豊橋を渡ったら、川沿いの道を左に進みます。右手に道標。

今度は、左手の土手沿いにあった記念碑。


「豊川」の洪水を防ぐための先人の労苦の跡。
しばらく進むと、右手に「下地一里塚跡」。江戸・日本橋から74里目に当たります。


右にカーブすると、道幅が狭くなります。昔のままの道幅のようです。古い家並みが続きます。


古い町並みを抜けて「横須賀町」も過ぎ、遅くなりましたが、そろそろ昼飯をと思っても、何もない。

目の前にぽつんと一本松。久々の松。

「東海道名残の一本松」。古くはないが、手書きが気に入りました。

その脇に「晩酌屋」と「中華料理」と「うどん屋」が三軒並んで。。そこで、うどん屋さんに入りました。

こうして後半の歩きに。
しばらく進むと左手に「豊橋市魚市場」。右手には関連した店が並んでいます。中でも「代々の板前の丼屋 中はら」さん。インパクトのある看板。


ここを過ぎて「豊川市」に入ると、とたんに道も狭くなり、歩道もなくなります。

大型の貨物トラックや軽トラなどが激しく行き交う道を進むことに。
「高橋」を渡って行きます。

道の両側には田園風景が広がりますが、・・・


スピードを上げた車が双方から来るので、のんびりと立ち止まって写真を撮れません。何しろ対向車線を大きくオーバーして避けてもらうのですから。
坂を下った右手にある古い石碑と説明板。


子だが橋
子断が橋ともいわれ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。
およそ一千年前菟足(うたり)神社には、人身御供があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする慣習があったと伝えられている。
ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を、若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た。見ればわが子である。
「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。
それからこの橋を、子だが橋と呼ぶようになったということである。
現在、菟足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われている。
豊川市教育委員会
広い「国道247号線」を渡ると、芦のそよぐ沼地に出ます。




JR飯田線の踏切を渡ります。奥に見えるのが「小坂井」駅。



しばらく先の右手にある「秋葉神社の常夜燈」。

古民家カフェ「もくせいの花」。

80年前の古民家を再生した、らしい。「こだわりの」シフォンケーキと「こだわりの」豆腐を素材にしたメニュー、だそうです。
お店から出てきたおばあさん、ほら、シフォンケーキを売っているのよ、おししいわよ、と大きなケーキを見せてくれました。
しばらく進むと、「伊奈村立場茶屋 加藤家跡(俗称 茶屋本陣跡)」。

一、茶屋の由来
東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり、立場茶屋が設けられたので、茶屋の地名ができた。
二、加藤家と良香散
茶屋のうちで格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)では「良香散」という腹薬が売られ、この薬は茶屋の地名よりも有名であった。交通の変遷によって今はこの古井戸(南西30M)一つを残すのみとなった。
三、明治天皇御旧跡
東京遷都の時、明治天皇は、この加藤家で御休憩になられた。その時天皇が使用された箸が、牧野真一宅に保存されている。
四、俳人烏巣(うそう)
烏巣は、加藤家の生まれで、謙斎といい芭蕉と親交があり、京都で医者をつとめていた。
五、芭蕉句碑
「かくさぬぞ 宿は菜汁に 唐が羅し」
六、烏巣句碑
「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」


注:芭蕉の句= 日頃の菜汁に唐辛子だけの粗末な食膳を、客の前でも隠そうともしない。この家の主は、けっして気取らぬ人物だ。」
季語は、唐辛子で「秋」。「菜汁」は干菜のみそ汁。ここに登場する「宿(の主)」とは「烏巣」らしい。
「猫の耳」所収。この句集は、吉田宿でも同道していた「越人」が監修したものらしい。
しばらく行った先の右手には「伊奈一里塚跡」。


江戸・日本橋から75里目。お隣の建物は太鼓屋さん。
「国道1号線」から一本南に入った道ですが、車もほとんど通らず、落ち着いた町並みが続きます。


「佐奈橋」。向こうに見える通りが「国道1号線」。

こんな演出も。松が一本もない単調な道筋にしゃれた配慮。

小さな橋を越えて行くと周囲は倉庫や工場の地域に。埃っぽい道になります。

しばらく進むと、迂回の表示が出てきます。左に折れて、次を右に。跨線橋の下をくぐって右に。



「国道1号線」に合流します。

いつしか「(日本橋から)305㎞」ポストまで来ました。

左手遠くに「豊川用水」の表示が。

愛知県東三河地方は、昔から幾度となく旱魃に悩まされてきた。特に東三河地方の南、渥美半島では、半島の為、大きな川が無く、日照りが続くとすぐに旱害が発生した。
何とかこの地域に東三河を流れる豊川の水を引こうと考えたのが、現在の田原市出身の近藤寿市郎だった。近藤寿市郎は、視察に訪れたインドネシアでの農業水利事業をヒントに、豊川上流の鳳来町(現・新城市)にダムを建設し、貯めた水を東三河地方に導水するという発想を抱き、実現させようと、地元の人々に構想を説き、自らも国らに精力的に働きかけた。
第二次世界大戦などで、紆余曲折があったが、終戦から4年目の昭和24年、宇連ダムを皮切りに国営事業として豊川用水の建設工事が始まった。昭和33年、農業用水だけでなく、水道用水や工業用水の開発が追加され、昭和36年に愛知用水公団に引き継がれることとなり、昭和43年、ついに全通した。
(以上、「Wikipedia」参照)
しばらく「国道1号線」に沿って進み、「国府町藪下」交差点で左に入ります。