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Channel: おやじのつぶやき
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東武野田線「川間駅」~流鉄「流山駅」。その7。「流山」町歩きその2。丁子屋。近藤勇本陣跡。(「江戸川」を歩く。第2回目。)

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                 呉服新川屋店舗 国登録有形文化財         

この建物のある流山広小路沿いの地区は、江戸川沿いにあたり、年貢米の輸送や東北・北関東との物資が行き交う水運業・酒・みりんなどの製造業で栄え、江戸時代から昭和40年代まで多くの商家が軒を並べていた。呉服新川屋は弘化3年(1846)創業で、この建物は明治23年(1890)に建てられたものである。土蔵造りの分厚い壁が特徴で、恵比寿、大黒が表された屋根の鬼瓦は見事である。

建物に書かれた文字から、土屋熊五郎という松戸の大工が建てたことが知られる。現在広小路界隈の歴史的建造物は少なくなってしまったが、呉服新川屋は国土の歴史的景観に寄与しているものとして平成16年(2004)に国の有形文化財(建造物)に登録された。

丁子屋栄。

「本格フレンチレストラン」のお店。

流山市から古民家再生プロジェクトの出店のお声がけをいただき、その第一号店として、丁字屋は生まれました。
当時の佇まいをできる限り残す形でリノベーションし、外観の意匠だけでなく、内装も土間、上がりかまち、神棚、急な階段もそのままに蘇らせました。
「丁字屋」の名前も元の足袋屋の屋号からいただいています。
また日暮れになると、えも言われぬ風流さを醸し出す店頭の切り絵行灯。こちらは流山本町の活性化のために住民の方が制作されたもので、流山本町に約80基が並んでいます。店内にも季節ごとに切り絵を飾り、この町と歴史と一緒に暮らしていく想いを込めています。
ぜひ、丁字屋にお越しの際は、ふらっと周囲を散策して、この町の歴史を感じていただければ幸いです。

(この項、「丁子屋栄」HPより)

※「丁子屋」という屋号のお店はこれまでも街道歩きでいくつか出会いました。

 ①東海道・丸子(鞠子)宿 ②中山道・倉賀野宿 ③奥州街道・芦野宿 

 丸子宿の「丁子屋」はとろろ汁で有名で、立ち寄って食しました。 

切り絵行灯。「荒物雑貨商 元佐野屋」。

「閻魔堂」の先には、

 新選組流山本陣跡。新選組局長近藤勇と副長土方歳三離別の地。近藤勇陣屋跡。

         

近藤勇には街道歩きや川歩きででご縁があります。

①中山道・板橋宿平尾脇本陣豊田家跡」碑。

    

 板橋宿平尾脇本陣豊田家
 豊田家は、板橋宿の問屋・脇本陣、平尾の名主を務めた家であり、代々市右衛門を名乗っていました。
・・・
1868慶応4年(1868)4月、下総流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されるまでの間、この豊田家に幽閉されていました。

②甲州街道・「西光寺」仁王門の左側に腕をくんで座っている近藤勇像。「日野宿」は近藤勇と深い因縁があります。


    

③「龍源寺」。「野川」歩きの時に立ち寄りました。人見街道沿い。ここから徒歩4分で近藤勇生家跡に。
 
  
        「近藤勇」の胸像。                    お墓。

ここには、辞世の七言律詩が刻まれています。(「Wikipedia」より)

孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流

一片丹衷能殉節 睢陽千古是吾儔

(書き下し文) 孤軍援(たす)け絶えて俘囚となる 顧みて君恩を思へば涙更に流る 一片の丹衷能(よ)く節に殉ず 睢陽(すいよう)は千古是れ吾が儔(ともがら) 靡他今日復何言 取義捨生吾所尊 快受電光三尺劔 只將一死報君恩 (書き下し文) 他に靡き今日復(ま)た何をか言はん 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所 快く受けん電光三尺の剣 只に一死をもって君恩に報いん ※睢陽(すいよう)=古代中国の地名代の757年、安禄山の乱の時に、太守許遠がここにって賊軍の進出を防い   だ。 ※丹衷(たんちゅう)=まごころ。「赤心」。

そして、流山。「近藤勇陣屋跡」碑より。

文久三年春以来京にあって名を馳せた新撰組は慶応4年鳥羽伏見の一戦に敗れて江戸に帰り新たに甲陽鎮撫隊を結成、同年三月甲州路勝沼に出陣して官軍と交戦、これまた敗れて総州流山に再挙となった。当時の流山は水陸交通の要衝、醸造業の地として知られ、各種問屋、船宿、旅籠軒をつらね本多氏下総両管理の「加村役所」も加村台にあってその繁栄は近隣に比すべきものがなかった。ために、江戸を脱出した幕兵のこの地を慕って屯集する者、また数を知らなかった。甲陽鎮撫隊は3月20日ごろ流山に入り、酒造家長岡屋(当所)を本陣とした。日増しに傘下に加わる同志隊員を諸家に分宿させ、旬日にして一大勢力となった模様である。一方、官軍においては。その東山道軍先鋒隊の一部が結城方面の鎮圧に向かう途次、この風聞を耳にした。直ちに来攻撃策を以て隊長近藤勇(大久保大和と変名)を誘い捕縛に就かせた。時に慶応4年4月3日の夕刻である。一説に近藤は、兵災の郷民に及ぶことを憂い、みずから敵手に身をゆだねて、決戦を避けたという・・・

※「新撰組」と「新選組」の二つの表示があるが、「新撰組」が一般的か。

さて、いったん「流山駅」に到着しましたが、駅前の観光案内版には他にもまだまだ見所が記載されています。

  

                  

そこで、町中をもう少し歩いてみます。


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