両国橋の下流、隅田川とを結ぶ竪川(人工の堀)で遊歩道は途切れて、ぐるっと回り道。
竪川(一之橋)側からみた水門。
一之橋から東にかけて、竪川に架かる橋は、二之橋(清澄通り)、三之橋(三ツ目通り)、四之橋(四つ目通り)と続き、五之橋はJR亀戸駅付近を通る「明治通り」に架かる橋となっています。
新大橋西詰めにある大正12年に起こった関東大震災「避難記念碑」。碑文によれば、神の助けと人智により、隅田川に架かっていた橋の中で焼け落ちなかった「新大橋」上で九死に一生得たことを記念したもの、と。
見上げるほど大きな碑。
「日本銀行」発祥の地。永代橋西詰付近。
碑面には 「創業時の本館」の図が彫られたプレートが取り付けられています。
碑文 日本銀行創業の地
明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
創業百周年を記念してこの碑を建てる
昭和五十七年十月
日本銀行総裁 前川春雄
日本橋川、隅田川、新川に囲まれたこのあたり一帯は、「霊岸島」と呼ばれた地域。今は一大商業地域ですが、そこここに歴史的な記念碑などが多くありますが、今回は省略。
日本橋川河口(隅田川との合流点近く)に架かる「豊海(とよみ)橋」。昭和2年関東大震災復興事業の一つとして鉄骨橋になった。橋の形式は、フィーレンデール橋(考案者の名前をとった)。ハシゴを横にしたようなこの橋は、日本では数例しかなく希少価値の高い橋。
解説版。由来とともに、永井荷風の「断腸亭日乗」の一節が記されています。
「日本橋川」の西側を望む。
「南高橋」。「日本橋川」から分岐した「亀島川」が隅田川に注ぐ地点にあります。
「南高橋」の説明板。
創架年代は、昭和六年(一九三一)に起工、同七年三月に竣工。
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正十二年(一九二三)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治三十七年(一九〇四)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
都内において、珍しくも明治三十七年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。
平成十四年三月 中央区教育委員会
ここにも記されているように、この橋の橋梁は、関東大震災で損害を受けた旧両国橋(明治三七年建造)の鋼鉄トラス橋の一部を使用しました。都内に残る鋼鉄トラス橋としては2番目に古い橋(車両通行可能橋梁としては最古。全国でも6番目に古い橋となっています)。
両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めたもの。
「中央大橋」にある彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」と名づけられた彫像。
隅田川とフランスのセーヌ川とは、1989年(平成元年)に友好河川を提携し、中央大橋を架ける際に、フランスのデザイン会社に設計を依頼しました。主塔および欄干部分は、「兜」を意識したデザインになっている、ということです。
(「Wikipedia」より拝借。)
彫像は川側を向いており、橋をくぐる水上バスからしか正面が見えません。
遠くにスカイツリー。
銘板。
月島方向を望む。

一之橋から東にかけて、竪川に架かる橋は、二之橋(清澄通り)、三之橋(三ツ目通り)、四之橋(四つ目通り)と続き、五之橋はJR亀戸駅付近を通る「明治通り」に架かる橋となっています。



碑面には 「創業時の本館」の図が彫られたプレートが取り付けられています。
碑文 日本銀行創業の地
明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
創業百周年を記念してこの碑を建てる
昭和五十七年十月
日本銀行総裁 前川春雄
日本橋川、隅田川、新川に囲まれたこのあたり一帯は、「霊岸島」と呼ばれた地域。今は一大商業地域ですが、そこここに歴史的な記念碑などが多くありますが、今回は省略。





創架年代は、昭和六年(一九三一)に起工、同七年三月に竣工。
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正十二年(一九二三)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治三十七年(一九〇四)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
都内において、珍しくも明治三十七年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。
平成十四年三月 中央区教育委員会
ここにも記されているように、この橋の橋梁は、関東大震災で損害を受けた旧両国橋(明治三七年建造)の鋼鉄トラス橋の一部を使用しました。都内に残る鋼鉄トラス橋としては2番目に古い橋(車両通行可能橋梁としては最古。全国でも6番目に古い橋となっています)。


隅田川とフランスのセーヌ川とは、1989年(平成元年)に友好河川を提携し、中央大橋を架ける際に、フランスのデザイン会社に設計を依頼しました。主塔および欄干部分は、「兜」を意識したデザインになっている、ということです。

彫像は川側を向いており、橋をくぐる水上バスからしか正面が見えません。


