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Channel: おやじのつぶやき
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本郷追分~岩淵宿~川口宿~鳩ヶ谷宿。その2。(「日光御成道」第1日目)

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                                「岩槻街道」という標識。

案内図の左から右に進んで行きます。

福田繁雄「夢エンピツ」。
 講談社フェーマススクールズ(KFS)は、1967年に講談社創業60周年記念事業の一環として発足した、美術の総合通信教育スクール。ビジュアルで示すテキスト、DVDビデオ添削指導などの世界でも他に類をみない通信教育システムで広く知られていましたが、2014年10月より、新規受講生の募集を行っておりません。

ひっそりとしたたたずまいを残す地域。

(9:54)左手には、「六義園」。

 六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園である。1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を現出させた。
 「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来する。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、紀州の和歌浦を中心とした美しい歌枕の風景を写して、庭園を造ろうと思い立った。その設計は柳沢本人によるものと伝えられている。
 1702年(元禄15年)に庭園と下屋敷が一通り完成すると、以後将軍綱吉のお成りが頻繁に行われるようになる。その回数は記録されているものだけでも実に58回もあり、吉保の寵臣ぶりもさることながら、この庭園自体が当時にあっても天下一品のものと評価されていたことが窺える。
 甲斐国・甲府藩主であった柳沢家は、吉保子息の吉里期の享保9年(1724年)に大和郡山に転封となるが、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで使用された。時代が下るにつれ徐々に荒れはしたものの、江戸を襲った度々の火災で類焼することもなく明治を迎えた。
 明治の初年には三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園に整備が施され、このとき周囲が今日見る赤煉瓦の塀で囲まれた。その後は関東大震災による被害もほとんど受けず、1938年(昭和13年)には東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになった(有料)。東京大空襲の被害を受けることもなく、造園時の面影を残したまま今日に生き延びた六義園は、1953年(昭和28年)に特別名勝に指定されている。

                                  (以上「Wikipedia」による。)


「六義園案内板」。

 上記にある赤煉瓦の塀。
 
レンガを使用した外周塀
 江戸時代中期に作庭された文化財庭園に、幕末以降にもたらされた技術を用いたレンガが使われている理由には、この文化財庭園の歴史的な変遷が大きく関わっています。
 江戸時代当時の柳沢家の屋敷範囲と、明治年間以降の岩崎家の敷地とは、文化財庭園として指定された現在の六義園の範囲よりも東西南北にそれぞれ広がっていました。指定文化財範囲から外れた、これらの土地では、日露戦争の祝勝会が開催され、第二次大戦当時には児童向けの科学館なども置かれていました。従って、改修前のレンガ塀は、第二次大戦後に、国指定の文化財として整備される前後の時期に、管理用に構築されたものであり、岩崎家所有当時の外周塀ではありません。しかしながら、柳沢家から岩崎家、そして東京市(府)から東京都へと、所有者や管理者が移り変わってゆく中で、岩崎家が所有していた湯島や本所などの屋敷でも採り入れられた、洋風の意匠であるレンガ塀も、歴史的な変遷を物語る貴重な文化財といえます。

 なお、文京区の公式HPでは、『詩経』の六義(りくぎ)から園名が名付けられている、とされています。『詩経』大序にみえる中国古代詩の6分類「風」「賦」「比」「興」「雅」「頌」をさし、紀貫之が『古今集』真名序に、これを引用して「和歌に六義あり」としているわけです。
 上記「Wikipedia」よりも文京区HPの方がより正確な解説だと思いますが。歌枕云々も?

 (10:02)JR駒込駅を過ぎると、すぐ右手に「染井吉野桜公園」があります。
「染井吉野櫻發祥之里 駒込」。
 駒込の一部は江戸時代染井と呼ばれ、巣鴨とともに花卉・植木の一大生産地であった。
 この地で江戸時代以後数多くの優れた園芸品種が誕生したが、なかでもソメイヨシノは、当地の地名から名付けられ、世界を代表する桜の品種となった。
 左の絵は、植木屋の第一人者、染井の伊藤伊兵衛の庭で花を愛でている様子である。

      今はすっかり冬模様。

「駒込橋」の旧親柱。

「駒込妙義坂子育地蔵尊」碑。

(10:07)立派な銭湯の伽藍「亀の湯」。

「霜降橋」交差点にある「しもふり橋商店街」。

かつてこの付近を探索したことがあります。そのときの記事。

江戸時代の西ヶ原のようす。(「霜降銀座栄会」HPより)
 a地点が西北の石神井川からの流れ(途中で消えている)。bが「谷田川」。c地点が水源の一つ。右下(東南)がのちの染井霊園。もう少し西南・巣鴨方向から流れてきた川が存在している。d地点が現「霜降橋」交差点。駒込からの「妙義坂」下。中央の道は「本郷通り(日光御成街道・岩槻街道)」。
 e地点に「植木屋多し」とある。ソメイヨシノ発祥の地か? 
 染井霊園北(また、巣鴨付近)から流れ出た「谷田川」と石神井川から切り離された川とは、直接、合流せず、水田地帯を細々と流れて、谷田川に注いでいたのかもしれない。現在、その痕跡は全く分からなくなっている。
 こうして、何となくかつての「谷田川」のようすと現状が垣間見ることができました。「谷田川」(その後の暗渠となったとそこで営まれたその地域の人々の「面影」を彷彿とさせます。こうして現代を歩きながら往時を偲ぶのも、また一興。
「霜降銀座栄会」。この商店街がかつての「谷田川」。

かつての長屋風の商屋。

「ことぶき地蔵堂跡」解説板。平成27年(2015)に解体された、とか。

 この先、「旧古河庭園」脇の坂にさしかかります。 

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