左手に「問屋場」跡の解説板があります。

問屋場跡
問屋場は、宿駅本来の業務である人馬の継ぎ立てを差配したところで、宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿まで運ぶ伝馬と、人足を用意しました。
水口宿では、江戸中期以来ここ大池町南側にその場所が定まり、宿内の有力者が宿役人となり、運営にあたりました。
右手にお休み処があります。ここで、小休止。若者達の団らんの声が聞こえます。からくり時計と「曳山」のモニュメント。


曳山の由来
江戸時代、ここ水口は東海道の宿場町であり、また加藤氏二万五千石の城下町として地域の政治、経済、文化の中心として発展しましたが、曳山祭はこの町に住む町衆の力によって創り出されたものであり、近世のまち水口の象徴であるといえましょう。
曳山の登場は享保20年(1725)のことで、このとき九基の曳山が巡行し、藩邸にもぐりこんで賑いました。その後一町ごとに曳山が建造されるようになり、その数三十基余りに達したといわれています。
当地の曳山は「二層露天式人形屋台」という構造をもち、複雑な木組み、精巧な彫刻、華やかな幕を飾りつけるとともに、屋上に「ダシ」と呼ばれる作り物をのせて町内を巡行します。その構造上、組上がったままで各町内に建てられている「山蔵」に収納されています。
「ダシ」は毎回趣向を変えてその出来栄えを競うものであり、巡行見物の一つの楽しみとなっています。
通りを進むと常夜灯とからくり時計があります。ここが三筋の合流地点。


振り返って望む。真ん中の道を来ました。
「近江鉄道」の踏切を越えると、曳山が格納されている「山蔵」があります。

この先、城下町特有の屈折した道が続きます。
この角「湖東信用金庫」を右折。



突き当たりまで進み、左折。さらにその先の突き当たりまで進みます。

突き当たったら、左へ。さらにその先を右に曲がります。曲がり角にあるのは、水口石と呼ばれる力石。

水口石
東海道に面した小坂町の曲がり角に伝えられる大石。「力石」とも呼ばれる。江戸時代から知られた大石と見えて、浮世絵師国芳が錦絵の題に採っている。
この辺りは水口藩の藩庁にもほど近く、長大な百間御長屋や、小坂町御門など城下のたたずまいが濃かった。
その先の公園には「百間長屋」跡。

小坂町に百間長屋がありました。百間長屋はお城の郭内の武家地にあり、百間(約180㍍)棟割長屋には、下級武士たちが隣り合って住んでいました。南側(郭内)に玄関があり、東海道に面した北側は出入口がなく、町場とは自由に往来が出来ませんでした。これは敵が攻めてきた時に郭内の城・藩邸を防御する役割を果たしたのです。長屋には往来に向かって小さな高窓があり、これを与力窓といいます。買い物などはこの窓から首を出して東海道を往来する物売りにヒモをつけたざる等に銭を入れ、その銭に見合う品物をざるに入れてもらって其れを引き上げる方法で買い物をしました。明治初期の絵図によると21軒が明記されています。
写真も掲示されています。
そのまま進んで広い通りに出る、右手「五十鈴神社」の角に案内板。

ここは、「林口一里塚」跡になっています。

一里塚跡
一里塚は街道の両側に一里(約4㎞)ごとに築かれたもので、東海道では慶長9年(1604)に江戸日本橋を起点として整備された。水口町域では今郷・林口・泉の三ヶ所に設けられている。
塚上には榎の木などを植えて厳重に管理し、旅人のよき目印ともなったが、明治維新後いずれも撤去された。
林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが水口城の郭内の整備にともない、東海道が北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移った。
本塚は、往時を偲んで修景整備されたものです。
この一里塚は、日本橋から113里目。また、ここは水口宿の「西見附」(京口)でもあった所のようです。ここで、「水口宿」ともお別れ、広い通りを左折、すぐその先の信号を右に曲がります。
しばらく行くと、「美冨久酒造」。

ちょうど新店舗のオープンセール中で、大勢のお客さんが。なんでもお酒を量り売りにしているそうです。


「純米吟醸 生原酒」。純米吟醸酒を加熱処理せず生のまま氷温の冷蔵庫で半年じっくり熟成をかけたお酒だ、とか。そこで、一杯。う~ん、搾りたてのお酒そのもの。あと1時間歩く予定ですが、これで少し元気に。
「量り売りといえば 甲賀のうまし酒 美冨久酒造」さんでした。
気分をよくして。

前方には、遙か彼方まで見通せる直線道路が。これが「北脇縄手」。西の終わりまで約2㎞の距離。
北脇縄手と松並木
東海道が一直線にのびるこの辺りは、江戸時代「北脇縄手」と呼ばれた。縄手(畷)とは田の中の道のことで、東海道の整備にともない曲りくねっていた旧伊勢大路を廃し、見通しの良い道路としたことにちなむと考えられる。
江戸時代、東海道の両側は土手になり松並木があった。街道は近隣の村々に掃除場所が割り当てられ、美しさが保たれていた。旅人は松の木蔭に涼を取り、旅の疲れを休めたといわれている。


かわいらしい「甲賀忍者」バージョン。
まっすぐな道をひたすら歩き続けます。この辺りから集団で歩く方達と抜きつ抜かれつに。
「旧東海道ツアー」の企画のようで、資料片手に案内する「コーディネーター」の方と歩きながら会話。
バスでの行き来のようで、断続的に日本橋から歩くという企画とのこと。今回は、土山宿と水口宿の途中から「三雲駅」まで。けっこう老人が多く、無理なく計画をしているようす。「三雲駅」からはまたバスに乗って「草津」まで出て泊まる予定だそうです。いつも同じメンバーかどうかは定かではありませんが、和気藹々と楽しげです。
追い抜いて後ろを振り返ると、姿が見えなくなりました。小休止かな?
「柏木公民館」に着くと、鐘楼のモニュメントが。

ふたを開けて中を覗くと、干瓢干しの作業のようすが。

裏側には安藤広重の辞世の歌
東路(あづまぢ)に筆をのこして旅の空 西のみくにの名所を見む
が記されているということですが、見落としました。
注:この歌を「東海道五十三次」の歌川(安藤)広重がつくったのかどうか、疑問符がつくようです。たしかに内容がうまくできすぎている感じがします。