旧古河庭園沿いの石垣。
(10:16)
「大炊介坂(おおいのすけざか)」。
坂の名は、この辺りに住んでいた中世の武将保坂大炊介にちなんで大炊介坂と呼ばれているが、坂の上の平塚神社にちなんで宮坂とも、樹木に覆われていたので暗闇坂とも呼ばれていた。この道は岩槻街道で、江戸時代には将軍の日光東照宮社参の行列が通ったため日光御成道と呼ばれたが、現在は本郷通りと呼ばれている。この辺りに江戸時代には牡丹園が設けられたこともあった。
左手にあるのが「旧古河(ふるかわ)庭園」。![]()
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旧古河庭園
1919年(大正8年)に古河虎之助男爵の邸宅として現在の形(洋館、西洋庭園、日本庭園)に整えられた。現在は国有財産であり、東京都が借り受けて一般公開している。国の名勝に指定されている。東京のバラの名所として親しまれている。
設計:ジョサイア・コンドル
日本庭園:小川治兵衛
明治20年代、政治家・陸奥宗光が当地を購入し別宅とする。明治38年、宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子(2代当主)となったため、古河家に所有が移った。当時の建物は現存しない。
1914年(大正3年)、古河財閥3代目当主の古河虎之助(市兵衛の実子)が周囲の土地を購入し、9,470坪を古河家の本宅用として、整備を開始した。
1917年(大正6年)5月、西洋館と洋風庭園が竣工。洋館と洋式庭園は、イギリス出身の建築家、ジョサイア・コンドル(他に旧岩崎邸洋館、鹿鳴館、ニコライ堂など)により設計監理された。
さらに虎之助により、大正8年(1919年)、日本庭園も竣工し、現在の形となった。日本庭園は近代日本庭園の先駆者・京都の庭匠「植治」こと七代目小川治兵衛(他に京都無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園など)により作庭された。
・・・東京大空襲による被害は建物、庭園ともに免れた。終戦後、1947年、西ヶ原邸は財産税等の物納で国有財産となる。一方、地元東京都や北区からは旧古河家の庭園を公園化してほしいという強い要望が出された。こうした要望に応えて1955年(昭和30年)4月、大蔵省は、東京都に貸し付けることを決定した。こうして、約一年の整備を経て、1956年(昭和31年)4月30日、「旧古河庭園」として都市公園として開園した。
・・・洋館等の建物は、その後約30年間放置された状態で「お化け屋敷」と言われるほど荒廃が進んだ。1981年刊行の北村信正「旧古河庭園」には洋館は「きづたに覆われている」とあり、蔦に覆われた洋館の写真も掲載されている。1982年(昭和57年)に東京都名勝の指定を受けると、それから1989年(平成元年)まで7年をかけた修復工事が行われ、現在の状態まで復元された。
2006年(平成18年)には、大正時代初期の形式をよく留める庭園が評価され、国の名勝に指定された。
武蔵野台地の斜面を巧みに利用した造りとなっており、台地上に洋館を、斜面に洋風庭園、斜面下の低地部に日本庭園が配置されている。
洋館(大谷美術館)
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1917年(大正6年)5月竣工。延べ414坪。地上2階・地下1階。外観はスコティッシュ・バロニアル様式を目指したとされる。古河虎之助がコンドルに設計を依頼した時期や経緯は明らかではないが、大正3年頃、洋館の設計がなされている。 屋根はスレート葺き。煉瓦造の躯体を、黒々とした真鶴産の本小松石(安山岩)の野面積みで覆っているのが特徴的である。
南側の庭園から見た外観は、左右対称に近く、両脇に切妻屋根を据え、その間の部分は1階に3連アーチ、2階には高欄をめぐらしたベランダが設けられて、屋根にはドーマー窓を乗せている。全体的に野趣と重厚さにあふれ、スコットランドの山荘の風情である。 内部に入ると、玄関扉にはステンドグラスが設けられ、古河家の家紋、鬼蔦のデザインが見られる。
洋風庭園(バラ園)![]()
日本庭園は洋館、洋式庭園の完成に続いて、大正8年(1919年)に完成。京都の造園家・七代目小川治兵衛の作。斜面の一番底部に位置する池泉回遊式庭園である。シイ、モチノキ、ムクノキ、カエデなどの鬱蒼と茂った樹林のなか、「心」の字を崩した形の心字池を中心に、急勾配を利用した大滝、枯山水を取り入れた枯滝、大きな雪見灯籠などが配されている。
心字池と大滝の間には入母屋造り の茶室が設けられ、茶の湯が開かれた。
(以上、写真を含め、「Wikipedia」より。)
かつて、バラが最盛期の頃に訪れたことがあります。すてきな雰囲気でした。
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「清澄庭園」でも見かけたように、庭園と通り(本郷通り)の狭い空間に建物が建っています。
「造幣局(国立印刷局東京工場)」の前を通ります。![]()
(10:36)その先、通りの右側と真ん中に見えてくるのが「西ヶ原の一里塚」。![]()
江戸日本橋から2里目、本郷追分から1里目にあたります。
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一里塚は、慶長9(1604)年に江戸幕府が全国の主要街道に、一里(およそ3.9キロメートル)ごとに道の両側に塚を築かせ、その上に、主に榎(エノキ)の木を植えさせました。街道を旅する旅人にとって一里塚は、旅の長い道のりの目安となり、駕籠賃の目安にもなりました。木の木陰は、旅する人々の憩いの場所にもなったことでしょう。
西ヶ原一里塚の上にも榎の木が植えられていますが、江戸時代のものは残念ながら枯れてしまい、新たな榎の木が植えられて現在に至っています。
ところで、日光御成道の一里目の一里塚は、中山道との分岐点である「本郷追分」で現在の東京都文京区に、三里目の「稲付一里塚」は東京都北区赤羽西2丁目にありました。「稲付一里塚」は明治中頃まではその跡があり、村の掲示場として官有地だったようですが、明治21年に隣地の所有者に払下げられ現在は残っていません。
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一里塚に建つこの碑は、大正初期に西ケ原の一里塚と榎が東京市電の軌道敷設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長、滝野川町長、地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は。歴史学者で名文家としても知られています。この時保存された榎は年と共に枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。
「二本榎保存之碑」
公爵徳川家達題
府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり
之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく乞梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧片の厄を免れず今存するもの甚少し二本榎は実に其存するものゝ一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び将来土地の繁栄と共に車馬躪落老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵渋沢栄一君最も力を之に尽し篤志者の義損を得て周辺の地を購ひ人家を撤して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし幕府治平を講ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に渋沢男爵両市長町長及び諸有志者の力に頼れり老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん
大正五年六月 文学博士 三上参次撰
阪 正臣書
廣群鶴刻
(裏面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用ゐたるものなり虎の門は慶長年間に始めて築造せられ其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり
(一部原文を現代かな漢字に直しています)
(この項、
HPより)
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左に上記の碑が見えます。
この先、右側一帯の高台が「飛鳥山公園」となります。「飛鳥山公園」の横を上る坂が「六石(ろっこく)坂」
東京府村誌に「長さ二十四間広さ三間元と坂上に租六石を納る水田あり故に云ふ」とある。江戸切絵図には「六コク坂」と記されている。
この道は岩槻街道(旧日光御成道)で、飛鳥山の前へと続いているため花見時などには賑わいをみせた。付近にはこの辺りに鷹狩などに来た将軍の休み場としての御立場もあった。
「造幣局」付近のようす(今昔)。本郷通り(日光御成道)。「一里塚」を挟んだ道が旧道。
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1880年代。 現在。
(10:16)

坂の名は、この辺りに住んでいた中世の武将保坂大炊介にちなんで大炊介坂と呼ばれているが、坂の上の平塚神社にちなんで宮坂とも、樹木に覆われていたので暗闇坂とも呼ばれていた。この道は岩槻街道で、江戸時代には将軍の日光東照宮社参の行列が通ったため日光御成道と呼ばれたが、現在は本郷通りと呼ばれている。この辺りに江戸時代には牡丹園が設けられたこともあった。
左手にあるのが「旧古河(ふるかわ)庭園」。


旧古河庭園
1919年(大正8年)に古河虎之助男爵の邸宅として現在の形(洋館、西洋庭園、日本庭園)に整えられた。現在は国有財産であり、東京都が借り受けて一般公開している。国の名勝に指定されている。東京のバラの名所として親しまれている。
設計:ジョサイア・コンドル
日本庭園:小川治兵衛
明治20年代、政治家・陸奥宗光が当地を購入し別宅とする。明治38年、宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子(2代当主)となったため、古河家に所有が移った。当時の建物は現存しない。
1914年(大正3年)、古河財閥3代目当主の古河虎之助(市兵衛の実子)が周囲の土地を購入し、9,470坪を古河家の本宅用として、整備を開始した。
1917年(大正6年)5月、西洋館と洋風庭園が竣工。洋館と洋式庭園は、イギリス出身の建築家、ジョサイア・コンドル(他に旧岩崎邸洋館、鹿鳴館、ニコライ堂など)により設計監理された。
さらに虎之助により、大正8年(1919年)、日本庭園も竣工し、現在の形となった。日本庭園は近代日本庭園の先駆者・京都の庭匠「植治」こと七代目小川治兵衛(他に京都無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園など)により作庭された。
・・・東京大空襲による被害は建物、庭園ともに免れた。終戦後、1947年、西ヶ原邸は財産税等の物納で国有財産となる。一方、地元東京都や北区からは旧古河家の庭園を公園化してほしいという強い要望が出された。こうした要望に応えて1955年(昭和30年)4月、大蔵省は、東京都に貸し付けることを決定した。こうして、約一年の整備を経て、1956年(昭和31年)4月30日、「旧古河庭園」として都市公園として開園した。
・・・洋館等の建物は、その後約30年間放置された状態で「お化け屋敷」と言われるほど荒廃が進んだ。1981年刊行の北村信正「旧古河庭園」には洋館は「きづたに覆われている」とあり、蔦に覆われた洋館の写真も掲載されている。1982年(昭和57年)に東京都名勝の指定を受けると、それから1989年(平成元年)まで7年をかけた修復工事が行われ、現在の状態まで復元された。
2006年(平成18年)には、大正時代初期の形式をよく留める庭園が評価され、国の名勝に指定された。
武蔵野台地の斜面を巧みに利用した造りとなっており、台地上に洋館を、斜面に洋風庭園、斜面下の低地部に日本庭園が配置されている。
洋館(大谷美術館)


1917年(大正6年)5月竣工。延べ414坪。地上2階・地下1階。外観はスコティッシュ・バロニアル様式を目指したとされる。古河虎之助がコンドルに設計を依頼した時期や経緯は明らかではないが、大正3年頃、洋館の設計がなされている。 屋根はスレート葺き。煉瓦造の躯体を、黒々とした真鶴産の本小松石(安山岩)の野面積みで覆っているのが特徴的である。
南側の庭園から見た外観は、左右対称に近く、両脇に切妻屋根を据え、その間の部分は1階に3連アーチ、2階には高欄をめぐらしたベランダが設けられて、屋根にはドーマー窓を乗せている。全体的に野趣と重厚さにあふれ、スコットランドの山荘の風情である。 内部に入ると、玄関扉にはステンドグラスが設けられ、古河家の家紋、鬼蔦のデザインが見られる。
洋風庭園(バラ園)

日本庭園は洋館、洋式庭園の完成に続いて、大正8年(1919年)に完成。京都の造園家・七代目小川治兵衛の作。斜面の一番底部に位置する池泉回遊式庭園である。シイ、モチノキ、ムクノキ、カエデなどの鬱蒼と茂った樹林のなか、「心」の字を崩した形の心字池を中心に、急勾配を利用した大滝、枯山水を取り入れた枯滝、大きな雪見灯籠などが配されている。
心字池と大滝の間には入母屋造り の茶室が設けられ、茶の湯が開かれた。
(以上、写真を含め、「Wikipedia」より。)
かつて、バラが最盛期の頃に訪れたことがあります。すてきな雰囲気でした。


「清澄庭園」でも見かけたように、庭園と通り(本郷通り)の狭い空間に建物が建っています。
「造幣局(国立印刷局東京工場)」の前を通ります。

(10:36)その先、通りの右側と真ん中に見えてくるのが「西ヶ原の一里塚」。

江戸日本橋から2里目、本郷追分から1里目にあたります。


一里塚は、慶長9(1604)年に江戸幕府が全国の主要街道に、一里(およそ3.9キロメートル)ごとに道の両側に塚を築かせ、その上に、主に榎(エノキ)の木を植えさせました。街道を旅する旅人にとって一里塚は、旅の長い道のりの目安となり、駕籠賃の目安にもなりました。木の木陰は、旅する人々の憩いの場所にもなったことでしょう。
西ヶ原一里塚の上にも榎の木が植えられていますが、江戸時代のものは残念ながら枯れてしまい、新たな榎の木が植えられて現在に至っています。
ところで、日光御成道の一里目の一里塚は、中山道との分岐点である「本郷追分」で現在の東京都文京区に、三里目の「稲付一里塚」は東京都北区赤羽西2丁目にありました。「稲付一里塚」は明治中頃まではその跡があり、村の掲示場として官有地だったようですが、明治21年に隣地の所有者に払下げられ現在は残っていません。

一里塚に建つこの碑は、大正初期に西ケ原の一里塚と榎が東京市電の軌道敷設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長、滝野川町長、地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は。歴史学者で名文家としても知られています。この時保存された榎は年と共に枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。
「二本榎保存之碑」
公爵徳川家達題
府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり
之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく乞梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧片の厄を免れず今存するもの甚少し二本榎は実に其存するものゝ一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び将来土地の繁栄と共に車馬躪落老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵渋沢栄一君最も力を之に尽し篤志者の義損を得て周辺の地を購ひ人家を撤して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし幕府治平を講ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に渋沢男爵両市長町長及び諸有志者の力に頼れり老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん
大正五年六月 文学博士 三上参次撰
阪 正臣書
廣群鶴刻
(裏面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用ゐたるものなり虎の門は慶長年間に始めて築造せられ其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり
(一部原文を現代かな漢字に直しています)
(この項、



左に上記の碑が見えます。
この先、右側一帯の高台が「飛鳥山公園」となります。「飛鳥山公園」の横を上る坂が「六石(ろっこく)坂」
東京府村誌に「長さ二十四間広さ三間元と坂上に租六石を納る水田あり故に云ふ」とある。江戸切絵図には「六コク坂」と記されている。
この道は岩槻街道(旧日光御成道)で、飛鳥山の前へと続いているため花見時などには賑わいをみせた。付近にはこの辺りに鷹狩などに来た将軍の休み場としての御立場もあった。
「造幣局」付近のようす(今昔)。本郷通り(日光御成道)。「一里塚」を挟んだ道が旧道。




1880年代。 現在。