「田楽茶屋」のある角を右に曲がります。本日は休みとのこと。
石部宿 田楽茶屋
石部宿は、東海道51番目の宿場町として栄えました。
歌川(安藤)広重が天保3~4年(1832~1833)の時、東海道を55枚の風景道中画で表し、田楽茶屋は石部宿の象徴として紹介されました。栗東の岡に「京いせや」「こじまや」「元いせや」の三軒の代表的な田楽茶屋あり、ここは平成14年旧石部町制百周年記念事業として再現されました。
湖南市観光協会
ところで、「田楽」とは?
近江国目川(現在の滋賀県栗東市目川)の菜飯田楽は、串に刺した豆腐に葛を引き味噌を付けて焼いた田楽に菜飯を組み合わせ、東海道を行く旅人に好評だった。
菜飯田楽の一例。愛知県豊橋市の飲食店にて。
(この稿、「Wikipedia」より)
田楽の名の由来
串に刺した豆腐を焼いて、木の芽みそやゆずみそ、黄味みそをつけていただく田楽。ひなびたなつかしい味は、豆腐料理の定番です。 この「田楽」という名はどこからきたのでしょうか。よく調べてみると、時代は平安から室町時代にまでさかのぼります。
田楽踊りと田楽法師
当時の農村では、田植えや祭りなどのときに田んぼで太鼓に合わせて踊る風習がありました。田楽舞い、あるいは田楽踊りといわれていたものです。やがてこの舞いを職業にする人々が表われてきます。
白い袴をはき、その上に色のついた上着をはおった田楽法師。彼らは単に踊るだけではありません。竹馬のような一本棒にのってピョンピョンはねたり踊ったりするのも中にはあったのです。
白い豆腐に色のついたみそをつけて食べる串焼きが、ちょうどこの田楽法師らの衣裳にそっくりなところから付いた名前が「田楽」。こうして人々は、豆腐の串焼きのことをいつしか「田楽豆腐」とか、略して「田楽」と呼ぶようになったのです。
この串焼き料理は、箸や皿を使わずに手軽に食べられることから、田楽法師のようにいつの間にか村から村へと広がっていきました。食材も豆腐だけでなく、こんにゃくや里いも、しいたけなどの野菜はもちろん、にしんなどの魚にまでバリエーションが及んだようです。
ところで、冬の料理としてお馴染みの「おでん」も、もともとは豆腐の串刺し、つまり田楽のことを指していたのをご存じでしょうか。「お」は接頭語の御で、「でん」は田楽を略したもの。こんにゃくを串に刺してみそをつけたものをおでんと呼ぶのは、そのなごりだといわれています。
ちなみに、現在のように大根やこんにゃく、昆布、はんぺんなどを煮込んだ料理を「おでん」と呼ぶようになったのは比較的新しく、江戸時代も終わりごろといいます。
さて、田楽踊りは消え去りましたが、熱々の香ばしい田楽は、いまでも郷愁をさそう馴染みの深い一品です。
(この稿、「
」HPより)
なお、東京の「おでん」は味噌仕込みではありません。これは江戸っ子が「ミソを付ける」に通じ、げんが悪いとしたからだ、という。
ここでは、お蕎麦やおにぎりなどを売っているようです。
来た道を振り返って宿内を望む。
その先の正面を左に折れます。鈎の手(枡形)になっています。
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鈎の手道
京都方面から来て、見附を通り過ぎると街道が鈎の手に二ヶ所設置されていて、敵がむやみに侵入しにくい構造になっていた。
石部宿には八ヶ所の交差点があったが、宿内を見通せない遠見遮断で防御の役割をはたしていた。
湖南市観光協会
左に折れてすぐ右手にあるのが「石部一里塚」跡。
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石部一里塚跡
慶長9年(1604)東海道が整備された翌年に、西横町宮道が東海道に出た所あたりに設置されていた。
北側には榎、南側には椋の木が植えられていたが、明治2年に宿駅制度が廃止された時に撤去された。
これより西は梅の木の立場にあった。東は夏見の立場にあった。
湖南市観光協会
日本橋から116里目の一里塚。
「西の見附」跡。
石部宿西の見附跡
見附は桝形城門の俗称で、番兵が通行人を見張るところから、「見附」と言われています。
東の見附より西の見附の間が石部宿であり、宿場の街頭の出入口にも見附が構築されたが、それは土手状のもので、石部宿の場合、東西二ヶ所にありました。見付の西側には、目見改場(めみえあらためば)が設けられていました。
湖南市観光協会
宿内を振り返って望む。![]()
小公園。
南の山の斜面で遊ぶ子ども達。
石部宿を過ぎると、前方遠くに「三上山」の姿が見えます。![]()
右に折れてJR草津線「石部」駅前の公園へ。
東海道に因む。
午前11時15分。早帰りの高校生の姿も。中間考査中?
まだまだ先に向かいます。
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再び「東海道」に戻ります。江戸時代、ここは宿内に入る手前に整列した場所で、西縄手と呼び長い松並木がありました。
松並木の復元事業が行われています。![]()
「東海道五十三次」の地図。現在地 ↓ 。京まであとわずかに。
突き当たりを左折します。![]()
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川沿いの道の両側には採石工場などが並んでいます。北側には野洲川。景色も開けた感じがします。
左手に解説板。![]()
五軒茶屋道と古道
天和2年(1682)8月出岩地先で(「野洲川」の)大洪水により東海道が流出して河原となる。天和3年4月18日、約半年後に新道を膳所藩本多氏が南側に着工するが、崩壊した前東海道より約2倍の2㎞の距離となった。
新道が山の中を通過するために安全を願って元禄2年(1685)五軒の茶屋が石部宿より移転することとなりました。
明治4年(1871)には新道の距離がながいために旧道が整備されて今までの東海道が復元された。
湖南市観光協会
左手に工場の間を縫っていく上り坂が見えます。それが「五軒茶屋道」に通じるみちなのでしょうか? 地図では上部に「五軒茶屋草の根ひろば」という表示がありますが、その先は不明なところも・・・。
JR草津線沿いの道を行きます。
「名神高速道路」の下をくぐります。
のどかな景色。![]()
「三上山」が右手に。手前には「辻行燈」。![]()
まっすぐな道。右手はJR草津線。![]()
「三上山」。
三上山
『古事記』『延喜式』にも記述が見え、また和歌にも詠まれた由緒ある山である。
紫式部が「打ち出でて 三上の山を 詠れば 雪こそなけれ 富士のあけぼの」と詠んだように、「近江富士」という愛称がある。
藤原秀郷(俵藤太)による大ムカデ退治伝説が残ることから「ムカデ山」の異名も持つ。
中世以降、周囲の山々が燃料などの採取目的に伐採が続けられて、大規模にはげ山化していったが、三上山は取り残されるように青々とした山様を維持した。
このことからランドマーク的に存在感を増し、松尾芭蕉が「三上山のみ夏知れる姿かな」と詠んでいる。
(以上「Wikipedia」参照)


石部宿 田楽茶屋
石部宿は、東海道51番目の宿場町として栄えました。
歌川(安藤)広重が天保3~4年(1832~1833)の時、東海道を55枚の風景道中画で表し、田楽茶屋は石部宿の象徴として紹介されました。栗東の岡に「京いせや」「こじまや」「元いせや」の三軒の代表的な田楽茶屋あり、ここは平成14年旧石部町制百周年記念事業として再現されました。
湖南市観光協会
ところで、「田楽」とは?
近江国目川(現在の滋賀県栗東市目川)の菜飯田楽は、串に刺した豆腐に葛を引き味噌を付けて焼いた田楽に菜飯を組み合わせ、東海道を行く旅人に好評だった。

(この稿、「Wikipedia」より)
田楽の名の由来
串に刺した豆腐を焼いて、木の芽みそやゆずみそ、黄味みそをつけていただく田楽。ひなびたなつかしい味は、豆腐料理の定番です。 この「田楽」という名はどこからきたのでしょうか。よく調べてみると、時代は平安から室町時代にまでさかのぼります。

当時の農村では、田植えや祭りなどのときに田んぼで太鼓に合わせて踊る風習がありました。田楽舞い、あるいは田楽踊りといわれていたものです。やがてこの舞いを職業にする人々が表われてきます。
白い袴をはき、その上に色のついた上着をはおった田楽法師。彼らは単に踊るだけではありません。竹馬のような一本棒にのってピョンピョンはねたり踊ったりするのも中にはあったのです。
白い豆腐に色のついたみそをつけて食べる串焼きが、ちょうどこの田楽法師らの衣裳にそっくりなところから付いた名前が「田楽」。こうして人々は、豆腐の串焼きのことをいつしか「田楽豆腐」とか、略して「田楽」と呼ぶようになったのです。
この串焼き料理は、箸や皿を使わずに手軽に食べられることから、田楽法師のようにいつの間にか村から村へと広がっていきました。食材も豆腐だけでなく、こんにゃくや里いも、しいたけなどの野菜はもちろん、にしんなどの魚にまでバリエーションが及んだようです。
ところで、冬の料理としてお馴染みの「おでん」も、もともとは豆腐の串刺し、つまり田楽のことを指していたのをご存じでしょうか。「お」は接頭語の御で、「でん」は田楽を略したもの。こんにゃくを串に刺してみそをつけたものをおでんと呼ぶのは、そのなごりだといわれています。
ちなみに、現在のように大根やこんにゃく、昆布、はんぺんなどを煮込んだ料理を「おでん」と呼ぶようになったのは比較的新しく、江戸時代も終わりごろといいます。
さて、田楽踊りは消え去りましたが、熱々の香ばしい田楽は、いまでも郷愁をさそう馴染みの深い一品です。
(この稿、「

なお、東京の「おでん」は味噌仕込みではありません。これは江戸っ子が「ミソを付ける」に通じ、げんが悪いとしたからだ、という。

来た道を振り返って宿内を望む。

その先の正面を左に折れます。鈎の手(枡形)になっています。


鈎の手道
京都方面から来て、見附を通り過ぎると街道が鈎の手に二ヶ所設置されていて、敵がむやみに侵入しにくい構造になっていた。
石部宿には八ヶ所の交差点があったが、宿内を見通せない遠見遮断で防御の役割をはたしていた。
湖南市観光協会
左に折れてすぐ右手にあるのが「石部一里塚」跡。


石部一里塚跡
慶長9年(1604)東海道が整備された翌年に、西横町宮道が東海道に出た所あたりに設置されていた。
北側には榎、南側には椋の木が植えられていたが、明治2年に宿駅制度が廃止された時に撤去された。
これより西は梅の木の立場にあった。東は夏見の立場にあった。
湖南市観光協会
日本橋から116里目の一里塚。

石部宿西の見附跡
見附は桝形城門の俗称で、番兵が通行人を見張るところから、「見附」と言われています。
東の見附より西の見附の間が石部宿であり、宿場の街頭の出入口にも見附が構築されたが、それは土手状のもので、石部宿の場合、東西二ヶ所にありました。見付の西側には、目見改場(めみえあらためば)が設けられていました。
湖南市観光協会
宿内を振り返って望む。



石部宿を過ぎると、前方遠くに「三上山」の姿が見えます。

右に折れてJR草津線「石部」駅前の公園へ。

午前11時15分。早帰りの高校生の姿も。中間考査中?
まだまだ先に向かいます。


再び「東海道」に戻ります。江戸時代、ここは宿内に入る手前に整列した場所で、西縄手と呼び長い松並木がありました。
松並木の復元事業が行われています。


突き当たりを左折します。


川沿いの道の両側には採石工場などが並んでいます。北側には野洲川。景色も開けた感じがします。
左手に解説板。

五軒茶屋道と古道
天和2年(1682)8月出岩地先で(「野洲川」の)大洪水により東海道が流出して河原となる。天和3年4月18日、約半年後に新道を膳所藩本多氏が南側に着工するが、崩壊した前東海道より約2倍の2㎞の距離となった。
新道が山の中を通過するために安全を願って元禄2年(1685)五軒の茶屋が石部宿より移転することとなりました。
明治4年(1871)には新道の距離がながいために旧道が整備されて今までの東海道が復元された。
湖南市観光協会
左手に工場の間を縫っていく上り坂が見えます。それが「五軒茶屋道」に通じるみちなのでしょうか? 地図では上部に「五軒茶屋草の根ひろば」という表示がありますが、その先は不明なところも・・・。
JR草津線沿いの道を行きます。

のどかな景色。

「三上山」が右手に。手前には「辻行燈」。

まっすぐな道。右手はJR草津線。


三上山
『古事記』『延喜式』にも記述が見え、また和歌にも詠まれた由緒ある山である。
紫式部が「打ち出でて 三上の山を 詠れば 雪こそなけれ 富士のあけぼの」と詠んだように、「近江富士」という愛称がある。
藤原秀郷(俵藤太)による大ムカデ退治伝説が残ることから「ムカデ山」の異名も持つ。
中世以降、周囲の山々が燃料などの採取目的に伐採が続けられて、大規模にはげ山化していったが、三上山は取り残されるように青々とした山様を維持した。
このことからランドマーク的に存在感を増し、松尾芭蕉が「三上山のみ夏知れる姿かな」と詠んでいる。
(以上「Wikipedia」参照)