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読書「動物記」(高橋源一郎)河出書房新社

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 血がでてゐるにかゝはらず
 こんなにのんきで苦しくないのは
 魂魄なかばからだをはなれたのですかな
 たゝどうも血のために
 それを云へないがひどいです
 あなたの方からみたら
 ずいぶんさんたんたるけしきでせうが
 わたくしから見えるのは
 やっぱりきれいな青ぞらと
 すきとほった風ばかりです

 (宮澤賢治「眼にて云ふ」)

 この詩の一節は、辺見庸さんの本からの孫引きです。

 詩全体はこうです。 
 
眼にて云ふ   宮沢賢治
 
だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといゝ風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るですな
もみぢの嫩芽と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
焼痕のある藺草のむしろも青いです
あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。

 この詩を引用したのは、高橋さんのこの本の最後のところに

 わたしの希望は、意識がとぎれる前に、一匹の動物が、なにか獣のような生きものが現れることだ。
 その生きものが、わたしを見つめている。何にも映っていない、なにを考えているのかわからない、真っ黒な瞳で。それでいい。その生きものが、なにを考え、なにを感じているのか、わからないことは明白なのだから。
 それは、わたしが動物たちを見ていた視線でもあるのだろう。わたしが意識を失う前に、その生きものは立ち去るかも知れない。だとすると、わたしは、少しだけ寂しいと感じるかもしれない。けれど、最期を見届けてくれた、その生きものに感謝したいと思うだろう。もちろん、意識が残っていればだが。
 わたしが一度も会ったこともない、父の兄にあたる人は、そんな風に死んだと聞いたことがある。軍人だったその人は、敗走する兵士たちの列から離れ、一本の樹の下に座り、「もう歩けない」と友人に告げた。「一緒に行こう」と腕を摑んだ友人に、その人は「もういい。おまえは行け」といった。一九四五年、フィリピン・ルソン島での出来事だった。その人が最期に、なにか生きものに出合えたどうか、わたしには知ることができないのである。(P271)

 とあったからです。
 けれども、賢治さんのように、それほど澄んだ眼で外界を眺めることができるのでしょうか。

 わたくしから見えるのは やっぱりきれいな青ぞらと すきとほった風ばかりです。

 その後、高橋さんはこの叔父の死んだ戦場に赴き、知り得なかった叔父の死というものをとらえ直します。

 動物を擬人化しながら、その眼から人間世界を垣間見る、そこには諧謔と冷淡と感動と突き放しと、そうして人間の営みを描いています。
 しかし、その動物の眼・視線の奥にあるものは誰もとらえることはできません。同じように、死に逝く人の、薄れ行く(あるいは突然消える)寸前の思いは誰びとも共有できることはできません。
 しかし、末期の眼に何が写り、何を感じたか。・・・
 おそらく、そのことがおじさんの末期の思い、最期に見えた風景とつながっていったのでしょう。
 
 所詮分からない存在同士、でありながら、何とか言葉によって(あまりにも軽薄なもの言いが多いですが、それでもなお)、それに依拠せざるを得ない人間の置かれた宿命的立場を感じます。 
 一方で、人間(自分に、他者に、社会に、未来に)与える言葉の力を何とか自らの側に引き留めつつつ、理不尽な言動にも言葉によって闘うしかない、と。そこには、透徹した眼が必須なものでしょう。その一分でも獲得するために、言葉と闘っているともいえそうです。
    

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