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Channel: おやじのつぶやき
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今在家一里塚。水口宿東見附。本陣。三筋の町。・・・(「道の駅土山」から「三雲駅」まで。その5。)

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 ちょうど2時。「水口宿」にはすぐ右の上り坂を進みます。

 とその前に。

 今朝、「テレビ朝日《羽鳥・・・》」の番組で「旧東海道」歩きを放送していました。
 石原良純さんがガイドの方と箱根東坂(箱根湯本・三枚橋から芦ノ湖・箱根関所まで)のレポート。
 ところが、二人とも軽装もいいところ。ラフな格好で何も持たずに、早雲寺、石畳、畑宿の庭園などを紹介していました。半日かかるくらいの、けっこうきつい上り坂もあるのにそれはないでしょう! 所々カットなので、途中、車で移動しているのがありあり。 
 もしこの放送を観て、秋の箱根路の魅力に惹かれ、これから(寒さが本格化する時期に)飲料水、雨具、非常食も持たずにあんな格好で歩いてみようかと出かける方がいたら、無謀。
 せめて、番組では箱根路を歩く心構え、服装とか持ち物とか最低限の配慮があってほしい、と思います。歩いた経験者として。

 さて、本題。  

 坂の途中には「今郷歴史街道マップ」。

坂を上がると平坦な道になります。

 そういえば、一年前の今頃は9番目の宿場「小田原宿」辺りでうろうろしていました。そして、今は50番目の「水口宿」、そして(51)「石部」、(52)「草津」、(53)「大津」と残すのみです。

しばらく行くと「今在家一里塚」。  

    

一里塚跡
 一里塚とは、江戸時代、街道の両側に、一里(約4キロ)ごとの築かれた塚で、江戸日本橋を起点として整備され、本町域では泉・林口・今在家(現在地近傍)の三箇所に存在しました。 塚本体は高さ数メートルにおよぶ大きなもので、塚上には榎の木などを植えて目印としました。行程の目安となり、又日陰を与えてくれるものとして親しまれましたが、明治維新後は撤去されてしまいました。

 「お江戸日本橋から112里目の一里塚」と銘記されています。ただし、この一里塚は復元されたもの。

 「一里塚」を過ぎたら、最初の角を左に折れて下り坂を進み、突き当たりを右に曲がります。目の前は「野洲川」。

              

右手に「高札場」跡。  
高札場
 高札場は幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札(高札)を掲示した施設であり、江戸時代六万箇所を越える全国の村々にあまねく立てられていました。多くの人々の目に触れるように、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通りの多い場所に設置されることが多く、この付近には今在家村の高札場がありました。また、小里村の高札場も「東海道分間延絵図」に描かれています。

司馬遼太郎「街道をゆく」の碑。

 古い道には、いにしえ人の気配があります。その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史があります。
 あるときは戦の道となって人馬どよめき、あるときは参宮の道となって賑やかな歌声に包まれたであろうこの道
 東海道は遠い昔にその役割を終え、今や暮らしの道として、風景の中にのびています。

右の道に進みます。

 静かで落ち着いた家並みの中を行きます。

    

すぐ県道に合流したあと、正面の家の右の道に進みます。

道標に従って右に曲がります。

かつての松並木を偲んで松が植えられています。
    

東海道の松並木
 江戸時代東海道の両側には松並木が整備され、近隣農村がその管理を行いました。並木は風や日差しをよけ、旅人の疲れを癒やしたのです。
 街道の清潔なことと、手入れの行き届いた松並木は、東海道を通行した外国人も称賛した記録があるほどでしたが、先の大戦を境にして、その多くは失われました。
 水口宿に程近いこのあたりからは、松並木の合間から古城山が望まれ、絵のような景色であったと思われます。

「古城山」が前方に見えてきます。水口宿はその麓に。

「田町」という石碑。

坂道を上がった右手に「案内図」。

「東見附(江戸口)」跡。

 見付とは近世城郭の門など、外と接し警備を行った場所をさす。
 この地が水口宿の東端すなわち「江戸口」となったのは、野洲川の川原に沿って通じていた東海道が、山手に付け替えられ宿の東部諸町が整備された慶長10年(1605)以降のことである。
 特に天和2年(1682)の水口藩成立以降は、水口はその城下ともなり、町の東西の入口は警備の施設も整えられた模様である。享保年間(1716~36)作成の「水口宿色絵図」によると、桝形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれている。「伊勢参宮名所図会」(寛政九年刊)に描かれた町並みは、この辺りの風景を描いたものと考えられる。
 なお、西見付(京口)は宿の西端、林口五十鈴神社の南側にあった。

全景。枡形を残しています。東海道は右奥から手前に進む。

    
                          宿内のようす。

「元町交差点」を渡ってしばらく進むと「本陣」跡。
                                奥には明治天皇の記念碑。



東海道水口宿

 水口は道によって開け、道によって発展した所です。
 この地には古くから東国へあるいは伊勢への道が通り、人々の往来が頻繁であったようですが、室町時代には伊勢参宮の将軍家が休泊しているように宿村として開け、また市が立つ所であったようです。
 しかし、現在につながる町の基ができたのは、天正13年(1585)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城(水口岡山城)を築かせてからのことです。この時山麓の集落は城下町となり、城主三代、15年の間に市街地の基礎が形成されました。
 関が原合戦翌年の慶長6年(1601)、交通体系の整備に取りかかった徳川氏は、東海道を整備しその要所の町や集落を宿駅に指定、公用人馬の迅速な輸送に備えましたが、直轄地でもあった水口はこの時宿駅に指定され、明治初年まで東海道五十番目の宿場町として歩みました。
 宿駅制度の目的は公用貨客の輸送にありましたが、徐々に一般貨客通行輸送、あるいは遊山・参詣を目的とした庶民の往来が盛んとなり、旅籠や商家が建ち並び、町は大いににぎわい、その町並みは東西2キロ余りに及びました。このうち東部市外の三筋に分岐した道路の形態は、特に珍しいものとされています。
 水口宿は甲賀郡内の三宿中最大の規模で、天保14年(1843)の記録によれば、家屋692(うち旅籠屋41)を数え、この地に小規模ながら水口藩の武家地が加わり、甲賀郡の中心としての地位を占めました。
 このような発展を受けて、著名文人の滞在があったり、享保年間には水口神社の祭礼に曳山が巡行するようになりました。また当時の宿場の名物としては、広重の浮世絵でも知られる干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等が知られています。
 なお、この碑のある場所は当時の本陣の跡です。

                             水口町


 東海道五十三次之内 水口 名物干瓢 / 歌川 広重

 水口では干瓢作りが女性の労働だった。夕顔の皮をむき、干す手仕事が夏の水口の様子を表わしている。奥にある集落の様子から閑静な農村であることがわかる。

 (「知足美術館」HPより)

    
 大正期の水口(「同」より)。                    現在のようす。

「桔梗屋文七」。

 「水口宿」は三筋に分岐した道路の形態になっている珍しい宿場。

 まず「高札場」のある分岐を左に進みます。

    

風情のある家並みが続きます。

次の分岐を右に進みます(三筋の真ん中の道)。

人通りはほとんどありません。

「曳山」山車の倉庫が点在しています。    

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