左手に「野洲川」の流れを見ながら西に向かいます。
街道筋には、かつての旅籠跡や屋号が目立ってきます。この辺りは「土山宿」と「水口宿」との間にあった「間の宿」になります。
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「東海道大野村 指物屋」。
「大野公民館」前には布引山の解説板と鴨長明の歌碑があります。
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布引山
布引山は名山であり、また歴史舞台であった東西三里の間、布を引く如く。春はたなびく春がすみ、夏は松の緑に映え、秋は月さえ積もる雪も美しき雪の朝、山の姿はうるはしく、春夏秋冬それぞれ趣あり。
平安の昔より阿須波道を行ききし斎王群行や、大宮人参宮の旅人によりて詩に歌によまれてきた。有名な歌人、鴨長明もこよなくこの布引山を愛し、詠まれた歌がある。
あらしふく 雲のはたての ぬきうすみ
むらぎえ渡る布引の山
水口大岡寺で得度された長明は歌よみの世界に技を引く。
江戸時代、東海道の大改修により道すじは変わるも東西布引にそったコースに変わりなく、近世、明治天皇明治13年行幸の供奉池原香採のよまれし歌に
○吾が袖に 通ふも涼し 布引の 山より下す 夏の朝風
○みゆきます 道のとばりと 見ゆる哉 布引はへし 山の姿は
平成3年3月25日 土山町教育委員会
「布引山」は、ここから少し北に位置する山です。
また漢詩碑もあります。
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過土山即興 土山を過ぎて即興する。
採茶時節事匁忙 採茶の時節 事匁忙(そうぼう)す。
緑髄青芽壮僻郷 緑髄(りょくづい)の青芽壮(せいがさかん)なり。僻郷(へきごう)に
清風一瀹(れん)君知否 清風あり。一瀹、君知るや否や、
遠到紅洋黒漠香 遠きに到る。紅洋黒漠として香し。
眞風軒
[意訳]
茶摘みの季節に、土山を過ぎて大野という村へ来て見ますと、農家の人達が大変忙しく働いておられた。
茶園を見ますと、茶の樹が整然と植えられており、その茶の樹には新芽が深緑の美しい色をしており、今、この村には初夏の清らかな風がさわやかに吹いていた。
この茶の葉を蒸すと緑茶となり、発酵させると紅茶になる事を皆さんは知っておりましたか。また、これらの茶が外国へも輸出されている事も知っておりますか。お茶は、香りも、色もよく、人々に愛されております。
尚、眞風軒という人は、「眞風軒詩鈔」という漢詩の本を作られており、甲賀郡内をあちこち散策され、各地の風情を漢詩にしておられる人で、江戸時代後期から明治時代にかけての人であります。
(注)「一瀹」は、「いちれん」とも「いちやく」とも読む。
土山の町並みを愛する会
振り返って望む。
間の宿として旅籠が多くあったようです。
こんな格好をした屋根のおうちが目立ちます。![]()
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作り酒屋さんが左手に。![]()
おなじみの「杉玉」。![]()
新酒の出来たときの目印です。時間がたつにつれ茶色くなっていき、お酒の熟成を表します。
しばらく進むと、「国道1号線」にぶつかるので、横断歩道(「歩道橋」もあり)で向こうに渡ります。
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交差点の手前には、「三好赤甫」旧跡があります。現在は、「赤甫亭」という食事処。
「土山ろまん第11号」より
みよし赤甫亭(せきほてい)
「おかみさん、あんたもうちょっと赤甫の研究をしとかなあかんでー、と来られたお客さんに言われます。またすこし俳句に興味のあるような人は、料理の下に敷いてある紙に思い付いた句を書いて帰られます。」と、赤甫亭のおかみさんが話されるように、三好赤甫は俳句を愛する人の中ではなかなか有名です。それも地元の土山ではそれほどでもないのに、京都あたりで名が高いというのも面白いものです。
赤甫さんは大野で代々魚屋を営む三好家の長男として、寛政十年(1798)に生まれました。普通ならば商売に励んで穏やかに暮らすところを、俳句への思い如何ともしがたく、常明寺の虚白禅師に師事して俳句の教えを受け、やがて虚白さんが京都の東福寺に移り住むや、家業を妻子に託し、また老いた父母を残し、師の後を追って故郷を後にしたのです。その時の句に「うぐいすや早苗に影を落としいく」とあり、現在、若王寺の境内に句碑が建っています。
京に出た赤甫さんは文人墨客と交流を深め、三十余年の間、俳句の研究に没頭し、句集「窓あかり」など何編もの名著を残し、俳壇に立つ人々に高く評価されました。晩年になって郷里に帰り、近在の子弟に文学の道を教え、明治五年(1872)に亡くなられました。
その赤甫さんの生家の魚屋さんが今も続く「みよし」さんです。おかみさんが小学生のころ、赤甫を偲ぶ百年祭があり、句碑の除幕をされたのですが、当時はどんな人かも知らず、そんな偉い人とは思いもしなかったそうです。今年三月、今の店を新築された時、赤甫さんの名を取り入れ「みよし赤甫亭」と名付けられたのですが、今まで「みよしさん」と呼んでいた近所のおばちゃんも、今では「赤甫亭」と呼んでくれるようになったそうです。
学校で教わる歴史も大切ですが、こんな小さな郷土の歴史もまた大切なものです。虚白さんって誰?赤甫さんって誰?って子どもが尋ねてくる。それをきちんと教えてやれる、それが郷土を愛することにつながるのではないでしょうか。
(以上「土山の町並みを愛する会」HPより)
ちなみに「土山の町並みを愛する会」は、郷土・土山の歴史・文化・伝承に関わって積極的な活動をされている団体です。
藁葺き屋根のおうち。![]()
「旅籠 東屋跡」。![]()
左側を走る「国道1号線」、右側を歩く旧道、周囲にはのどかな田園風景が広がります。午後1時半。のんびり歩こう。
左側に大きな「常夜燈」が見えてきたら「国道1号線」に合流し、今度は向こう側に横断します。
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振り返って望む。ここで「土山町」ともお別れ。
路傍の道祖神。
いよいよ次の宿場、「水口」宿へ向かいます。![]()
「国道1号線」から分かれて「県道549号」に入ると小公園になって甲賀市の観光案内図があります。そこで、小休止。
7,8月の炎天下とは段違いの快適な旅。
街道筋には、かつての旅籠跡や屋号が目立ってきます。この辺りは「土山宿」と「水口宿」との間にあった「間の宿」になります。



「東海道大野村 指物屋」。
「大野公民館」前には布引山の解説板と鴨長明の歌碑があります。


布引山
布引山は名山であり、また歴史舞台であった東西三里の間、布を引く如く。春はたなびく春がすみ、夏は松の緑に映え、秋は月さえ積もる雪も美しき雪の朝、山の姿はうるはしく、春夏秋冬それぞれ趣あり。
平安の昔より阿須波道を行ききし斎王群行や、大宮人参宮の旅人によりて詩に歌によまれてきた。有名な歌人、鴨長明もこよなくこの布引山を愛し、詠まれた歌がある。
あらしふく 雲のはたての ぬきうすみ
むらぎえ渡る布引の山
水口大岡寺で得度された長明は歌よみの世界に技を引く。
江戸時代、東海道の大改修により道すじは変わるも東西布引にそったコースに変わりなく、近世、明治天皇明治13年行幸の供奉池原香採のよまれし歌に
○吾が袖に 通ふも涼し 布引の 山より下す 夏の朝風
○みゆきます 道のとばりと 見ゆる哉 布引はへし 山の姿は
平成3年3月25日 土山町教育委員会
「布引山」は、ここから少し北に位置する山です。
また漢詩碑もあります。


過土山即興 土山を過ぎて即興する。
採茶時節事匁忙 採茶の時節 事匁忙(そうぼう)す。
緑髄青芽壮僻郷 緑髄(りょくづい)の青芽壮(せいがさかん)なり。僻郷(へきごう)に
清風一瀹(れん)君知否 清風あり。一瀹、君知るや否や、
遠到紅洋黒漠香 遠きに到る。紅洋黒漠として香し。
眞風軒
[意訳]
茶摘みの季節に、土山を過ぎて大野という村へ来て見ますと、農家の人達が大変忙しく働いておられた。
茶園を見ますと、茶の樹が整然と植えられており、その茶の樹には新芽が深緑の美しい色をしており、今、この村には初夏の清らかな風がさわやかに吹いていた。
この茶の葉を蒸すと緑茶となり、発酵させると紅茶になる事を皆さんは知っておりましたか。また、これらの茶が外国へも輸出されている事も知っておりますか。お茶は、香りも、色もよく、人々に愛されております。
尚、眞風軒という人は、「眞風軒詩鈔」という漢詩の本を作られており、甲賀郡内をあちこち散策され、各地の風情を漢詩にしておられる人で、江戸時代後期から明治時代にかけての人であります。
(注)「一瀹」は、「いちれん」とも「いちやく」とも読む。
土山の町並みを愛する会

間の宿として旅籠が多くあったようです。

こんな格好をした屋根のおうちが目立ちます。


作り酒屋さんが左手に。

おなじみの「杉玉」。

新酒の出来たときの目印です。時間がたつにつれ茶色くなっていき、お酒の熟成を表します。
しばらく進むと、「国道1号線」にぶつかるので、横断歩道(「歩道橋」もあり)で向こうに渡ります。


交差点の手前には、「三好赤甫」旧跡があります。現在は、「赤甫亭」という食事処。
「土山ろまん第11号」より
みよし赤甫亭(せきほてい)
「おかみさん、あんたもうちょっと赤甫の研究をしとかなあかんでー、と来られたお客さんに言われます。またすこし俳句に興味のあるような人は、料理の下に敷いてある紙に思い付いた句を書いて帰られます。」と、赤甫亭のおかみさんが話されるように、三好赤甫は俳句を愛する人の中ではなかなか有名です。それも地元の土山ではそれほどでもないのに、京都あたりで名が高いというのも面白いものです。
赤甫さんは大野で代々魚屋を営む三好家の長男として、寛政十年(1798)に生まれました。普通ならば商売に励んで穏やかに暮らすところを、俳句への思い如何ともしがたく、常明寺の虚白禅師に師事して俳句の教えを受け、やがて虚白さんが京都の東福寺に移り住むや、家業を妻子に託し、また老いた父母を残し、師の後を追って故郷を後にしたのです。その時の句に「うぐいすや早苗に影を落としいく」とあり、現在、若王寺の境内に句碑が建っています。
京に出た赤甫さんは文人墨客と交流を深め、三十余年の間、俳句の研究に没頭し、句集「窓あかり」など何編もの名著を残し、俳壇に立つ人々に高く評価されました。晩年になって郷里に帰り、近在の子弟に文学の道を教え、明治五年(1872)に亡くなられました。
その赤甫さんの生家の魚屋さんが今も続く「みよし」さんです。おかみさんが小学生のころ、赤甫を偲ぶ百年祭があり、句碑の除幕をされたのですが、当時はどんな人かも知らず、そんな偉い人とは思いもしなかったそうです。今年三月、今の店を新築された時、赤甫さんの名を取り入れ「みよし赤甫亭」と名付けられたのですが、今まで「みよしさん」と呼んでいた近所のおばちゃんも、今では「赤甫亭」と呼んでくれるようになったそうです。
学校で教わる歴史も大切ですが、こんな小さな郷土の歴史もまた大切なものです。虚白さんって誰?赤甫さんって誰?って子どもが尋ねてくる。それをきちんと教えてやれる、それが郷土を愛することにつながるのではないでしょうか。
(以上「土山の町並みを愛する会」HPより)
ちなみに「土山の町並みを愛する会」は、郷土・土山の歴史・文化・伝承に関わって積極的な活動をされている団体です。
藁葺き屋根のおうち。

「旅籠 東屋跡」。

左側を走る「国道1号線」、右側を歩く旧道、周囲にはのどかな田園風景が広がります。午後1時半。のんびり歩こう。


左側に大きな「常夜燈」が見えてきたら「国道1号線」に合流し、今度は向こう側に横断します。


振り返って望む。ここで「土山町」ともお別れ。

いよいよ次の宿場、「水口」宿へ向かいます。

「国道1号線」から分かれて「県道549号」に入ると小公園になって甲賀市の観光案内図があります。そこで、小休止。
