7月21日(火)の続き。
亀山宿への交通手段は、JR「亀山」駅に行くこと。そのためには、あすなろ鉄道「四日市」駅から歩いて、JR「四日市」駅に行かなければなりません。1㎞以上、広い通りをけっこう歩くことに。
見通しが甘かった! 近鉄四日市駅付近の賑やかさかに比べると、「四日市」駅は閑散としています。駅の反対側には大きな港湾施設やコンビナートがあるようで、その輸送がメインなのでしょう。乗客もほとんどいない。
どういうわけか駅の窓口だけは人が列を作っています。どうやら遠くへ出かけるためのキップの手配をしている人達。たった一人の駅員の対応ですので、なかなか対応に手間がかかっています。それでも、お客さんは、じっと我慢して待っています。
こちらも「時刻表」を見たら、次の「亀山」行きは11時41分。ありゃ! 1時間近くの待ち。でも待つしかない。早めに腹ごしらえ。
こうして12時過ぎにやっと亀山駅に着きました。駅前の坂道を上って「亀山宿」のとっかかり地点へ。そこからあすなろ鉄道「内部」へ向かって、さあ! 出発。
けっこう道のりがありそうで、その上、かなり暑くなってきました。途中、休み休みしながら(日影などはほとんどなし)、炎天下の中を歩き続け、2時を少し回ったころに、何とかJR「井田川」駅にたどり着きました。駅のベンチ(ここには駅舎がありません)で休みました。クーラーなんかはないところ。それでもお日様を避けられる。しばし、休息。
しばらくすると名古屋行きの電車が。とっさに今日はここまで! と飛び乗ってしまいました。車内のクーラーにほっと一息。結局、名古屋で新幹線に乗り換えて、そのまま帰京。
というわけで、かなり中途半端に終わったが気になります。そこで、8月初頭からの猛烈な暑さがどうやら収まりつつある8月18日。前日の天気予報だと、亀山付近は、「曇り、時々小雨。」これならあの時の炎天下の歩きよりは少しはましかもしれないと。
翌日には用事が入っていたので、その日のうちに戻らなければなりません。お金の無駄遣いだけれど、この前挫折して行き損ねた「石薬師」宿、「庄野」宿をクリアしてみようと出かけました。
「あすなろう鉄道内部線」。今度は四日市駅から乗って「内部」駅から「東海道」を歩いて、JR「井田川」駅まで。そうすれば一応「亀山」宿までつながっていく。さらに、「井田川」駅からJRで「亀山」駅まで行って、そこから「関宿」まで歩けたら、と・・・。家人のあきれた顔にもめげず出かけました。一番気になるのは、お天気。
前日はけっこう大雨が降ったようで、桑名では被害もあった。大雨だけはかんべんして、と思います。曇りなら、いい。
早朝に家を出て、東京~名古屋~「近鉄四日市」と乗り継ぎ、10時前に「内部」駅に着きました。降りたとたん、強い日差しがさんさんと。雲はちらほらありますが、いいお天気。おいおい予報が違いすぎない! ま、何とかなるさ。この前とは違うだろうから、と歩き始めました。
・・・、ということで、石薬師宿から関宿まで。実際の時系列、行程とは異なりますが、旧東海道の順路に従って編集し直しての報告です。
8月18日(火)。


「あすなろ鉄道内部線」。
この前もそうでしたが、途中駅での乗降客はそこそこいます。狭軌のせいなのか、かなり横揺れがあり、上り坂はあえぐように。

廃止の動きがあったとき、地元四日市の熱心な存続の願いが叶ってこうして運行されています。
近畿日本鉄道(近鉄)が運営していた内部線および八王子線(以下、2線を総称して「内部・八王子線」と記す)は、2012年に鉄道を廃止した上で三重交通によるバス路線に転換するバス高速輸送システム (BRT) 化する方針が近鉄から提案された。
しかし、これに対して四日市市側が鉄道での存続を要望したことから、2013年に近鉄と四日市市の間で、2015年春から新会社が運行を行い、四日市市が施設・車両を保有する公有民営方式で存続することに合意し、2014年3月に四日市あすなろう鉄道が設立された。 出資比率は近鉄(近鉄グループの鉄道事業会社である近畿日本鉄道)が75%、四日市市が25%の第三セクター鉄道で、社名の「四日市あすなろう鉄道」は、未来への希望と内部・八王子線が軌間762mm(2フィート6インチ)という特殊狭軌「ナローゲージ」であることから選定されたものである。(「Wikipedia」より)
今後についてはまだまだ課題が残されていますが、沿線住民、地域の過疎化・高齢化などに対して、公共交通機関がどう対応していくか? 民鉄(JRを含めて)では経営上、「赤字」路線は、即、廃止、となってしまう。「公有民営方式」でどこまで対応しきれるか? 各地にある鉄道経営をめぐる試金石でもあるようです。行きずりの観光客が二回乗ったくらいで、大きい口をきけるものではありませんが。
旧道はこの道を進みます。

しばらく進むと、「内部川」にぶつかり、旧道は分断されてしまうので、左折して「国道1号線」の地下道を抜け、反対側に出ます。

→が「内部橋」。○が「杖衝坂」。

「国道1号線」開通で旧道の橋がなくなっている。

その後の「内部橋」周辺の道路整備により橋を越えた付近の旧道も消滅した。(地図は「今昔マップ」より)



そこで、「元気だね」と声を掛けられました。その時は激励と思いましたが、後から思うと、こんな暑い日に街道歩きとは、というあきれての忠告だったのでは?




芭蕉句碑「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」
芭蕉の句碑について
俳聖 松尾芭蕉が貞享4年(1678)に江戸から伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂にさしかかったが、急な坂のため馬の鞍とともに落馬したという。そのときに詠んだ季語のない有名な句である。宝暦六年(1756)村田鵤州が杖衝坂の中ほどにその句碑を立てた。明治の初期、坂の下釆女西町永田精一郎氏の庭園に移されたが、このたび現所有者藤沢一郎氏ご夫妻のご理解により、再びもとの地に移設したものである。
この句は、『笈の小文』中にあり、
「桑名より食はで来ぬれば」と云日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。
歩行ならば杖つき坂を落馬哉(かちならば つえつきさかを らくばかな)
と、物うさのあまり云出侍れ共、終に季のことばいらず。
と。「季語」の入っていない句としても有名。

杖突坂とも書き、東海道の中でも急坂な所で、日本武尊が東征の帰途、大変疲れられ「其地より、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、御杖をつかして、梢に歩みましき、故其地を杖衝坂といふ」(『古事記』)とあり、その名が称されるようになり、加えて、芭蕉の句「歩行ならば杖つき坂を落馬かな」により、その名が世に知られることになった。また、坂を上がりきった所には、尊の足の出血を封じたとの所伝から血塚の祠もある。
この場所にある二つの井戸は、坂の上手を「弘法の井戸」、下手を「大日の井戸」と言われ、前者は弘法大師が水に困っている村人に、杖で指し示されて掘ったところ清水が湧き出た井戸であると伝えられ、後者は、坂の中腹左側にあった大日堂に供える閼伽水を汲み上げた井戸と、地元民の間では伝承されている。
日本武尊(ヤマトタケル)が『吾足如三重勾而甚疲』 (わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)
-- 私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた --)『古事記』と言ったとされ、これが「杖衝坂」と「三重」の名前の由来といわれます。

そこから振り返って「杖衝坂」を望む。




「采女一里塚」碑。
「国道1号線」の向こう側に「采女一里塚」碑があります。交通量が激しく、近所には横断歩道も見当たりません。往来する車の合間を見て、パチリ。道路を渡って撮影する猛者もいるようですが。
この一里塚は日本橋から101里目。

しかし、炎天下の国道歩きは思った以上に体力を消耗します。
しばらく行き、国道から左に分かれて進みます。



喧噪から離れて、のどかな道筋。車も人も通りません。
しばらくして再び「国道1号線」に合流。そこの案内図に従って地下道を通って向こう側に渡ります。

渡り終えて横断歩道を行くと、「石薬師宿」へ。
来た道を振り返って望む。

