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Channel: おやじのつぶやき
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石薬師の一里塚。庄野宿。・・・(「内部」駅から「井田川」駅まで。その3。)

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 「石薬師寺」は、宿場の南端に当たるところにあります。道はだんだんと下って行きます。

「瑠璃之橋」から右手「石薬師寺」方向。

 もちろん旧東海道のここに橋はありませんでした。「国道1号線」建設で切り通しになったために、橋が架けられたわけです。広重はこの橋の手前あたりを描いたのでしょうか。

    
 「国道1号線」東京方向。                         京都方向。

    
 現在のようす。                          大正期のようす(「知足美術館」HPより)

 大正期の写真撮影の位置は分かりませんが、「国道1号線」が通る以前は、このように深い森に囲まれたところであったようです。



石薬師寺
 江戸から101里34丁7間、元和2年(1616)に宿場となった。それまでは高富村と称していた。
 現在は鈴鹿市石薬師町である。石薬師の地名はこの絵にある高富山瑠璃光院石薬師寺の霊験が広く知れ渡っていたことから、村名を石薬師と改めその由来としている。
 御本尊は弘法大師が一夜のうちに爪で彫ったと言われている薬師如来で、同寺の本堂は寛永6年(1629)に時の神戸城主・一柳監物直盛によって再建された。
 この石薬師寺の正面の道を東へ行くと源範頼を祀る御曹司社がある。その御曹司社の前の道を南へ少し行くと右側に蒲桜がある。源範頼は、平家討伐の時、石薬師寺に戦勝祈願をし鞭にしていた桜の枝を地面に逆さにしたそれが芽をふいて育ったと伝えられている地元では「逆さ桜」と呼んでいる。

この「蒲桜」を描いた広重の絵(「竪絵版東海道五十三次」)。

そこから宿内を振り返る。

しばらく進むと橋のたもとには、

            

石薬師の一里塚

 信長記には、天文9年(1540)冬、足利将軍が諸国に命じて40町を1里として一里塚を築かせ、その上に松と榎とを植えさせたという。(1町は約109メートル)
 家忠日記には、慶長9年2月(1604)、秀忠が東海道、東山道、北陸道の三道に一里塚を築かせ、1里を36町に改めたという。

 くたびれた やつが見つける 一里塚(江戸時代の川柳)
 
 平成4年10月 石薬師魅力再発見委員会

 この一里塚は日本橋から102里目。
 まさにこの川柳のようで、この木陰でしばし休息。
 照り返しの強い舗装道路を人っ子一人通らない道をひたすら歩いて来て、いささか草臥れます。11時20分過ぎ。
 ここで、しっかり早めの腹ごしらえをしておけばよかった! まだこの先にも休めるところはあるだろうと軽く考えていました。さらに、ペットボトルも少し残しただけで飲んでしまいます。ここまで来る間、自販機などはなかったのもすっかり忘れます。たぶん一本東を通る「国道1号線」にはお店も自販機もあるはずですが、ひたすら旧道歩きに専念するために横道にそれず。
 水分補給も食糧も、ま、この先に行ってもコンビニか自販機くらいはあるだろうと、都会的な安易な考え。これらの甘い考えが、後の辛い状況を生み出します。でも、この時は、まだ余裕があったつもり。

          
                                   「石薬師宿」方向を望む。

 ところでこれから「庄野宿」への道。でも、行く道のようすがどうも不自然な印象。ここから先しばらく、旧東海道本来の道はすでに消滅していて、迂回することになるのでは、という感じ。

1947年頃。

 旧東海道は、鉄道(現「関西本線」)が敷設されても変化せず、敗戦直後まで江戸時代からほとんど変わらないようすです。→が「一里塚」跡碑の場所。当時は道路をはさんで橋の反対側にあったことになります。○は、「庄野宿」。

1960年頃。

 しかし、「国道1号線」が開通することで大きく変化します。ただし、「一里塚」の位置は変わりません。
 
1980年頃。

 この付近の道路整備が進み、「一里塚」も現在地に移っています。この付近は現在もほぼ変化なし。

(地図は「今昔マップ」より)

 帰宅後、調べた結果が上の通りでした。やはり直感は正しかったようです。

 もちろん当日はちょっとおかしいなと思いながらも、「石薬師一里塚」を11時35分過ぎに出発。案内表示に従って、関西本線のガードをくぐり、右に曲がって進みます。あぜ道を少し広くしたくらいの道幅。 

    
 左手:田んぼ。                           右手:関西本線。

 たしかに暑くて日差しを避ける木陰もありませんが、雨が降っていない分、よかった! と。
 しばらく行くと、「国道1号線」の下をくぐり反対側に出ます。そこからそれこそあぜ道のようなところを曲がって、「国道1号線」に合流。炎天下、激しく行き過ぎる車を横目にひたすら国道を歩きます。
 けっこうのども渇いてきて、手持ちのペットボトルも飲み干します。道中には、GSはあっても、お店も自販機も見つかりませんでしたが、この先何かあるだろう、と軽い気持ちでいます。

 「庄野町北」の交差点を右折し、その先を今度は左折します。その角が、「庄野宿」の入口。12時10分頃。すでにお昼を回っています。木陰も休むスペースもないので、そのまま進みます。  

解説板。 

庄野宿

 庄野宿は江戸から百二里余、東海道四十五次にあたり、幕府の直轄領であった。他宿にくらべ宿立ては遅く寛永元年(1624)といわれている。この宿は、「草分け三十六戸、宿立て七十戸」といわれ、鈴鹿川東の古庄野から移った人達を合わせ七十戸で宿立てをした。南北八丁で宿入口の加茂町中町上町からなる。
 安藤広重の描く「庄野の白雨」は、彼の作品の中でも傑作中の傑作と言われ、世界的にも高い評価を得ている。


      東海道五十三次之内 庄野 白雨 / 歌川 広重

 庄野の宿近くの街道で、突然の雨にあった様子が描かれている。庄野は山深く、険しい坂道が続いた。駕籠をかつぐ二人は引き返すこともなく、稼ぎに精を出す。右手の二人は農夫であろうか。必死に雨を防いで村を目指している。人物、描写も面白いが、竹薮の風の音、雨の音も聞こえてきそうである。雨で遠くがけむった様子がよくわかる。農夫の傘に五十三次の宣伝があるのも面白い。
石薬師より約3km  亀山まで約8km

(「知足美術館」HPより)

注:「白雨」=白く見える雨。ゆうだち。にわかあめ。

 ただし、庄野宿そのものは「鈴鹿川」の氾濫原にできた町並みのようで、標高は(北西の背後地は40㍍以上ありますが)22、3㍍ほどで、ここに描かれたような急坂は存在しません。
 
    
 大正期のようす(「同」より)。                 現在のようす。  

 しばらく進むと、左手に「庄野宿資料館」。これは助かった! 見学しながら休憩しようと。水分を補給し、昼飯でも食べながら・・・。ところが「休館日」。自販機も置いてない! 結局、この先、宿内の旧道には「自販機」は1台もありませんでした。

    
                    鈴鹿市指定建造物 旧小林家住宅・庄野宿資料館。

 後から調べたら、当日のこの時間帯、この地域は快晴で、気温はすでに32度を越えていたらしい。日なたでは35度以上? 車は時々通っても、道を行き交う人影はなし。木陰もまったくなし。道沿いの家は閉まっていて、庭先にも姿は見えず。のどはからから、お腹はぺこぺこ。街道沿いには「問屋場跡」とか「本陣跡」とかの表示、その写真と解説文を読み読み、キョロキョロするも、旧道らしさを重んじるためなでしょうが、自販機も公衆トイレもなし。・・・もうかなり参った! 
 でも、まだまだ先は長い! はたしてどうなるのでしょうか?

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