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Channel: おやじのつぶやき
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本郷追分~岩淵宿~川口宿~鳩ヶ谷宿。その4。(「日光御成道」第1日目)

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右手の高台・飛鳥山公園にこんな建物があったのは知りませんでした。



                          

旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)
 飛鳥山公園の南側一帯には、日本の近代経済社会の基礎を築いた、渋沢栄一の自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが、旧邸の庭園であった所は「旧渋沢庭園」として公開されています。
 渋沢栄一は明治34年から昭和6年に亡くなるまでの30年余りをこの自邸で過ごしました。邸内には和館と洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれらの建物は昭和20年の空襲で焼失してしまい、大正6年竣工の「晩香廬」と大正14年竣工の「青淵文庫」、この二棟の建物のみ「旧渋沢庭園」内に現存しています。・・・



「飛鳥山公園」。

通りの向こうに銭湯。まだまだ頑張っています。

(10:48)「飛鳥山3つの博物館」。

  の3つです。

都内唯一の路面電車「荒川線」。

      
飛鳥大坂(あすかおおさか)
 いまはきわめてゆるやかな勾配だが、「東京府村誌」には「飛鳥山坂、木村(滝野川村)にあり、飛鳥橋の方に下る。長さ一町十二間三尺、広さ三間、坂勢急なり」と記されているように都内でも有数な難所であり、荷車の後押しで手間賃をかせぐ人もいた。昔は将軍家の、日光御社参の行列もここを通った。
  飛鳥山花見てかえるをとめらが
    道のみ坂をゆきなづみたり
                 太田水穂

 王子駅東口に向かってから急カーブで下る坂道で、都電荒川線が中央を走っています。

JR側から坂を望む。右下が「飛鳥山公園」。

                              

 王子の坂「明治通り」を下り、JR線をいったん越えてから戻り気味に「明治通り」の反対側に出ます。さらに、線路沿いに進み、江戸時代の旧道に復帰します。この付近の「石神井川」の治水事業の関係で流路変更があり、わかりにくくなっています。


1880年代のようす。←が「日光御成道(岩槻街道)」。蛇行する川は「石神井川」。



現在のようす。左下が「飛鳥山公園」。その上が「王子神社」。

 「石神井川」は金沢橋付近(埼京線の上流約200m)から音無橋にかけて音無渓谷と呼ばれる深い谷となっていました。現在、渓谷部分はほとんどがコンクリートの垂直護岸となっていて、屈曲部の直線化や飛鳥山隧道建設などの改修によって流路も大きく変わっています。

現在の「石神井川」。

               

(11:05)「三本杉橋」親柱。

この付近の坂が「権現坂(ごんげんざか)」。
 飛鳥大坂を下った交差点から王子神社の鳥居付近まで登っていく坂道。権現という坂の名称は、王子権現社の権現から採った名前ですが、これは、神仏分離以前の王子神社が王子権現と呼ばれていた点に由来しています。坂の下の交差点付近は江戸幕府の将軍が日光東照宮に参拝するための日光御成道の路上にあたり、ここは、三本杉橋という橋も架かっていました。三本杉橋は橋の袂に三本の杉があったのでつけられた名称といわれています。

 旧「三本杉橋」を右折すると、けっこうな坂道に。
王子大坂(おうじおおさか)
 飛鳥山に沿って東におりた岩槻街道は、石神井川を渡って左に曲がり、現在の森下通りを抜け、三本杉橋の石の親柱のところから北西に台地を登る。この坂が王子大坂である。登り口に子育地蔵があったので地蔵坂とも呼ばれ、昔は縁日でにぎわった。
坂の途中から振り返る。

坂上から王子駅方向を望む。

(11:12)飛鳥山付近で離れた「本郷通り」と再び合流します。

 しばらく進むと、かつて歩いたことがある交差点(「区立十条台小学校前」)にさしかかりました。
 「JR・東十条駅~王子駅周辺の鉄道遺跡+今も残るかつての軍事施設(建物)巡り」で通ったところです。
東側を望む。JR線方向。

西側を望む。自衛隊施設方向。

以下、そのときの記事を一部再録します。

 明治時代から昭和にかけて、北区とその周辺には、陸軍の関連施設が数多く点在していました。その当時、これらの施設は、物資や人間を運搬するための軍用鉄道と呼ばれる専用軌道で結ばれていました。この辺りでは、板橋、十条の火薬製造工場と王子の火薬製造工場を結ぶ軍用電車が、チンチンと鐘の音を鳴らしながら、盛土の上を走っていたそうです。そのため、付近の住民は、この盛土を俗に「ちんちん山」という愛称で呼んでいました。かつて、この場所には、ちんちん山の下をくぐる石積みのトンネルがありました。このトンネルの上部には、3個のだんごを三角形の形に並べ、その上に、もう1つだんごを乗せたような珍しいマーク(当時の東京砲兵工廠のマーク)が刻まれていました。現在、このマークを含め、トンネルの石積みの一部が園内でモニュメントとして使われています。

トンネルの石積みのモニュメント。
上部に「東京砲兵工廠」のマーク。

 現在も、当時も、本郷台地上の軍施設と石神井川と隅田川との合流付近の軍施設とは相当の高低差がある。「銃砲製造所・現自衛隊施設」等の標高は、約20㍍、B地点(火薬製造所・現民間倉庫)の標高は約2㍍。この高低差を通していたのだから盛り土も高さがあったものとも思われる。地図上でもかなり長い盛り土の上を通っていたことが分かる。

(「今昔マップ」より)
20㍍→12㍍の高低差(台地直下との差)→5㍍→2㍍。○の三角点には、27.5㍍との表示(現・十条台小学校の南)。鉄道はその北側を進んでいった。

現在、十条駅前からの道路(南に進むと「本郷通り」となる)からJR線を越えて「北本通り」に通じる道路は高架橋になっている(軍用鉄道は、もともとはこの高架道路の下にあり、トンネルと盛り土で結んでいた)。東に向かって急な下り坂になっている。

鉄道が通っていた道路から西を望む。けっこう深いトンネルになっている。上部は、見上げるような高さ。「南大橋」と二重構造になっている「南橋トンネル」。

(11:18)旧道はこの先で「本郷通り」から分かれて直進します。

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