さて、いよいよ「御油の松並木」。国の天然記念物にしていされるだけあって、なかなか見事です。それにしても他のところでは「松食い虫」の被害や道路拡幅などで失われてしまったケースも多い、東海道の「松並木」。よく保護、保存、手入れがなされています。


御油宿と御油の松並木
御油宿は、慶長6年(1601)徳川家康によって、東海道に宿場制が定められ、東海道五十三次の第35番目の宿場として繁栄しました。
ここから東の、かつて上五井、中上町、仲町、横町、茶屋町と呼ばれたこの通り沿いには、今でも宿場町の面影を残す旧家がみられます。
また、この御油宿と隣の赤坂宿との間には、慶長9年(1604)に整備された御油の松並木があります。昭和19年に国の天然記念物に指定され、「日本の名松百選」にも選ばれています。
豊川市教育委員会

途中にあった「弥次喜多茶屋」。



切り株の跡には大きく育った松。おそらく松食い虫被害の流行時には大変だったでしょう。地元の方々の環境維持に努める熱意と姿を強く感じる道筋です。


松並木を過ぎると、右手に「赤坂宿」の「見附跡」。

見附跡
見附(みつけ)とは、宿場の入口に石垣などを積み、出入りする者を見張ったところである。
赤坂宿見附は、東西に設けられ、東は東海道を挟んだこの辺りの両側にあり、西は八幡社入口附近の片側にあった。
「赤坂旧事記」によれば、寛政8年(1796)代官辻甚太郎のとき、東側の見附を関川神社の前に移築したとされている。
明治7年(1874)に、取り壊された。
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さすが東海道の宿場では最短距離に位置していた「御油」と「赤坂」です。

東海道五十三次之内 赤阪 旅舎招婦ノ図
宿屋の庭の上方から中を描いた風俗画としても興味深い図である。中庭にはソテツがあり、部屋では女性が鏡台に向かっている。その奥には布団が積まれている。縁側に立つ風呂上がりの客、按摩、膳を運ぶ女性など、当時の旅籠の賑わいと風俗がわかる絵である。
(「知足美術館」HPより)


大正期の赤阪(「同」HPより) 現在のようす(「本陣」の奥)
昔ながらの道筋。

左側に「関川神社」。芭蕉の句碑があります。


「夏の月 御油より出でて 赤阪や 芭蕉」
夏の月が出ている短さといったら、なんと御油から赤阪の間を過ぎるほどの時間に過ぎないことよ。
御油宿と赤坂宿との距離感と夏の夜の短さがうまく表現されています。近い分だけ、両宿とも客の取り合いが盛んな遊興の町であったようで、そうしたひとときの華やかな雰囲気をも暗示するようです。



赤坂宿問屋場(伝馬所)跡
間口六間(10.9㍍)、奥行三十間(56.4㍍)
瓦葺きの事務所は、慶長5年、徳川幕府の命令によって設けられた。
人馬の継立て、即ち、伝馬事務を取り扱い、問屋取締・年寄・帳付・馬差・飛脚役などの役人を置き、人足三十人程、馬数十頭をつないで、即時の用に供した。
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右手に「赤坂宿」の説明板(広場)。


どこの宿場に行っても、道筋や詳細な屋号・職業等が記載されている絵図を見かけます。また、かつての屋号を玄関先に掲げる宿場町もけっこう多い。
百年以上も前のようすがそのまま残っている。保存に熱心、変化に乏しい、一方では、古くからの因習が根強い、プラス面・マイナス面・・・。
左手には、「本陣跡」。


本陣跡
本陣は、参勤交代の大名・幕府の役人・公家などが休泊するところで一般の旅籠屋とは違い、門・玄関・式台・上段の間などを備える事が許されていた。
赤坂宿の本陣は、宝永8年(1711)の町並図によると、4軒あった。そのうち松平彦十郎家は、江戸時代初期から本陣を務め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。
宝永8年の間取り図によると、間口十七間半、奥行き二十八間、座敷通り四二二畳で門・玄関付きの立派なものであった。
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高い塀で囲まれて中は開放されていませんでしたので、携帯を高く掲げてパチリ! 何もありませんでした。