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Channel: おやじのつぶやき
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横田常夜燈。大沙川隧道。夏見一里塚。・・・(「三雲駅」から「草津駅」まで。その1。)

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 翌13日(火)。ホテルを出て、コンビニで買い物。駅に向かうと通学する高校生が続々。「三雲」まで一駅戻って再開。駅に降りて少し東へ。「常夜燈」をパチリ。


    

東海道五十三次石部宿 横田常夜燈

 東海道13の渡しの難所の一つに数えられる横田の渡し場。湖南市側に建立されている。
 安永8年(1774)に東講中によって建てられた大袋付の常夜灯である。高さ4.85㍍、五段の石積みの上に建っている。水口側の常夜灯より50年以上前に建てられていた。
 建立された当時は現在地よりも200㍍ばかり上流に建っていたが、いつの時代か現在地に移転された。

 湖南市観光協会

      
                この道(旧東海道)の先が「野洲川」。向こう岸に水口側の常夜灯がある。

 時刻は8時半過ぎ。晴天。今日の予定は「(51)石部宿」から「(52)草津宿」まで。
 駅前の交差点の角には、「微妙大師萬里小路藤房卿墓所」「妙感寺」と刻まれた石碑。

その先の民家には「明治天皇聖跡」の巨大な石碑。

途中には大きな案内図。
                  「東海道(きずな街道) 歴史探訪・史跡巡りマップ」。行く手を指し示してくれます。

 道なりに進み、野洲川の支流の「荒川橋」を越えると左手に三基の石碑。

その奥に「草津線」の踏切が見えます。

 しばらく進み、草津線の踏切を渡ります。線路際に大きな道標と案内図。

    

 しばらく進むと天井川である「大沙川」の下をトンネルで通り抜けます。

    
                              「大沙川隧道」

 大沙川は東海道の上を流れる天井川である。奈良時代に奈良の仏教寺院や石山寺の造営時、この辺りの木々が切り倒されて禿げ山となり、大雨の毎に土砂が流れ、川底が上がり天井川になったと言われている。明治17年(1884)3月に県下最初の道路トンネルとして築造され、花崗岩の切り石積みの頑丈な構造で地元では、「吉永のマンポ」と呼ばれ親しまれている。(先ほどの「案内図」より) 

 トンネルを抜けると左手に「弘法杉」の解説板。

    

弘法杉

 天井川になっている大沙川の堤の上にそびえる大杉は樹齢750年と言われる「弘法杉」、弘法大師がここを通りかかった時にこの場所を昼食場所に選び、その時に使われた杉箸を脇に刺された。後にそれが成長して大杉になったと伝えられている。以前は二本あったが、一本は江戸時代に台風で倒れている。(「同」より)

「大沙川隧道」を振り返る。

「三雲城跡と八丈岩」。 

 三雲城は山の中腹(標高340㍍)の八丈岩付近に安土の観音寺城主佐々木六角高頼の逃げ込み用の本城として長享2年(1488)三雲典膳に築かせた。
 しかし、織田信長の京都侵攻で、信長の家臣佐久間信盛に攻撃を受け、元亀元年(1570)山裾にある三雲屋敷と共に落城した。
 城跡には石垣の枡形虎口や、石組みの古井戸、八丈岩の背後の巨石群の中に六角氏の家紋「四つ目結」が刻まれた岩も残っている。

 湖南市観光協会

 山の方に目を向けると大きな白い岩(↓)があります。

    

しばらく進むと「夏見の里(藤棚)」。

 この辺が夏見の里と言われ、ここでも何軒かの茶店があり、立て場の役割を果たしていた。
名物のトコロテンや名酒桜川が茶碗酒として計り売りされ、店先では水車を廻し旅人の目を楽しませていた。
 又、いなりやという茶店があり歌川広重が描く(藤の棚)の店として紹介されているが、へ平成21年に藤と共に棚も撤去された。

隣にはかなり古びた解説板。

夏見の里
 「方丈記」に行く水の流れは元の水にあらずといへども、この木偶(にんぎょう)の行衛は元の水にして、しかも昼夜すてず、ただ過ぎにすぐる物と「枕草子」にいいひし類とやいはん

???

旧道らしい家並みを進みます。

電柱の陰から「ドラえもん」が顔をのぞかせ、

 しばらく進むと、「夏見一里塚」跡。

    

夏見一里塚

 一里塚とは、大きな道路の側に一里(約3.927㎞)毎に旅人の目印として設置した塚(土盛)である。
 一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年に江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令が出され、徳川家康の命を受け、大久保長安の指揮の下に行われ、10年ほどで完了した。塚の大きさは5間四方(約9m)、高さは1丈(約3m)で多くは榎が植えられ、木陰で旅人が休息をとれるよう配慮されていた。
 この夏見の一里塚は江戸の日本橋から115里の地点にあり、東の先は水口(泉)に、西の先は石部にそれぞれ一里塚があります。しかし、多くあった一里塚も明治以降は保護されず、道路の拡張や開発によってなくなり、そのまま残っているのはごく僅かで、この一里塚のように跡地を示すだけになっています。この写真は数少ない愛知県名古屋市にある笠寺一里塚で、このような塚がここにもあったと想像されます。

 平成27年1月(2015) 三雲学区まちづくり協議会 

 今年になって設置された解説板のようです。「笠寺一里塚」にここで再会するとは思ってもいませんでした。東海道に関する地元の方々の力の入れようを感じます。

道路の反対側には祠? があります。

来た道を振り返って望む。

その先「湖南市立夏見診療所」の所にも解説板が。

石部宿一里塚

 この辺が夏見の立場といわれ、ここでも何軒かの茶店があり、立て場の役割を果たしていた。名物トコロテンや名酒桜川を売っていた。
 又ここから約70㍍ばかり東に行った所に一里塚があった。道路の南側に約30㌢四方の枠が埋められている。一里塚に植えられた榎の木陰で旅人はトコロテンを食べながら一休みした場所である。

 湖南市観光協会 

すぐ先にトンネルが見えます。二つ目の天井川「由良谷川」です。工事中で、歩行者と自転車のみ通れます。

 由良谷川隧道は大沙川隧道の2年後の明治19年竣工、花崗岩で出来た切り石を追石に使用しているどっしりとした重厚な造り。由良谷川は野洲川に合流する河川で東海道の上を流れる天井川である。毎年辺りは紅を差したように明るくなる見事な桜並木である。(「同」より) 

その脇には「新田道」の道標。

 「由良谷川隧道」をくぐり抜けたあと、そこにいた工事関係者の方に「トンネルの拡幅工事ですか? 」とたずねると、
 「いや、川を道路の下に通す工事ですよ。大雨での洪水防止のため、天井川を解消するするのです。この先はもう完成していますので。」
 「では、天井川ではなくなるのですか」
 「そうです」。
 「ということはここは橋になるということに。」

「天井川」の土手を見上げる。
 
 流路変更の工事によって、この隧道はなくなる運命にあります。

ところで、「天井川」とは?

 川底が、周辺の地面の高さよりも高い位置にある川のことを天井川といいます。
 川に流れる土砂が多い川では、堤防を作って流路を固定すると、土砂がたまり川底が上がります。洪水を流せなくなるため堤防を高くしていき、天井川になってしまいます。
 このような川では、川より地盤が低い堤内地に洪水が流れ込むと、川に水を戻しにくいため被害が大きくなります。

                    
                          イメージ画像

(以上「」HPより)

 「天井川」というと、つい、東京・江東区など下町のゼロ㍍地帯を流れる川・用水路で、見上げるような高い堤防になっているものを連想してしまいましたが、ここでいう「天井川」とは成り立ちがまったく異なるもの、ということなのですね。
 
振り返って望む。

 「東海道・きずな街道」には、行き交う旅人の便宜を図って随所に「お休み処」があります。ここもその一つ。

そこにあった解説板。

針文五郎顕彰碑
 天保13年(1842)10月14日から16日、野洲、甲賀、栗太三郡の百姓が幕府の不法検地強行に蜂起した天保一揆である。この首謀者11人が最高裁の江戸送りとなる。
 針の文五郎は十万日検地日延べ書持参の罪であった。一番駕籠は文五郎で道中3人が死亡し、江戸の白洲で8人が拷問にあいながら不法検地を訴え続けた。
 しかし、全員獄死した。
 針の文五郎は人一倍正義感の強い指導的立場の精農家であった。天保14年4月18日死亡後年五十歳

 湖南市観光協会 

その先に、造り酒屋の老舗・北島酒造。

    

明るく開けたところに出てきました。昨日泊まったホテルの最寄り駅「甲西」駅が見えます。一駅分歩いただけです。約1時間。

    
                                       「案内図」もそろそろ終わりに近づいてきます。

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