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Channel: おやじのつぶやき
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両国橋〜隅田川河口まで(隅田川の歴史をたどる。その1)

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 といってもなかなか河口にたどり着きません。久々に隅田川の旅を試みました。今回は吾妻橋から東側(左岸)を。まだまだ歴史の古さを感じさせるものがあって。やっと「永代橋」の下流の橋「中央大橋」まで。往復約3時間30分の自転車の旅。「勝鬨橋」までまだまだ遠い。
 テラスには、区立の小学校や中学校の卒業制作の作品が展示されています。また、歴史を偲ばせる浮世絵や写真が掲示されています(「東京江戸博」所蔵のもの)。総武線の鉄橋が見える。
隅田川のボートレース。昭和29(1954)年の全日本選手権にケンブリッジ大学からも参加したときのものらしい(言問橋上空から上流を望む)。右岸(西側)に見える川筋は「山谷堀」。現在の桜橋・西のたもと付近。
安政の大地震後に新しく架けられた両国橋渡り初め。親子三代の一家を先頭に渡るのが慣わし。
こちらも同じだが、夫婦揃っての三代の一家という。遠くに筑波山。
川沿いのフェンスには、相撲の48手が描かれている。
両国橋のたもとの広小路の賑わい。
かつての橋は現在の橋よりも少し下流にあった。その説明板。
「赤穂浪士休息の地」。実際には、両国橋を渡らずに一之橋から永代橋を渡って泉岳寺に向かった。
「春日野部屋」。堂々とした建物。かつての広小路付近。

ここで、「春日野部屋」出羽の海一門の相撲部屋(名門に属するか)。 
 1925年(大正14年)5月場所に現役を引退した出羽海部屋所属の第27代横綱・栃木山が、引退に伴い自身の養父である行司・木村宗四郎が所有する年寄名跡である年寄・春日野を襲名して、当時「分家を許さず」の不文律があった出羽ノ海部屋から例外的に独立を許されて春日野部屋を創設した。8代春日野は横綱・栃錦などの関取を育て上げた。
 8代春日野は1959年(昭和34年)10月に死去し、それに伴い、春日野部屋所属の横綱・栃錦が現役力士のまま二枚鑑札で9代春日野を襲名して部屋を継承した。9代春日野は1960年5月場所に現役を引退して年寄専任となり、以降、師匠として横綱・栃ノ海や大関・栃光、関脇・栃東、関脇・栃赤城、関脇・栃乃和歌などといった多くの関取を育て上げた。
 約30年にわたり師匠を務めた9代春日野は1990年(平成2年)1月に死去し、それに伴い、春日野部屋の部屋付き親方である中立親方(元横綱・栃ノ海)が10代春日野を襲名して部屋を継承した。10代春日野は関脇・栃乃洋や小結・栃乃花などといった関取を育て上げた。
 その後、10代春日野の定年退職を1ヶ月後に控えた2003年2月に、春日野部屋の部屋付き親方である竹縄親方(元関脇・栃乃和歌)が10代春日野と年寄名跡を交換する形で11代春日野を襲名して部屋を継承した。11代春日野はこれまでに栃煌山や栃ノ心、栃乃若などといった関取を育てている。
 春日野部屋の力士には、開祖の栃木山に因んで四股名に「栃」の字が付けられた力士が多い。1938年(昭和13年)5月場所以降、1967年9月場所を除いて幕内力士を絶やしていない。2012年2月13日に田子ノ浦部屋の師匠である田子ノ浦親方(元幕内・久島海)が急逝したため、同年3月場所前に幕内・碧山を始めとする力士3人が田子ノ浦部屋から所属力士として加わった。
(以上、「Wikipedia」による。)
 我々の世代にとっては、何と言っても9代春日野親方(第44代横綱の栃錦)。またその跡を継いだ第49代横綱の栃ノ海ですね。

その前の道路。現在は問屋街。むやみに幅広い道。広小路の名残り?
けっこうな広さの道筋。
「尾上町」跡。隅田川と竪川との合流点付近。
竪川の水門。
箱崎に向かう首都高。




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