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Channel: おやじのつぶやき
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「熱中症」危機一髪の東海道。・・・(「内部」駅から「井田川」駅まで。その4。)

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 「庄野宿」には、「本陣跡」碑や「問屋場跡」などの解説板が充実しています。

問屋場跡

 問屋場は御伝馬所とも言い、街道の宿場にとって重要な役所であった。
 問屋2名、年寄4名書記(帳付)馬差各45名が半数ずつ交替で詰めた。
 主な任務は公用書状の継ぎ立て、往来者の要望に応じて人足、馬の割振り、助郷村々への人馬の割当て、賃銭、会計などであった。

「行書」版で広重が描いたのはこの施設?

しばらく進むと右手に「庄野宿本陣跡」。

 庄野宿は東海道五十三次の四十五番目の宿場で、寛永元年(1624)に設置された本陣は沢田家で、間口14間1尺、奥行21間1尺、面積229坪7合、畳数197畳半、板数44畳半あった。

その脇には「里程標」。「距津市元標九里拾九町」

高札場跡

 高札場は、法度、掟書などを書いた「高札」を掲示した場所で、各村の庄屋宅前とか人通りの多い辻など村や宿場ごとに一ヶ所設けられていた。庶民に法令などの趣旨を徹底させるためであった。
 庄野資料館には、人馬賃銭の規定、人倫の奨励、その他禁制など実物五枚が展示されている。

「助郷会所」跡。
 ・・・助郷村々の人馬を手配するため設けられたところで、各助郷村の代表(庄屋等)はここに出勤して問屋場の指示に対応しました。・・・

 この付近になると、かなり暑さにまいってきました。せめて広重にあやかって、「白雨」に出くわしたいものです。

「東海道 庄野宿」碑。ここが京方の出入口? 時刻は、12時20分。

 しばらくして「国道1号線」と合流する地点へ。のどはカラカラ、腹はペコペコ。ここまで、「石薬師一里塚」から約3㎞強。時間にして40分少し。
 途中からは、コンビニはないか、お店はないか、自販機はないかと、ついには他人様のお宅をノックしてお水の一杯でも恵んで下さい、とそう思ったくらいの悲惨な状況に。人も車も通らない炎天下の歩きでした。
 すると、「国道1号線」のところにありました! 「サークルK」。助かった! 飲み物を購入して、一気飲み。ホッと一息。しかし、食事を取るようなスペースなし。トラックの運転手さんは車の中で。こちらはそうもいかず、また炎天下を歩くはめに。

 複雑な交差点を渡って、旧道へ。ま、ここから「井田川」駅まで頑張ろう、と。しかし、この暑さでは・・・。
 ふと角にタイヤ屋さん。ご主人らしき方が、外で仕事中。

 「すいません、この道であっていますか」
 「あってますよ」
 「すいません、少し休ませてくれませんか」
 「いいですよ、この暑さの中では大変でしょう」
 「ありがとうございます」

 お店の中に入ると、ひんやりと涼しい風。

 「冷たいお茶、差し上げますよ」

 奥さんらしき方が紙コップに入れて持ってきてくれました。ゴクン、ここでも一気飲み。

 「勝手なお願いですが、おにぎりを食べていいですか」
 「どうぞ、どうぞ遠慮無く」

 また一杯冷たいお茶を持ってきてくれました。

 「どちらからですか」
 「東京からです」
 「昔、殿様が鹿狩りをしたときに一頭も鹿がと仕留められなくて立腹したので、家来がその夜、鹿を捕まえて鈴を付けた。そして、殿様に鈴が鳴ったところを射って下さい、と。面白いように鹿を仕留めた。それが鈴鹿峠のいわれだそうです。ハハハ」
 「そうなんですか」
 「私も生まれは東京の阿佐ヶ谷でして、あそこはいい町ですよね」
 「私はあまり縁がありませんが、商店街は有名ですね」
 「お年はおいくつですか、そりゃ、お元気ですね」
 「何とか今年中には京都に着きたいと思っていますが」
 「タイヤ交換の仕事です。主に大型トラックの」
 「今日のように立ち寄る人いますか」
 「年に何回か、道を尋ねるついでに。ここは少し分かりにくいですからね」
・・・

 四方山話をしながら、ゆっくりと休養できました。 

 「ありがとうございました」
 「いえいえ、そうそう、汗拭き用にこれをさしあげますよ」

 《ブリヂストンタイヤ》のロゴが入ったタオルを頂戴しました。

 その節は、ホントに助かりました。まさに現代の「立場」「茶屋」です。
 
     「タイヤショップ今村ゴムリーヴ鈴鹿」店様。

「従是東神戸領・これより東 神戸(かんべ)領」
 「神戸藩」と「亀山藩」の境界標。

道の反対側にも。

右に見える石碑は「女人堤防碑」。

 この辺りは鈴鹿川と交流安楽川の合流点で、たびたび氾濫して被害が大きく、文政12年頃、神戸藩に何度も修築を申し出たが許されず、女性たちが禁を犯し打ち首を覚悟で堤防を補強しました。女性たちは一旦は処刑場に送られましたが赦免の早馬で救われたといいます。
 この碑は、鈴鹿市汲川原町の鈴鹿川北岸堤防下に建っています。

(「三重県観光協会」HPより)

    

左の解説板。中冨田一里塚
 一里塚は、慶長9年(1604年)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれた。
 江戸日本橋を起点として、36町を1里(約4キロ)として、一里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。
 享和3年(1803年)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。
 その近くに「御馳走場」と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、現在も「東百里屋(ともりや)」という屋号で呼ばれている家がある。この地から、江戸へおよそ百里(約400キロ)であったので、この屋号がつけられたと伝えられている。

 平成13年10月 中富田一里塚保存会

右の解説板。

 中富田村は亀山領の東端にあたり、隣の神戸領との境界を接する村である。
 享和3年(1803年)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」には、中富田村川俣神社の東隣に街道を挟んで「一里塚」が描かれている。大きな木の茂みがある大規模な塚で在り、榎木の大木があったといわれている。

 平成13年10月 中富田一里塚保存会  

 同じ団体が、同じ月に、ほぼ同じ場所に、同じ記念事業で、同じような解説板を、建てることにはこの土地ならではの深い意味がありそうな・・・。

             「中富田一里塚跡」碑。

「従是西亀山領 これより西 亀山領」。

その付近から来た道を望む。

 しばらく道なりに進みます。かつてはそのまま「和泉橋」を渡りましたが、下流に橋が移設されたため、「川俣神社」のところを左に折れて「和泉橋」を渡ります。

橋の上から「鈴鹿峠」方向を望む。

橋を渡り終えたら右に下り、その先で左に折れます。 

 「地福寺」を右手に見て、左に曲がります。「関西本線」の線路と遠くに「井田川」駅がみえます。
 ところが、ここに来て、道に迷ってしまう。分かれ道があって、そのほとんどが「国道1号線」に合流するようになっています。こちらもそっちへ。暑い中、戻ったりしてやっとのことで本来の道へ。関西本線の線路を越えていきます。

この先が駅。

竹林が点在する旧道を振り返る。

 JR「井田川」駅前。東海道はそのまま進みます。ここで、ようやく前回とつながります。
            

 時刻は、午後2時05分。さて、この先は? 「井田川」から「亀山」まで一駅乗って行くつもりが、暑さは一段と。結局、ここでギブアップ。前回と同じ発車時間の名古屋行きで戻ってしまいました。車内の快適さはたとえようがありません。

 夏場・炎天下の「東海道」歩きはまったく不向きです。二度目の挫折!

四日市~亀山までの注意事項(年寄りのための反省事項)。

① 夏場の東海道歩きは遠慮しよう! まず木陰はなく、軒先もない。舗装道路をひたすら歩くのみ。
② 水分補給に万全を! ペットボトルは買えるところで早め、早めに。
③ 沿道にコンビニ、自販機はほとんどないことを覚悟せよ! 公衆トイレもない。
④ いざとなったら無理せず「国道1号線」へ! 大きいお店がある可能性も。
⑤ ガソリンスタンド、タイヤ屋さんなどに遠慮せず飛び込もう! 駅は無人駅が多く、トイレ休憩に。
⑥ 三重の方はみな親切、お言葉に甘えよう!
⑦ 尋ねようにも、お願いしようにも、ほとんど人とすれ違わないことに注意! 
⑧ 「宿場資料館」などの開館日を事前に調べておこう! 月・火・水は避けた方がいい。
⑨ 周辺地図は必携! (らくらく)スマホが便利らしい。(小生の)ガラケイではまったく役に立たない。
⑩ 真夏の午前11時~午後3時は、行動厳禁! 歩くなら、涼しいうちに、そして、涼しくなったら。

・・・

 ともかく「熱中症」「脱水症状」になったら、命の危険! ということを頭に入れて行動しよう! 
 「年寄りの冷や水」ならぬ「年寄りの脱水」ではお話になりません。

 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉」なんてほざいている場合か! 

  〈結論〉 出かけないことが、一番いい方法。年寄りは秋口まで待つ! 

 って、そんなこと常識でしょ! すいません。 大反省!

 名古屋に戻って、冷えた缶ビールを一気飲み。

 そして、を買って帰りました。
 

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