「房総往還」第3日目。2月8日(土)。晴れ時々曇り。最近は、自宅を出るのが遅く距離が伸ばせません。
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街道はほぼ南に向かうので、写真を撮ると、逆光気味になってしまいます。
こんな風にスッキリとは撮れません。
道標「大がんじ道」。
ここから北東にあるお寺への道。
「鬼そば」。ネーミングが奇抜!
明治創業の4代目が切り盛りするお店。日本蕎麦から中華まで幅広いメニュー。
本当の店名は「林遊庵」。その昔、お店の瓦が "鬼瓦" だった為、ご常連さんから「鬼そば鬼そば」と呼ばれ、「鬼そば」の方が定着した為、看板や暖簾の方も「鬼そば」にしたようです。
年季の入ったお店。営業しているのかどうか。![]()
すぐ西側を通る幹線道路(「湾岸道路」)にはお店もたくさんあるので、廃れてしまったような街並み。そこが、街道歩きにはけっこう!
広い道路を横切るときの西側のようす。![]()
「湾岸道路」とその海側にある「千葉市蘇我スポーツ公園」方向。
ジェフユナイテッド千葉のホームスタジアムであるフクダ電子アリーナのほか、サッカー、野球、テニスなどができる大規模なスポーツ公園です。![]()
(この項、「
」HPより)
この付近の今昔。
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1880年代のようす。海岸線沿いに進む。。
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2010年代のようす。公園施設を造成中。○が撮影地点(交差点)。
現在は、公園の西側に「JFEスチール」の工場が建設されている。
「蘇我比咩神社」何と読むのか?
「そがひめじんじゃ」と言うそうです。
紀記神話によれば、日本武尊の東征の際、相模から総国に渡ろうとしたとき暴風雨に遭い、それを鎮めるために日本武尊の后の弟橘姫が入水した。社伝によれば、そのとき弟橘姫に付き従ってきた5人の女性も一緒に水に入ったが、そのうちの一人、蘇我大臣の娘の蘇我比咩だけは浜に打ち上げられ、里人の看護により蘇生し、都に帰った。後に里人は、日本武尊が帰途に亡くなったことを聞き、その霊を慰めるために社を建てて祀った。応神天皇はその行為に感激し、蘇我一族をこの周辺の国造として派遣した。蘇我氏は春日大社と比咩神社を信仰しており、両社を勧請して蘇我比咩神社を創建したという。
ただしこれには別の伝承もあり、浜に打ち上げられ蘇生したのは弟橘姫であり、弟橘姫が「我、蘇(よみがえ)り」と言ったので「蘇我」という地名となったともいう。
レンガ造りの倉庫。![]()
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右手を望む(海岸方面)。![]()
三叉路で、左手の旧道に進みます。![]()
道の曲がり方が旧道らしい。
左手奥に「曽我野藩陣屋跡」があります(小公園)が、見逃しました。
その先で、「京葉臨海鉄道株式会社」が経営する貨物線の踏切を越えます。列車が通過するのをしばらく待ちましたが、来ず。
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「旧国道踏切」とあります。
「千葉貨物駅」に向かう線路。![]()
(「Wikipedia」より)
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一大工業地帯、各社を網羅する貨物線。
総武線《新小岩→蘇我・鹿島SS》 の貨物列車。この踏切の通過時間がわかれば待ち構えていたところです。作業員の方が数人、蘇我駅方向を監視していたようにも見えましたので、・・・。

街道はほぼ南に向かうので、写真を撮ると、逆光気味になってしまいます。
こんな風にスッキリとは撮れません。

道標「大がんじ道」。


明治創業の4代目が切り盛りするお店。日本蕎麦から中華まで幅広いメニュー。
本当の店名は「林遊庵」。その昔、お店の瓦が "鬼瓦" だった為、ご常連さんから「鬼そば鬼そば」と呼ばれ、「鬼そば」の方が定着した為、看板や暖簾の方も「鬼そば」にしたようです。
年季の入ったお店。営業しているのかどうか。

すぐ西側を通る幹線道路(「湾岸道路」)にはお店もたくさんあるので、廃れてしまったような街並み。そこが、街道歩きにはけっこう!
広い道路を横切るときの西側のようす。

「湾岸道路」とその海側にある「千葉市蘇我スポーツ公園」方向。
ジェフユナイテッド千葉のホームスタジアムであるフクダ電子アリーナのほか、サッカー、野球、テニスなどができる大規模なスポーツ公園です。

(この項、「

この付近の今昔。




1880年代のようす。海岸線沿いに進む。。




2010年代のようす。公園施設を造成中。○が撮影地点(交差点)。
現在は、公園の西側に「JFEスチール」の工場が建設されている。

「そがひめじんじゃ」と言うそうです。
紀記神話によれば、日本武尊の東征の際、相模から総国に渡ろうとしたとき暴風雨に遭い、それを鎮めるために日本武尊の后の弟橘姫が入水した。社伝によれば、そのとき弟橘姫に付き従ってきた5人の女性も一緒に水に入ったが、そのうちの一人、蘇我大臣の娘の蘇我比咩だけは浜に打ち上げられ、里人の看護により蘇生し、都に帰った。後に里人は、日本武尊が帰途に亡くなったことを聞き、その霊を慰めるために社を建てて祀った。応神天皇はその行為に感激し、蘇我一族をこの周辺の国造として派遣した。蘇我氏は春日大社と比咩神社を信仰しており、両社を勧請して蘇我比咩神社を創建したという。
ただしこれには別の伝承もあり、浜に打ち上げられ蘇生したのは弟橘姫であり、弟橘姫が「我、蘇(よみがえ)り」と言ったので「蘇我」という地名となったともいう。
レンガ造りの倉庫。


右手を望む(海岸方面)。

三叉路で、左手の旧道に進みます。


左手奥に「曽我野藩陣屋跡」があります(小公園)が、見逃しました。
その先で、「京葉臨海鉄道株式会社」が経営する貨物線の踏切を越えます。列車が通過するのをしばらく待ちましたが、来ず。


「旧国道踏切」とあります。
「千葉貨物駅」に向かう線路。



一大工業地帯、各社を網羅する貨物線。
総武線《新小岩→蘇我・鹿島SS》 の貨物列車。この踏切の通過時間がわかれば待ち構えていたところです。作業員の方が数人、蘇我駅方向を監視していたようにも見えましたので、・・・。