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Channel: おやじのつぶやき
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東武野田線「川間駅」~流鉄「流山駅」。その8。「流山」町歩きその3。万上線跡。万上みりん。一茶双樹記念館。(「江戸川」を歩く。第2回目。)

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                駅前広場から左の細道を歩いて行くと、

  

              駅からカーブした道は、「貨物引込線(万上線)」跡。  

このカーブの道路は、流鉄流山駅から野田醤油株式会社流山工場(現:流山キッコーマン株式会社)をつなぐ引き込み線跡です。この引き込み線ができたのは昭和4年で、アルコールの原料とするサツマイモや石炭の移入、酒類の出荷に利用されました。トラック輸送の増加により利用は徐々に減っていき、昭和44年で廃線となりましたが、その軌道は道路となってそっくり残っています。

流山駅方向。

ところで、「みりん」とは? 

みりんは、日本古来から愛用されてきました。慶長7年には、すでに市販され、広く諸国で使用された記録が残されています。甘みが貴重だった時代に、みりんの甘みと風味は、甘い酒として人々に愛されていたのです。
今でこそ調味料を主とし、お正月の屠蘇酒程度に飲まれているみりんですが、当初は、主に飲み物として愛用されていました。そばつゆなど料理に用いられ出したのは、江戸中期からの話で、今のように様々な料理に用いられるようになったのは、明治も後半。昭和になって、その傾向が、一層強まってきたといわれています。

当時の文献をひもとけば、醤油における野田のように、みりんといえば流山を想起するのが当たり前と記されています。
この流山でみりん造りを行っていたのが万上でした。
酒造りを営んでいた相模屋二代目当主、堀切紋次郎は、きれいに澄んだ白みりんの醸造に成功。ここから、現代に用いられている本当のみりんの歴史が始まり、万上が関東白みりんの祖と呼ばれるようにもなったといわれています。
しかし、当初はともかく無名であったため、紋次郎自らが諸方を巡って、販路の開拓を進めたのでした。それが実を結び、文政7~8年(1824~25)頃には江戸の町のそこかしこに「流山みりん酒」の看板を見ることができるようになりました。
そして三代目、四代目とも家業に励み、その名声は向上。
明治維新の戦乱に巻き込まれ、一時、家業を中断したこともありましたが、維新後、再開。
明治6年にはウイーン万国博覧会に万上みりんを出品し、有巧賞牌を受け、同年続いて宮内省御用達を拝命するなど、その名声を高めていきました。
それからも多くの博覧会に出品し、常に最高賞を受け、その名を世界へと轟かせ、現在に至っているのです。江戸中期の文化11年、酒造りを営んでいた相模屋二代目当主、堀切紋次郎は、きれいに澄んだ白みりんの醸造に成功しました。これが江戸市中で大人気となり、東名物(あずまめいぶつ)として、日本全土に広まりました。これが、今のマンジョウ本みりんです。その評判から、宮中に献上する機会に恵まれた紋次郎は、こう歌います。「関東の 誉れはこれぞ一力で 上なきみりん 醸すさがみや」ここから「一力」を「万」の字に代え、「上なき」の「上」をとって「万上」とした、これがその名の由来です。

相模屋の白みりんが、その良質の味わいを産み出した背景には、醸造地である流山近県で生産されていた、名産のもち米とうるち米を使用していた点も大きかったといわれています。今も優秀な原料にこだわり、ゆっくり時間と手間をかけて熟成させる、昔ながらの醸造法で、マンジョウ本みりんを、1本、1本生み出しているのです。

往来する荷船の影や水夫の声はなくとも、江戸川は今も昔の面影をとどめ、ゆったりと流れています。
そのほとりに流山キッコーマン株式会社は位置しています。創業以来、200年以上たった今、もちろん最新の機器により衛生面や製造の精度を高めてはいるものの、その基本技術に変わりはなく、小学校の教科書に「しょうゆは野田、みりんは流山」と取り上げられるほどの美味しさと伝統の製法を守り続けています。
現在も、流山キッコーマン株式会社では、マンジョウ本みりんを醸造し、今なお変わらぬ味を、プロの調理場に、そしてご家庭のみなさまの食卓へとお届けしています。

(この項、「キッコーマン」HPより)

※我が家で用いているみりんは「万上みりん」です。

廃線跡の道は「キッコーマン流山工場」にぶつかります。かつては工場内に続いていました。

     正面の壁は「流山白味醂200周年記念まちなかミュージアム」。

1970年代のようす。西に「江戸川」。

2010年代のようす。

工場の壁にみりんの歴史が絵解きされています。

「万上通り」。右に工場正門。

         

流山みりんマップ。

              「みりん」にちなむお店などが紹介されています。

流山本町まちなかミュージアム

2014年に流山市の特産品である万上の「白みりん」が誕生して200周年を迎えました。この記念すべき年を契機に、流山の白みりん二大ブランドの一つ、「万上」の味が受け継がれる流山キッコーマン株式会社の工場の壁面を借用し、流山市の白みりんに関する歴史的な資料を掲示する「流山本町まちなかミュージアム」を設置しました。このミュージアムでは、現存する最古のみりんラベルや、流山のみりん醸造をけん引した秋元家の「天晴」と堀切家の「万上」のポスター等、貴重な資料が展示されています。・・・

          右の広告が「天晴味醂」。

右端に秋元家の「天晴」と堀切家の「万上」ポスター。

流山のみりんとしては、「万上みりん」の他に「天晴みりん」も有名でした。それにちなんで、「万上通り」の先は「天晴通り」と呼ばれています。

歴史ある流山の白みりんの流れを継ぐ本みりん

「天晴本みりん」は江戸時代後期に江戸近郊の流山で生まれた白みりんの代表ブランド。江戸の食文化の発展とともに調味料として広まりました。「天晴本みりん」は200年以上の歴史を引き継ぎ、現在の食産業に適応した品質で、タレ・つゆ、煮物など様々な調理用途にご利用いただける定番のみりんです。弊社製造工場が流山から日光へと移転した現在も、その志や技術は受け継がれています。 用途 煮物、焼き物、タレ・つゆ、菓子など  おすすめ業態 加工食品、冷凍食品、中食・外食など  荷姿 20L BIB、18L 缶、1.8L、1L 「天晴」ブランドの名前の由来 「天晴」がいつからみりんの商標として使用されたのかは、はっきりした記録はありませんが、明治31年に新政府軍征夷大将軍・小松宮彰仁親王殿下が秋元家を訪れた際、八代目秋元三左衛門のために「天晴」の掛け軸を書き、その揮毫がみりんの商標として使われたといわれており、非常に古くからのロゴマークです。   歴史ある「天晴」みりん 「白みりん」発祥の地である流山(千葉県流山市)は、江戸川の舟運により大消費地である江戸と間近に結ばれていたことにより、江戸時代後期には全国的にも有名な産地となりました。この流山のみりんの二大ブランドの一つが「天晴」です。        「白みりん」発祥の地、流山の昔の醸造風景 日光の美しい水を活かして 現在の「天晴本みりん」は、千葉県流山市から栃木県日光市へと移転し、弊社日光工場で製造しています。水の都と言われる日光は、良質な地下水に恵まれた環境にあり、製造や洗浄に使う水は、日光山系の良質な地下水を使用。大量に水を使うみりんや酒類の製造には最適な条件です。
雄大な自然に囲まれ、美しい水が豊富な日光の地で、「天晴本みりん」の歴史は受け継がれています。現在は、ペットボトル(1.8L、1L)製品、20LのBIB製品など、豊富なラインアップでお届けしています。 (この項、「」HPより)

※「天晴みりん」は、昭和の時代に吸収合併等により工場を閉鎖し、その跡地に「ケーズデンキ」が進出し、現在に至っている。

「天晴通り」を進むと、左手に「一茶双樹記念館」。

       

小林一茶寄寓の地
江戸時代の俳人小林一茶(1763年~1827年)は、人生の多くを旅に過ごした。中でも流山を含む下総地方は、最もよく訪れており、その地の俳友達に俳句を指導したり、情報を交換したりして、生活の糧を得ていた。
流山で一茶と親交が篤かったのは、醸造業を営み、味醂の開発者のひとりと言われる、五代目秋元三左衛門である。三左衛門(1757年~1812年)は、双樹と号し、家業の一方俳句をたしなみ、経済的にも一茶を援助していた。一茶は、享和3年(1803)から文化14年(1817)の15年間に、50回以上も流山に来たことが、句帖や日記からわかっている。一茶と双樹の関係は、俳人と商家の大旦那というだけでなく、真の友人であったことがしのばれる。
流山市教育委員会では、この地を一茶と双樹が親交を深めた、流山市にとって由緒ある土地として平成2年12月4日付けで、流山市指定記念物として(史跡)第1号に指定し、一茶双樹記念館として整備した。安政期の建物を解体修理した双樹亭、枯山水の庭園、流山で味醂の生産が最も盛んであった時代を再現し、展示を行う秋元家本家、茶会、句会などに利用できる一茶案 がある。
                流山市教育委員会

小林一茶は、生涯に2万句の発句を作った、といわれます。生まれ故郷の柏原など、ゆかりの地に多くの句碑が作られています。このブログでもいくつか取り上げています。
都内には、

・足立区六月3丁目・炎天寺の「蝉なくや六月村の炎天寺」、「やせ蛙まけるな一茶是にあり」。

・荒川区尾久1丁目・浄善寺の「いたれりや佛の方より花衣」。

・荒川区西日暮里3丁目・本行寺の「陽炎や道灌どのの物見塚」。

・江東区大島2丁目・愛宕神社の「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」。

東海道・知立では、「はつ雪や ちりふの市の銭叺(ぜにかます)」

中山道・追分では、「有明や 浅間の霧が 膳をはふ」。

房総往還・青堀では、「艸花やいふもかたるも秋の風」、「蕣(あさがお)の花もきのふのきのふ哉」。

他にもいくつかありますが、省略。

こうして、再び「流山駅」に。 


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