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Channel: おやじのつぶやき
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御油一里塚。御油宿。ベルツ花夫人。・・・(JR二川駅から名鉄本宿駅まで。その4。)

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 喧噪の国道から離れて、いよいよ次の宿場、御油に向かいます。しばらく進むと、右手に「常夜燈」。


秋葉山常夜燈

 形式は神前型、高さ二〇五糎、造立は寛政12庚申(1800)為村中安全
秋葉山
 秋葉山三尺坊大権現はその昔し、越後国蔵山(蔵王権現)より白狐に乗って遠江の秋葉山に飛来した といわれ、火防の霊験あらたかと信ぜられ、江戸時代朝廷、大名、庶民に至るまで、幅広い信仰をあつめられ、国府村民等も村内を火難より守るため秋葉山常夜燈を造りました。

 平成18年   役員一同

来た道を振り返る。

薬師堂。

店舗も混じった住宅街。

 左手に古民家が現れます。「八平次記念館 八の蔵」。


 建物の所にポスター。「クニ三上 JAZZピアノトリオ」のライブステージ。


 他にもいろいろなアーチストが生演奏を行う会場のようです。古民家でのライブは、なかなかのもののはず。


 「大社神社」を右手に見てしばらく進むと、「御油一里塚」。

    
                江戸・日本橋から76里目。

 しばらく行くと、広い通りと交差します。その右手に大きな「常夜燈」。ここは、「姫街道」との追分になっています。


「御油の追分」との表示。

    

こちらの道を進みます。

「御油橋」を渡ると、「御油宿」に。


     東海道五十三次之内 御油 旅人留女

 御油は次の宿場である赤阪と、東海道中で最も宿場間の距離が近く、およそ1.7kmしか離れていなかった。そのため宿屋の客引が非常に強引であった。旅人は次の赤阪宿が本命らしい。軒を並べた家々は個々の存在を誇示せず、連続させて眺めるとき、その町の顔が現われる。宿屋の店先の壁には東海道五十三次の出版元、絵師、彫師、摺師、題名が書かれている。他にも何枚かあるが、いわゆる宣伝である。

 (「知足美術館」HPより)

    
   大正期の御油(「同」より)。                      現在のようす。

         
宿内に入ると、新旧様々な建物が並びますが、道幅も曲がり具合もほとんど変化がない、かつてのままのようすが感じられます。

「高札場跡」。

高札場跡

 高札とは、江戸時代に幕府や領主の法令・禁令などを墨守した施設で、城下町や宿場など人目につきやすい場所に設置されました。御油宿の高札場はこの場所にありました。

       豊川市教育委員会

 この角にはもう一つ説明板があります。
                                    「ベルツ花夫人ゆかりの地」。 

 ただ、ほとんどペンキが剥げ落ちてようやく標題が読み取れるだけでした。そこで、こんな風になる前のものを。
HPより)

ベルツ花夫人ゆかりの地

 ベルツ花夫人は、東京の神田で1864年に荒井熊吉とそでとの間に生まれ、江戸・明治・昭和の時代を生きた、御油とはゆかりの深い女性です。
 明治新政府がドイツから招いた日本近代医学の祖と言われるベルツ博士と結婚し、日本とドイツで暮らしました。
 1905年に任期を終えたベルツ博士とドイツに渡りましたが、博士が亡くなったため1922年に日本に帰国し、1937年74歳で亡くなりました。父親の熊吉の生家が御油宿で、戸田屋という旅籠を営んでいたのがこの場所です。

 どうもきれいにまとまっている感じがします。そこで、「Wikipedia」より。

 父の熊吉は御油宿の宿屋「戸田屋」の子孫だが、没落して一家離散し、江戸の荒井家に養子に入り、小売商を営んだ。花子は1880年からベルツと同居を始めるが、正式な入籍は渡独の前年。教育はないが、利発で美しかったという。ベルツ没後も10年ほど滞独したが、ドイツ国籍が認められず、日本へ帰国したまま没した。
 晩年はベルツの友人だったユリウス・スクリバ家の日本人嫁が介護した。

 ついでにベルツについても。
 彼の日記や手紙を編集した『ベルツの日記』には、当時の西洋人から見た明治時代初期の日本の様子が詳細にわたって描写されている。そのうち来日当初に書かれた家族宛の手紙のなかで、明治時代初期の日本が西洋文明を取り入れる様子を次のように述べている。

 日本国民は、10年にもならぬ前まで封建制度や教会、僧院、同業組合などの組織をもつわれわれの中世騎士時代の文化状態にあったのが、一気にわれわれヨーロッパの文化発展に要した500年あまりの期間を飛び越えて、19世紀の全ての成果を即座に、自分のものにしようとしている(「横領しようとしている」の異訳あり)。

 このように明治政府の西洋文明輸入政策を高く評価しその成果を認めつつ、また、明治日本の文明史的な特異性を指摘したうえで、他のお雇い外国人に対して次のような忠告をしている。

 このような大跳躍の場合、多くの物事は逆手にとられ、西洋の思想はなおさらのこと、その生活様式を誤解して受け入れ、とんでもない間違いが起こりやすいものだ。このような当然のことに辟易してはならない。ところが、古いものから新しいものへと移りわたる道を日本人に教えるために招聘された者たちまで、このことに無理解である。一部のものは日本の全てをこき下ろし、また別のものは、日本の取り入れる全てを賞賛する。われわれ外国人教師がやるべきことは、日本人に対し助力するだけでなく、助言することなのだ。

 彼の批判は日本の知識人たちにも及ぶ。

 不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、なにもかもすべて野蛮でした」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです」という日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。

 無条件に西洋の文化を受け入れようとする日本人に対する手厳しい批判が述べられている。また、日本固有の伝統文化の再評価をおこなうべきことを主張している。西洋科学の手法を押し付けるのではなく、あまりに性急にそのすべてを取り入れようとする日本人の姿勢を批判し、助言をおこなっている。

 日本人は西欧の学問の成り立ちと本質について大いに誤解しているように思える。日本人は学問を、年間に一定量の仕事をこなし、簡単によそへ運んで稼動させることのできる機械の様に考えている。しかし、それはまちがいである。ヨーロッパの学問世界は機械ではなく、ひとつの有機体でありあらゆる有機体と同じく、花を咲かせるためには一定の気候、一定の風土を必要とするのだ。
 日本人は彼ら(お雇い外国人)を学問の果実の切り売り人として扱ったが、彼らは学問の樹を育てる庭師としての使命感に燃えていたのだ。・・・つまり、根本にある精神を究めるかわりに最新の成果さえ受け取れば十分と考えたわけである。

 このような批判は日本を嫌ってなされたものではない。当時の日本の医学生たちの勤勉さや優秀さを伝える発言もなされている。また、教員生活は大変満足できるものであった、とも述べている。しかし、彼はあえて日本人の学問に対する姿勢に対する批判をおこなった。すなわち、本来、自然を究めて世界の謎を解く、というひとつの目標に向かって営まれるはずの科学が、日本では科学のもたらす成果や実質的利益にその主眼が置かれているのではないか、と。そしてそのことを理解することが、日本の学問の将来には必ず必要なことである、と彼は述べている。

 また、このような言葉も残している。

 もし日本人が現在アメリカの新聞を読んでいて、しかもあちらの全てを真似ようというのであれば、その時は、日本よさようならである。

 彼は西洋文明輸入に際しての日本人の姿勢を批判し続けていた。これは当時の廃仏毀釈の嵐吹き荒れる日本への危機感でもあり、同様の考えを持ち親友でもあるハインリッヒ・フォン・シーボルトと同様に多くの美術品・工芸品を購入し保存に努めている。主治医も務めたほど関係があったシーボルトからは晩年そのコレクションの管理を託されるほどの信頼関係があり(シーボルトの急死によりその願いは果たされずコレクションは散逸)、公私に渡っての親友であった。また、文化の面にしても同様で前述のシーボルトの誘いで歌舞伎の鑑賞に出掛け、またフェンシングの達人でも合った同氏と共に当時随一の剣豪であった直心影流剣術の榊原鍵吉に弟子入りもしている。

 なるほど、さすがベルツさん、現在の日本の状況までも達観しているかのような、実に「先見の明」のあった人物です。

そこから宿内を振り返る。

そこを右に折れます。右手に広重の絵。

 そこには、

 御油宿は 戸数316 本陣4 脇本陣0 旅籠62 人口1298 町並みは9町32間

 とあります。

そのそばには、「問屋場跡」。

問屋場跡

 問屋場には、馬や人足が常備され、旅行者や荷物などを、次の宿場に継ぎ送る業務が行われていました。御油宿の問屋場はこの場所にありました。

       豊川市教育委員会

 その先の角を左に曲がります。鈎の手です。ここからが宿場の中心部。
    

道の左手に「御油宿」「本陣跡」の説明板。

御油宿

 御油宿は、江戸時代に徳川家康によって整備された江戸から京都さ三条大橋を結ぶ東海道の35番目の宿場です。次の赤坂宿とは御油のマツ並木(国指定天然記念物)を挟んで、わずか16町(1.7㎞)と東海道の宿駅間では最も短い距離です。当初、一宿分の役割を旗果たしていた時期もあったようです。
 天保14(1843)年頃の御油宿の家数は316軒で、本陣が2軒(元は4軒あったが、うち2軒は天保4年の火事で焼失)、脇本陣はなく、旅籠屋は62軒でした。
 この場所は、本陣鈴木半左衛門家跡地です。
 本陣とは参勤交代の諸大名をはじめ、宮家・公家・幕府役人などが宿泊する施設であり、、原則として門・玄関及び上段の間を備えるなど、庶民が利用する旅籠屋とは異なっていました。

       豊川市教育委員会  

宿内の詳細図。 

    
 なまこ壁のある大きな蔵造り。                    格子のある家々。 

 これから「御油の松並木」にさしかかりますが、その手前の右手に、「御関札立掛場」説明板。
「寛文元年十一月二十一日 松平丹波守宿」。

御関札立掛場

 御関札とは、諸藩の大名が参勤交代や何らかの用事で出向く際、宿泊先(御休息)となる宿場の本陣や問屋(町役人)に事前に申し伝え、宿泊当日の三日前迄に本陣、町役人は宿場の出入口に縦三尺半(約1㍍)横一尺半(約45㌢)の板に宿泊年月日・藩主名・出向く先を記入し、長さ三間半(約6㍍)の太い竹竿に取り付け立掛けられた看板を言いますう。
 御関札は、大名の権威を誇示するばかりではなく、本陣前を往来する人々に無礼のないよう通行するように注意を促す目的を持って立掛けられた看板と云われています。

 同じような看板(レプリカ)を「川崎宿」などでも見かけたことがあります。       

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