつじ」で春。6・8・5の破格の句。
石部宿内の「真明寺」境内に、この句の句碑があるようです。
通りの反対側には「問屋場跡」の解説板。![]()
石部宿の問屋は、人馬・伝馬・荷馬を集めて宿の業務(継立て事務)を行うところを問屋と呼び、いつも役人が3名~5名ほど在中し人馬の継立てをする仕事を分担して賑わっていました。
場所は石部中央の信号から北へ100メートルほどの砂川の東門にあったが、後に信号の北西の角あたりに移ったと言われています。
湖南市観光協会
その隣にはかつてあった、回り舞台を備えた芝居小屋「常盤館」の解説文があります。
しばらく行くと、左手角に「いしべ宿駅」という無料休憩所。![]()
建物の中には、江戸期の宿場の地図や浮世絵、さらに囲炉裏などもあって、ゆっくりと休憩できるようになっています。dも
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トイレをすませ、ここで小休止し、草津宿まで出発です。午前10時50分頃。
道標。
しばらく進むと、左手に本陣跡の碑。奥には大きな「明治天皇聖蹟」碑。
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石部宿 小島本陣跡
石部宿には、幕府直轄と膳所藩直轄の二つの本陣が置かれ、全盛期には216軒の商家や62軒の旅籠が並び、東海道51番目の宿場町として栄えました。数多くの大名や明治天皇なども宿泊した小島本陣は、慶安3年(1650)に創建されましたが、膳所藩主本多俊次、康将二代に対する小島氏の顕著な奉公により承応元年(1652)に本陣職を許されました
湖南市観光協会
広重「石部 目川の里」。
「目川」は「石部宿」を出て、草津宿に寄ったところになります。
ところで、「石部宿」というと、「石部金吉」を連想します。近くに金山があり、「石部金吉」はここから出たといわれます。
辞典では
石と金の二つの硬いものを並べて人名のようにした語》非常にきまじめで物堅い人。特に、女色 (じょしょく) に迷わされない人。また、融通のきかない人物。堅物(かたぶつ)
とあって、特に「石部宿」との関連はなさそうですが。
昔はたしかにいました、こういう方が。現在は果たして・・・。「あいつは石部金吉だからなあ」などという表現はすでに「死語」?
当時の隧道の扁額。

この場所から東約50m先の交差点付近には、以前天井川の家棟川があり、隧道(トンネル・マンボ)がありました。
旧東海道の家棟川隧道は、長さ21.8m、3.6m、4.5m、欠円アーチ断面両側壁とも花崗岩切り石積みで、1886年(明治19年)に築造、家棟川の平地化に伴い1979年(昭和54年)にその姿を消しました。
当時のものとして県令(知事)中井 弘 筆「家棟川」扁額(頚学)が、ここに残されています。
現存する隧道は、1886年(明治19年)に竣工した由良谷川隧道と1884年(明治17年)、竣工した大沙川隧道の二ヵ所でで、国指定重要文化財に相当する土木遺産と評価されています。
・・・
平成26年6月(2014) 三雲学区まちづくり協議会
「家」の「棟」という川の名に「天井川」という印象を持たせます。残る二つのうち、「由良谷川隧道」も早晩、消えゆくことになりそうです。
この付近には国の天然記念物「うつくし松」の自生地があるようです。


国指定天然記念物 うつくし松
平松に自生する赤松の変種、根から放射状に出て傘をひらいたような美形の松で、その名も「うつくし松」。大小200本が群生し、日本でここだけしかなく、国の天然記念物に指定されています。
平安時代、体が悪く弱々しい生活を送っていた藤原頼平という青年がこの地を訪れたとき、美娘が突然現れ、松尾神社のつかいで頼平のお供を命じられたといって須賀Tを消した。辺りを見ると周辺の木々が美しい松に変わったという。
この地を頼平の平と美松の松をとって平松となったと言われています。
湖南市観光協会
行くことができなかったので、

美松山の斜面だけに群生する、極めて珍しいマツ。劣性遺伝による変種といわれ、国の天然記念物に指定されています。根本近くから枝が放射状に分岐した樹形は、まるで扇か傘のよう。平安時代、藤原頼平が静養でこの地を訪れた際、松尾神社の使いの童女が現れ、周囲の山を美しい松に変えたとか。そんな伝説にふさわしい、神秘的なムードをたたえた名所です。
(「

先に進むと、左手に「高木陣屋跡」。

元禄11年(1698)道中奉行に任命された高木伊勢守が、元禄12年(1699)に平松を領するようになった。その後、文化年間(1804~1817)に宏壮な二階建ての陣屋を建てたが、明治維新後、個人の所有となり建物が取り払われた。
しかし、陣屋の門は、その後所有者が転々とするが、現在は三雲の郷内にあるレストラン入口の門として再移築されて、当時の面影を残している。
湖南市観光協会
旧街道らしい家並みを進みます。

左に曲がる付近には「常夜燈」。

その向かいには「お休み処」。

「ようこそ! きずな街道(東海道)へ」。
小さな橋を渡ると、「石部宿」。



宿内のようす。
しばらく進むと「石部宿・東見附」跡。

東の見附は目川屋より約30㍍東にいったあたりで、道路の中央付近まではみ出していた幅3㍍ばかり高さ2㍍程度の台場であり、石部宿の両入口にあった。
枡形城門の俗称で番兵が通行人を見張るところから「見附」と言われた。
石部宿には東西二ヶ所に設けられていた。
湖南市観光協会


そのそばにある「目川米穀店」。

道路沿いの街灯には「東海道」の幟が続きます。

「石部中央」の交差点脇は小公園になっていて、常夜燈や石部町の案内等があります。


石部町
石部町は、古くは東海道五十三次の五十一番目の宿場町として栄えた。
明治22年4月1日に石部村、東寺村、西寺村の三ヵ村連合区域の統合によって「石部村」として誕生、明治36年6月1日には、県下で12番目、甲賀郡では2番目の町制施行によって「石部町」となり、今日まで永い歴史が刻まれています。
2000年(平成12年)3月吉日
さらに「高札場」跡の解説板。

高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所で、現在の県道113号(とんや道)と旧東海道の交差点の道路の中ほどのあたりで問屋場の横にあったと伝えられている。
約80センチメートル程度の石垣の上にたっていた。
元禄の頃は、みのや橋の横にあったが、いつの時代か問屋場の横に移転された。
湖南市観光協会
その隣には「石部城跡」の解説板。
壁には広重の浮世絵。

「都(つ)つじいけて その陰に干鱈 さく女 芭蕉 (つつじいけて そのかげにひだら さくおんな)」
も紹介されています。
《昼の休(やすら)ひとて旅店に腰を懸けて》と詞書あり。貞亨2年、『野ざらし紀行(甲子吟行)』の旅で、大津から水口宿に出る途上での一句。ただし、『野ざらし紀行』には載せられていません。『泊船集』に所載。
季語は「つつじ」で春。6・8・5の破格の句。
石部宿内の「真明寺」境内に、この句の句碑があるようです。
通りの反対側には「問屋場跡」の解説板。

石部宿の問屋は、人馬・伝馬・荷馬を集めて宿の業務(継立て事務)を行うところを問屋と呼び、いつも役人が3名~5名ほど在中し人馬の継立てをする仕事を分担して賑わっていました。
場所は石部中央の信号から北へ100メートルほどの砂川の東門にあったが、後に信号の北西の角あたりに移ったと言われています。
湖南市観光協会
その隣にはかつてあった、回り舞台を備えた芝居小屋「常盤館」の解説文があります。
しばらく行くと、左手角に「いしべ宿駅」という無料休憩所。

建物の中には、江戸期の宿場の地図や浮世絵、さらに囲炉裏などもあって、ゆっくりと休憩できるようになっています。dも


トイレをすませ、ここで小休止し、草津宿まで出発です。午前10時50分頃。
道標。

しばらく進むと、左手に本陣跡の碑。奥には大きな「明治天皇聖蹟」碑。


石部宿 小島本陣跡
石部宿には、幕府直轄と膳所藩直轄の二つの本陣が置かれ、全盛期には216軒の商家や62軒の旅籠が並び、東海道51番目の宿場町として栄えました。数多くの大名や明治天皇なども宿泊した小島本陣は、慶安3年(1650)に創建されましたが、膳所藩主本多俊次、康将二代に対する小島氏の顕著な奉公により承応元年(1652)に本陣職を許されました
湖南市観光協会

「目川」は「石部宿」を出て、草津宿に寄ったところになります。
ところで、「石部宿」というと、「石部金吉」を連想します。近くに金山があり、「石部金吉」はここから出たといわれます。
辞典では
石と金の二つの硬いものを並べて人名のようにした語》非常にきまじめで物堅い人。特に、女色 (じょしょく) に迷わされない人。また、融通のきかない人物。堅物(かたぶつ)
とあって、特に「石部宿」との関連はなさそうですが。
昔はたしかにいました、こういう方が。現在は果たして・・・。「あいつは石部金吉だからなあ」などという表現はすでに「死語」?