本来、「旧東海道」はこの先、「国道1号線」を突っ切って細い道へと入っていき、さらにその先にある野洲川を渡っていたようですが、 現在の地図ではその道は「野洲川」の河原で行き止まりになってしまいます。さて?
前方をよく見ると、「国道1号線」を渡った先に石造りの道標が見えますので、そこに向かいます。
道標 御代参街道起点
この道標の左に進む小路が旧御代参街道で、右斜めに進む道が旧東海道である。
御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て、中山道愛知川宿手前の小幡までの十里余りの脇往還である。
この道は中世においても重要な間道てあったが、正式な脇往還として整備されたのは十七世紀のことである。寛永17年(1640年)、三代将軍家光の乳母の春日局が将軍の名代として多賀大社へ参拝し、この道を通って伊勢神宮へ参詣された際に、この道は整備拡張されたといわれている。
江戸時代には、皇族が毎年伊勢神宮と多賀大社へ名代を派遣する習わしがあり、京から伊勢神宮へ詣で、帰路土山宿から多賀大社へはこの道が利用されたことから御代参街道と呼ばれるようになった。
ここに建つ二本の石造道標は、一つは天明8年(1788年)に建立されたもので「たかのよつぎかんおんみち」と刻まれており、高野の世継観音(永源寺)への案内の意味である。もう一つの石標には「右、北国たが街道、ひの、八まんみち 文化四年と刻まれており、日野、八幡、また多賀大社や北国街道へ続く道であることを意味している。
土山の町並みを愛する会 甲賀市教育委員会
標識に従い、この道を進みます。
しかし、上記のように、その先で「野洲川」を渡れる道はなくなりますので、少しだけ旧道を歩いてその先の道を左折して「国道1号線」に復帰します。
旧東海道からは離れて進むことに。後に合流しますが。
「国道1号線」。振り返って望む。
しばらく行くと、左手に「鈴木製作所」があります。そこで「国道1号線」から左の道に入ります。すると、
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「←先へ。足進めれば歌声橋 のんびり歩こう、旧東海道 これより三キロ先に、松林」と手書きの看板。この道は江戸時代の東海道とは異なっていますが、車の激しく行き交う国道歩きよりは、まさにのんびり歩ける道。
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「歌声橋」。人と自転車のみ通行可。
「歌声橋」からの「野洲川」。渓谷美です。
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「国道1号線」の橋脚。
「桑名歯科クリニック」のところを左へ。![]()
茶畑。
道は赤茶色に舗装されている。
しばらく進むと、右手・三叉路に「案内図」。
女の子が手を挙げて。
江戸時代の東海道と近辺地図
左側の狭い道が江戸時代の東海道で明治13年3月1日に右側の道ができて東海道の道路が変更された。
この道が江戸時代の東海道ということに。
かつては、先ほどの道標の細い道とつながっていましたが、現在は分断されてしまい、通ることはできません。
「東海道頓宮村 たばこ屋」。
横断歩道の向こうには「飛び出し」坊や。![]()
周囲には、茶畑が広がります。
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「東海道前野村 聴松園茶舗」。
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しばらく進むと、右手のお寺の門前に解説板が。![]()
林丘寺宮御植栽の茶
御水尾法皇(1596~1680)の御影・御位牌安置所建立の宝永年間(1704~1710)に林丘寺光子(普明院)が植栽されたという。
当時、鐘楼門の参道両側は、広き宮ゆかりの茶畑で地安寺が管理し、この茶畑で収穫された茶は毎年、正月、五月、十月に鈴渓茶、仁泉茶の銘にて京都音羽御所と、林丘寺宮へ献納されていた。
この、宮ゆかりの茶畑は、昭和初期まで栽培されていたが、今は一樹を記念として残すのみとなった。しかし、林丘寺宮への茶の奉献は今も続けられている。
平成4年3月 土山町教育委員会
この地域一帯で栽培されるお茶は、「土山茶」として有名なようです。
とあるおうちの車庫には
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「ミッキー」や「ショクパンマン」など、みんな揃ってお見送り、お出迎え。
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「米屋」という屋号。 独特の形をした屋根。
左手には「垂水頓宮御殿跡」碑。![]()
垂水頓宮御殿跡
伊勢神宮に伝わる「倭姫命世紀」によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神のご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。
土山町頓宮には巡行地のひとつである「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが「御殿」という地名の由来とされる。また、後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる。
平成16年3月 土山の町並みを愛する会
その先の小公園で10分ほど小休止して、12:30過ぎに出発。西からやってくる方と立ち話。「日本橋」を目指して断続的に歩いていて、今日は「道の駅・土山」の手前まで、と。
「鈴鹿峠」越えについてバスの便などの情報を提供。寒くならないうちに越えたいが、一月に一回位なので・・・、日本橋まで行ったら、帰りは「中山道」で帰ってくるつもりだ、という。
お互いの「健闘」? を祈ってお別れ。
しばらく進むと「大野市場一里塚」跡。![]()
東海道一里塚跡
旅行者の便をはかって、街道の一里毎にその目印として設置されたのが一里塚である。この制度が整ったのは、慶長8年(1603年)家康が日本橋を架設し、翌9年この橋を起点として東海、東北、北陸の諸街道を修理し、その折三十六町毎に道の左右に相対して一里塚を築き、塚の上に榎を植えて遠くからでも望見できるよう旅行者の便をはかったことにはじまっている。 土山町内の設置場所は、山中地先、土山地先、大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。
塚の規模は、およそ高さ2.5メートル、円周12メートルの大きさであったと伝えられている。土山地先の一里塚は、土山町北土山の大森慶司宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は一里山と名づけられている。
日本橋から111里目の「一里塚」となります。
振り返って望む。
視界が開けてきて「大日川堀割」碑。
橋を渡った左手に「解説板」。![]()
大日川(堀切川)堀割
往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れ広がり、このため一度大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚だしかった。大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、間にはさまった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。
元禄12年(1699年)、市場村は排水路を堀割りし、野洲川に流すことを計画し、領主堀田豊前守に願い出て許可を受け、頓宮村境より、延長504間、川幅4間の排水路工事に着工し、川敷地の提供から市場村民の総賦役により、元禄16年(1703年)に完成した。
平成7年3月 土山町教育委員会
解説板は「東海道反野畷」という石碑に括られてあります。![]()
その先には、久々に松並木が見えます。
左の植え込みには![]()
回り込んで見ると「是東淀領」と記された榜示石。![]()
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「東海道反野畷」。 振り返って望む。
前方をよく見ると、「国道1号線」を渡った先に石造りの道標が見えますので、そこに向かいます。

道標 御代参街道起点
この道標の左に進む小路が旧御代参街道で、右斜めに進む道が旧東海道である。
御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て、中山道愛知川宿手前の小幡までの十里余りの脇往還である。
この道は中世においても重要な間道てあったが、正式な脇往還として整備されたのは十七世紀のことである。寛永17年(1640年)、三代将軍家光の乳母の春日局が将軍の名代として多賀大社へ参拝し、この道を通って伊勢神宮へ参詣された際に、この道は整備拡張されたといわれている。
江戸時代には、皇族が毎年伊勢神宮と多賀大社へ名代を派遣する習わしがあり、京から伊勢神宮へ詣で、帰路土山宿から多賀大社へはこの道が利用されたことから御代参街道と呼ばれるようになった。
ここに建つ二本の石造道標は、一つは天明8年(1788年)に建立されたもので「たかのよつぎかんおんみち」と刻まれており、高野の世継観音(永源寺)への案内の意味である。もう一つの石標には「右、北国たが街道、ひの、八まんみち 文化四年と刻まれており、日野、八幡、また多賀大社や北国街道へ続く道であることを意味している。
土山の町並みを愛する会 甲賀市教育委員会

しかし、上記のように、その先で「野洲川」を渡れる道はなくなりますので、少しだけ旧道を歩いてその先の道を左折して「国道1号線」に復帰します。


しばらく行くと、左手に「鈴木製作所」があります。そこで「国道1号線」から左の道に入ります。すると、

「←先へ。足進めれば歌声橋 のんびり歩こう、旧東海道 これより三キロ先に、松林」と手書きの看板。この道は江戸時代の東海道とは異なっていますが、車の激しく行き交う国道歩きよりは、まさにのんびり歩ける道。


「歌声橋」。人と自転車のみ通行可。
「歌声橋」からの「野洲川」。渓谷美です。


「国道1号線」の橋脚。
「桑名歯科クリニック」のところを左へ。

茶畑。

しばらく進むと、右手・三叉路に「案内図」。

江戸時代の東海道と近辺地図
左側の狭い道が江戸時代の東海道で明治13年3月1日に右側の道ができて東海道の道路が変更された。

かつては、先ほどの道標の細い道とつながっていましたが、現在は分断されてしまい、通ることはできません。

横断歩道の向こうには「飛び出し」坊や。

周囲には、茶畑が広がります。




しばらく進むと、右手のお寺の門前に解説板が。

林丘寺宮御植栽の茶
御水尾法皇(1596~1680)の御影・御位牌安置所建立の宝永年間(1704~1710)に林丘寺光子(普明院)が植栽されたという。
当時、鐘楼門の参道両側は、広き宮ゆかりの茶畑で地安寺が管理し、この茶畑で収穫された茶は毎年、正月、五月、十月に鈴渓茶、仁泉茶の銘にて京都音羽御所と、林丘寺宮へ献納されていた。
この、宮ゆかりの茶畑は、昭和初期まで栽培されていたが、今は一樹を記念として残すのみとなった。しかし、林丘寺宮への茶の奉献は今も続けられている。
平成4年3月 土山町教育委員会
この地域一帯で栽培されるお茶は、「土山茶」として有名なようです。
とあるおうちの車庫には


「ミッキー」や「ショクパンマン」など、みんな揃ってお見送り、お出迎え。


「米屋」という屋号。 独特の形をした屋根。
左手には「垂水頓宮御殿跡」碑。

垂水頓宮御殿跡
伊勢神宮に伝わる「倭姫命世紀」によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神のご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。
土山町頓宮には巡行地のひとつである「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが「御殿」という地名の由来とされる。また、後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる。
平成16年3月 土山の町並みを愛する会
その先の小公園で10分ほど小休止して、12:30過ぎに出発。西からやってくる方と立ち話。「日本橋」を目指して断続的に歩いていて、今日は「道の駅・土山」の手前まで、と。
「鈴鹿峠」越えについてバスの便などの情報を提供。寒くならないうちに越えたいが、一月に一回位なので・・・、日本橋まで行ったら、帰りは「中山道」で帰ってくるつもりだ、という。
お互いの「健闘」? を祈ってお別れ。
しばらく進むと「大野市場一里塚」跡。

東海道一里塚跡
旅行者の便をはかって、街道の一里毎にその目印として設置されたのが一里塚である。この制度が整ったのは、慶長8年(1603年)家康が日本橋を架設し、翌9年この橋を起点として東海、東北、北陸の諸街道を修理し、その折三十六町毎に道の左右に相対して一里塚を築き、塚の上に榎を植えて遠くからでも望見できるよう旅行者の便をはかったことにはじまっている。 土山町内の設置場所は、山中地先、土山地先、大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。
塚の規模は、およそ高さ2.5メートル、円周12メートルの大きさであったと伝えられている。土山地先の一里塚は、土山町北土山の大森慶司宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は一里山と名づけられている。
日本橋から111里目の「一里塚」となります。

視界が開けてきて「大日川堀割」碑。

橋を渡った左手に「解説板」。

大日川(堀切川)堀割
往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れ広がり、このため一度大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚だしかった。大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、間にはさまった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。
元禄12年(1699年)、市場村は排水路を堀割りし、野洲川に流すことを計画し、領主堀田豊前守に願い出て許可を受け、頓宮村境より、延長504間、川幅4間の排水路工事に着工し、川敷地の提供から市場村民の総賦役により、元禄16年(1703年)に完成した。
平成7年3月 土山町教育委員会
解説板は「東海道反野畷」という石碑に括られてあります。

その先には、久々に松並木が見えます。


左の植え込みには

回り込んで見ると「是東淀領」と記された榜示石。



「東海道反野畷」。 振り返って望む。