どこまでもまっすぐな道が続きます。車もほとんど通らず、のんびりと。
道の反対側に移動しても景色は変わらず。
周囲には田園風景が広がります。
「国道1号線」方向。
街道歩きを応援してくれています。
振り返って望む。はるか遠くまで一直線。
やっと集落に入って行きます。
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その町並みも終了、その先のY字路を左に進むと、「舞込橋」橋のたもとに道標。
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橋の向こうに見えるのが、「日吉神社」の森。![]()
その道沿いに「泉一里塚」があります。その手前には、「日吉神社御旅所」という石柱。
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東海道泉一里塚
東海道を整備した江戸幕府は江戸日本橋を起点として街道の両側に一里(約4㎞)塚を築いたが、本町域では泉・林口・今在家(今郷)の三箇所に一里塚があった。
塚上には榎などを植えて旅人の目印とし、道中奉行の管轄下に維持管理がなされた。当時のものは現在地よりやや野洲川寄りにあったが、これはそのモニュメントとして整備されたものである。
そのまま進むと、「横田の渡し」に。
広場になっています。
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東海道横田渡
鈴鹿山脈に源を発する野洲川は、このあたりで「横田川」と呼ばれてきました。
伊勢参宮や東国へ向かう旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の史料にも「横田河橋」の名が見えています。
江戸時代に入り東海道が整備され、当所は東海道十三渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。
そのため、他の「渡」と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に「渡」の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。
これによると、3月から9月の間は4艘の船による船渡しとし、10月から翌2月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。
野洲川と支流の杣川が合流する当地は、水流も激しく、また流れの中には巨石も顔を見せ、道中の難所に数えられました。
「渡」の景観は、往時のガイドブックである名所図会や絵図にも多数描かれており、旅人でおおいに賑わいました。
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東海道横田橋常夜燈
この巨大な石燈篭は文政5年(1822)増加する旅人の目印になるよう、泉側の川岸に地元や京都・大坂を中心とした万人講中の寄進によって建てられたものです。
その高さは10.5メートル、燈火を灯す火袋は大人でも通れるほどで、どうちゅうでも最大級のものとされています。
建造には多額の費用を費やしたため、基壇には多くの寄進者名が刻まれています。
明治以降、水害によって一部形状を損ないましたが、その交通史上の価値は高く、水口町の文化財に指定されています。
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横田橋の歴史
横田橋の名は、寛正2年(1461)5月24日の室町幕府奉行人文書(山中文書)に、「酒人郷横田河橋」として見えるのが早く、京都西芳寺によって橋賃が徴収されていたことが知られています。
江戸時代には、東海道の「渡」のひとつとして幕府の管理下におかれ渇水期に土橋が架けられたほかは、船渡しとなっていました。
明治24年、泉・三雲間を結ぶ長大な板橋が架けられました。この石垣は当時の橋台の一部です。
その後、昭和4年には下流に橋が移され、同27年には国道一号線の敷設によって現在の横田橋へと推移しました。
「横田橋」の説明板のある場所から、かつての横田橋は架けられていました。
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現在はここから向こう岸に渡ることは出来ないので、迂回して「国道1号線」へ向かいます。
「(日本橋から)456.5」という表示。甲賀市から湖南市入り。
現「横田橋」で「野洲川」を渡ります。
午後5時少し前。
橋を渡って「国道1号線」から離れて左に曲がって行くと、JR草津線「三雲駅」に。駅前の道が旧東海道。先ほどの「横田の渡し」からの道につながります。駅の東方には「石部・横田常夜燈」がありますが、それは明日の朝に。
歩きはここまで。約6時間の行程でした。
JR「三雲」駅から一つ先の「甲西」駅に向かい、「国道1号線」沿いの「ビジネスホテル」に泊まることに。

周囲には田園風景が広がります。

街道歩きを応援してくれています。


やっと集落に入って行きます。


その町並みも終了、その先のY字路を左に進むと、「舞込橋」橋のたもとに道標。

橋の向こうに見えるのが、「日吉神社」の森。

その道沿いに「泉一里塚」があります。その手前には、「日吉神社御旅所」という石柱。


東海道泉一里塚
東海道を整備した江戸幕府は江戸日本橋を起点として街道の両側に一里(約4㎞)塚を築いたが、本町域では泉・林口・今在家(今郷)の三箇所に一里塚があった。
塚上には榎などを植えて旅人の目印とし、道中奉行の管轄下に維持管理がなされた。当時のものは現在地よりやや野洲川寄りにあったが、これはそのモニュメントとして整備されたものである。
そのまま進むと、「横田の渡し」に。


東海道横田渡
鈴鹿山脈に源を発する野洲川は、このあたりで「横田川」と呼ばれてきました。
伊勢参宮や東国へ向かう旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の史料にも「横田河橋」の名が見えています。
江戸時代に入り東海道が整備され、当所は東海道十三渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。
そのため、他の「渡」と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に「渡」の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。
これによると、3月から9月の間は4艘の船による船渡しとし、10月から翌2月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。
野洲川と支流の杣川が合流する当地は、水流も激しく、また流れの中には巨石も顔を見せ、道中の難所に数えられました。
「渡」の景観は、往時のガイドブックである名所図会や絵図にも多数描かれており、旅人でおおいに賑わいました。


東海道横田橋常夜燈
この巨大な石燈篭は文政5年(1822)増加する旅人の目印になるよう、泉側の川岸に地元や京都・大坂を中心とした万人講中の寄進によって建てられたものです。
その高さは10.5メートル、燈火を灯す火袋は大人でも通れるほどで、どうちゅうでも最大級のものとされています。
建造には多額の費用を費やしたため、基壇には多くの寄進者名が刻まれています。
明治以降、水害によって一部形状を損ないましたが、その交通史上の価値は高く、水口町の文化財に指定されています。

横田橋の歴史
横田橋の名は、寛正2年(1461)5月24日の室町幕府奉行人文書(山中文書)に、「酒人郷横田河橋」として見えるのが早く、京都西芳寺によって橋賃が徴収されていたことが知られています。
江戸時代には、東海道の「渡」のひとつとして幕府の管理下におかれ渇水期に土橋が架けられたほかは、船渡しとなっていました。
明治24年、泉・三雲間を結ぶ長大な板橋が架けられました。この石垣は当時の橋台の一部です。
その後、昭和4年には下流に橋が移され、同27年には国道一号線の敷設によって現在の横田橋へと推移しました。
「横田橋」の説明板のある場所から、かつての横田橋は架けられていました。

現在はここから向こう岸に渡ることは出来ないので、迂回して「国道1号線」へ向かいます。

現「横田橋」で「野洲川」を渡ります。

橋を渡って「国道1号線」から離れて左に曲がって行くと、JR草津線「三雲駅」に。駅前の道が旧東海道。先ほどの「横田の渡し」からの道につながります。駅の東方には「石部・横田常夜燈」がありますが、それは明日の朝に。
歩きはここまで。約6時間の行程でした。
JR「三雲」駅から一つ先の「甲西」駅に向かい、「国道1号線」沿いの「ビジネスホテル」に泊まることに。