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平塚宿。お菊塚。平塚の里歌碑。・・・(茅ヶ崎から平塚まで。その3。)

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 旧東海道は「平塚駅前」の交差点を過ぎると、平塚宿の核心部へ入っていきます。


 その前に、ちょっと寄り道。

「お菊塚」。「紅谷町公園」の一画にある。

説明板。

 番町皿屋敷・お菊塚

 伝承によると、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習のため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことがあって菊女を切り殺したという。一説によると、旗本青山主膳の家来が菊女を見初めたが、菊女がいうことをきかないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手打ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。
 この事件は元文五年(1740)二月の出来事であったといい、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材になったという。また他の話による菊女はきりょうが良く小町と呼ばれていたが、 二十四才のとき江戸で殺されたといわれている。屍骸は長持ち詰めとなって馬入の渡し場で父親に引き渡された。この時父親真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と言って絶句したという。源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。
 昭和二十七年秋、戦災復興の区画整理移転により現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。
 平塚市観光協会

お彼岸で香華が手向けてあった。小さな公園ですべり台がぽつんとある、その脇にあった。

「平塚宿の江戸見付跡」碑(「市民プラザ」前)。

説明板。


 平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。
 本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。また、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。
 平塚宿の見附は二箇所。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約1.5Km)、東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町の五町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二箇所、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して二百軒を超える町並みが続きました。
 一般に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。
 平塚宿江戸見附は、長さ約3.6?、幅約1.5?、高さ約1.6?の石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見つけは東西に少しずれた形で設置されていました。
 平成十三年(2001)十月 平塚市



「平塚宿史跡絵地図」。

平塚宿

 最盛期には、二千人もの人口と五四軒の旅籠屋を抱えた宿。
 平塚は古くより、東海道から八王子道などの分岐点で、相模各地からの物資や人の交流が盛んで、交通の要所として栄えた。女性や足の弱い者は、江戸からの第二夜を平塚泊まりとした。
 平塚見附先の街道沿いに、脇本陣跡 、高札場跡、東組問屋場跡、本陣跡、西組問屋場跡の標柱と説明板が次々と立っている。 

 現在の駅前付近の賑やかさを少し過ぎた西辺りが、かつての宿場の中心街。

 また、平塚市一帯は1945(昭和20)年7月16日(終戦のわずか1ヶ月前)に米軍機の空襲を受け、ほぼ壊滅的状態になってしまった。その後の区画整理等でかつての遺跡はほとんど残ってはいない。「・・・跡」の碑が当時を物語るのみである。

※平塚空襲
 太平洋戦争末期、アメリカ軍が神奈川県平塚市、中郡大野町(現在は平塚市に編入)に対して行った空襲。
 当時、この地域には平塚市〜大野町にかけての広大な土地に海軍火薬廠(現在の横浜ゴム平塚製造所)があったほか、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場(現在の平塚競輪場周辺)、第二海軍航空廠補給部平塚補給工場(現在のJT平塚工場周辺)、日本国際航空工業(現在の日産車体本社工場・第一地区周辺)などの戦争遂行に不可欠な軍需工場が多く存在していた。
 アメリカ軍はこれらを破壊すべく空襲の主要目標都市として平塚をリストアップしていた。平塚空襲とは一般的に1945年7月16日から17日日にかけて行われた攻撃をさす場合が多いが、同年2月16〜17日、7月30日にも空襲があり死傷者が出ている。
 7月16日夜、マリアナ基地を発進したB29爆撃機138機の編隊が伊豆半島方面より侵入。花水川河口へ照明弾が投下される。その後、22時30分の空襲警報発令と同時に焼夷弾が投下され始める。大磯駅周辺や高麗山、相模川対岸の茅ヶ崎など旧市の外周部より投下が始まり、次第に第二海軍火薬廠などのある旧市中心部へと攻撃が移る。空襲は翌17日午前0時35分まで続いた。
 死者数は調査により異なり228名(米国戦略爆撃調査団報告)、237名(神奈川県警調べ)、343人(平塚市調査)などの数字がある。当時の市域10,419戸中の約8,000戸が消失した。投下された焼夷弾447,716本、1,173トンは一夜に投下された量としては八王子空襲に次ぎ国内2番目の多さと言われる。(以上、「Wipedia」より)

 ただ、軍事施設があったため、というよりも、米軍の本土上陸地点として先制的に空襲を行った、という説もある。

写真は、「Wikipedia」より。

 しばらく進むと、

「平塚の里歌碑」(「平塚市民センター」内・中庭)。

歌碑。

 平塚にて
  あわれてふ たが世のしるし 朽ちはてて かたみもみえぬ 平塚の里
  このひらつかのかたへにて そのかみ三浦遠江入道定可 世を遁れてみまかりしと いひつたふばかりにて しれる  もの なかりけり
 ・・・ 

 この歌は、太田道灌の作とされる紀行文「平安紀行」に載るもので文明12年(1480年)6月、太田道灌が京都への道すがら平塚に来たときに詠んだ歌とされています。
 平塚へ来た道灌は、その昔、この地に三浦遠江入道定可という人物が隠棲していたことを思い起こしました。しかし、誰ひとりその遺跡を知る者がいなかったことを哀れみ、「哀れてふ たが世のしるし 朽ちはてて かたみもみえぬ 平塚の里」と詠みました。
 なお、三浦遠江入道定可とは平塚に居を構え、平塚氏を名乗った三浦為高のことと考えられます。(平成26年 平塚市民センター改訂)

「江戸城の井戸枠」。

 さらに西へ進む。静かで落ち着いた街並みになっていく。

 

「平塚宿脇本陣跡」碑。

 江戸時代、それぞれの宿場には幕府公用人や大名を泊める宿舎として本陣が設けられていました。この本陣の補助的な役目をしたのが、脇本陣です。脇本陣には、その宿場の中で本陣に次ぐ有力者が経営しましたが、屋敷地や建物の大きさは本陣に及びませんでした。また、脇本陣は本陣と違って、平常時は一般の旅籠としての営業も可能でした。平塚宿の脇本陣は、享和年間(1801〜03)頃の宿場の様子を描いた「東海道分間延絵図」には、西組問屋場より西に描かれていますが、天保年間(1830〜44)には二十四軒町の北側のこの地に山本安兵衛が営んでいました。

「平塚宿脇本陣高札場」蹟 。

 高札とは、切支丹禁制や徒党の禁止など、幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札です。その高札を掲示した場所が高札場で、各宿場や村々に設けられていました。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んで、高札が掲げられる部分には屋根がついていたといいます。平塚宿の高札場は、二十四軒町のこの地にあり、規模は長さ二間半(約5メートル)、横一間(約1.8メートル)、高さ一丈一尺(約3メートル)でした。平塚宿には、平塚宿から藤沢宿、あるいは大磯宿までの公定運賃を定めたものの高札なども掲げられていました。

 道路をはさんだほぼ反対側に「東組問屋場跡」碑がある。


本陣。問屋場。平塚の由来。京方見附。・・・(茅ヶ崎から平塚まで。その4。)

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 商店も少なくなった東海道本通りを西に進みます。

「平塚宿本陣旧跡」碑。

「平塚宿本陣旧蹟」碑。

海道宿駅の高級旅館で 徳川幕府の許可と補助を受けて設備を充実していたものを本陣といい これに次ぐものを脇本陣と呼んだ
東海道平塚宿の本陣は 代々加藤七郎兵衛と称し 現在の平塚2104番地 神奈川相互銀行支店所在地に南面して建っていた 総槻造 間口約30米奥行約68米、東に寄って門と玄関があり 天皇や将軍大名などの御在所は上段の間であったという。
記録によると、徳川十四代将軍家茂は文久三年二月 元治二年五月の二回ここに休憩している また明治元年十月と同二年三月の両度、明治天皇は東京行幸と遷都に際してここに小休された 
 このたび、平塚支店改築にあたり、旧跡碑を建てて、永く記念とする
昭和四十七年の秋
神奈川相互銀行取締役社長半田 剛撰


信用金庫の支店名は「本宿」。こういうところにもこだわりを感じる。

消防団の建物脇にある「平塚宿問屋場跡」。ここは西組の「問屋場」。

説明板。

 慶長六年(1601)東海道の交通を円滑にするため伝馬の制度が布かれた。この伝馬の継立するところを問屋場といい、問屋場には、問屋主人・名主・年寄・年寄見習・帳附・帳附見習・問屋代迎番・人足指・馬指などの宿役人等が10余人以上勤務していた。
 平塚宿では初め、ここに問屋場が置かれたが、寛永一二年(1635)参勤交代が行なわれるようになってから、東海道の交通量は激増した。伝馬負担に堪えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出で、慶安四年(1651)その目的を達した。八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平塚宿に問屋場を新設した。これにより従来からの問屋場を「西組問屋場」といい、八幡新宿の経営する問屋場を「東組問屋場」といった。
 この両問屋場は十日目交替で執務したという。

消防団の建物を右折した先、「要法寺」の左隣にあるのが「平塚の塚」。
 



平塚の塚由来
 江戸時代の天保十一年に幕府によって編纂された『新編相模国風土記稿』の中に里人の言い伝えとして、「昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向う旅をした折、天安元年(857)二月この地で逝去した。棺はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。その塚の上が平らになったので里人はそれを『ひらつか』と呼んできた。」という一節があり、これが平塚という地名の起こりとなりました。この事から平塚の歴史の古さが伝わります。
 平塚市

「平塚の塚」。右側の囲い部分。

(以下「Wikipedia」による)

《伝承》
 新編相模国風土記稿、或いは当地の伝承によると桓武天皇三世の孫、高見王の娘である平真砂子(眞砂子、政子との表記もある。)が都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で長旅の疲れからか急な病を得て亡くなった。
 土地の人々は幸薄い都の高貴な姫の死を悼み、遺体を里外れの松の大木の根元にねんごろに葬り、塚を築いて弔った。時を経ていつしかその塚は風化して平たくなり、周辺の地域は「平塚」と呼ばれるようになったとされる。
 真砂子は高見王の子で桓武平氏の祖といわれる高望王の妹、平国香(平氏嫡流、平清盛の祖) 平良将(平将門の父) 平良文(坂東八平氏の祖)等の叔母に当たる。故に「平氏の姫の墓(塚)」がある、ということで「平塚」となったとする説もある。
 高望王は寛平元年(889年)宇多天皇の命により平姓を賜って臣籍に降り、平高望を名乗った。その後、昌泰元年(898年)上総介に任じられた。当時上級地方官に任命された者は任地には赴かない遥任が多かったが、高望は子の国香等を伴って実際に上総に受領として赴任し、その子孫は東国に勢力を伸ばしていった。
 平塚の塚の左側には平塚市長戸川貞雄揮毫による由来碑(昭和32年 1100年祭に際し建立)と共に大正9年、神奈川県知事有吉忠一撰文、徳川頼倫題額揮毫の「平塚碑」が建てられ、その銘文に「桓武天皇孫高見王之女政子(原文のまま)下東國天安元年(857年)二月二十五日薨因葬墳此塚也」との記述がある。(併設されている平塚市設置の説明板も同様の記述である。)当地の伝承が事実とするならば、真砂子は兄高望が上総介として下向する41年も前に東国へ下り、当地で亡くなった事になる。

《現況》
 平塚の塚とされる場所は旧東海道平塚宿の一隅、現在の平塚市平塚四丁目、日蓮宗要法寺の西隣である。現在は石造りの囲いに囲まれた高さ1mほどの塚が築かれ、傍らに真砂子が葬られて以来三代目とされる松の巨木が植えられている。周辺は平塚市により「平塚の塚緑地」という公園として整備されている



 正面の道が旧東海道の本来の道。しばらく西に向かう細い住宅地の中の道を「高麗山」の方向へ歩く。

左に少し見えるのが「高麗山」。

振り返る。



 「平塚の郊外を流るる花水川に架せる花水橋の此方(こなた)より高麗山及び富士の遠景を眺めたる光景」と『東海道』(大正7年刊行,保永堂版『東海道五十三次』と当時の現状写真を対照した図書)にある。左側中景に小さく見えるのが花水橋である。写真で見る高麗山は,図のように左右非対称で(左側がゆるく右側がやや急な)こんもりと趣のある形ではなく,はるかにゆるくほぼ均一な弧を描いている。道も,図のように雁木状ではなくほぼ真っすぐである。もし,実景により近く描いているとしたら,はるかに平板な絵になっていたに違いない。
『浮世絵を読む5広重』(平成10年)
(「東海道五十三次〜五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)


この先で合流する広い道が国道1号線。「高麗山」も指呼の間。

通りの向こうに見える「高麗山」。ここまで眼前に山が登場しなかったせいか、視界が開けると同時に、独特の山容が目を引く。

「平塚宿 京方見附跡」説明板。

 東海道五十三次の宿場として栄えた平塚宿の家並みは、空襲やその後の区画整理により、往時を偲ぶ面影が残っていません。宿場の西の入口であった京方見附の場所も定かではなくなりましたが、先人たちの言い伝えや歴史資料等によりこの辺りにあったものと思われます。
 初代広重によって描かれた東海道五十三次平塚宿の錦絵もこの付近からの眺めのものと思われ、変わらぬ高麗(こま)山の姿に往時の風情が偲ばれます。建設省(注:当時。現・国土交通省)等の東海道ルネッサンス事業の一環として、既設の碑石周辺を再整備しました。
平成十三年(二〇〇一年)三月 平塚市


「従是東 東海道平塚宿」碑。

「東海道五三次平塚京方見付跡」碑(左側)。

                       


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「花水橋」付近。左手の山が「高麗山」。

 「花水橋」を渡って大磯の町なかに入ります。

化粧坂。「大磯虎ケ雨」。松並木。江戸方見附。・・・(平塚から二宮まで。その1。)

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 このあいだ、台風が来る前にでかけました。平塚・花水橋からスタート。高麗山が印象的。JR「平塚」〜「二宮」。

「平成の一里塚」。橋のたもとに設置されている。あちこち作られているわけでなく、ここだけの感じ。紛らわしくなってしまいそうだが、そういえば「茅ヶ崎」にもありました。ただし、もともとあった一里塚跡のほぼ反対側の交差点に。

左手の山が「高麗山」。その山麓にあるのが「高来神社」。明治の廃仏毀釈で神社として成立。音では「こうらい」だが、読みは「たかく」と。

日本橋から66?。

国道1号沿いに残された藁葺き屋根の家。
小さなお堂。「虚空蔵」。
 説明板によると、虚空蔵のお堂があり(現存)、ここに下馬標が立っていて、大名行列もここで下馬し東照権現の併祀された高麗寺(神仏混淆の頃)に最敬礼して静かに寺領内を通った、という。
また「御料傍示杭」があり、高麗寺村と大磯宿との境を示す高さ約三?の杭があったらしい。

右に入る道が「化粧(けわい)坂」。こちらが、旧東海道。

 
 「化粧坂」の両側は、静かな住宅地で、生活道路になっている。車の行き来の激しい1号線とは大違い。

 まもなく左側に「化粧井戸」。

  

 「説明板」

 「化粧」については、高来神社との関係も考えられるが、伝説によると鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近にあった。当時の大磯の代表的女性「虎御前」もこの近くに住み、朝な夕なこの井戸水を汲んで化粧をしたのでこの名がついたといわれている。

「一里塚」跡。
江戸日本橋より十六里。海側に榎を山側にせんだんを植えた、という。

海側(左手」が小高くなっていたので、行ってみたが特になし。そこから街道を見おろす。

「安藤広重・東海道五拾三次之内・大磯『虎ケ雨』」。

説明板。

 本図は初代歌川広重が天保4年(1883)頃に制作した浮世絵『東海道五三次大磯虎が雨』です。
 空は鼠色に曇って秋雨が降る仲、大磯宿堺の榜示杭が建つ入口近くを合羽を被って馬ので行く旅人や野良仕事帰りのお百姓さん、傘を差した町人など、街道も濡れて寂げです。 画面左の稲作を杭掛けして干している田んぼの先は海岸とで磯の松、その向こうに広がる相模灘。
 水平線近くの沖合が白く明るく見えるのも、海岸でよく見る風景です。
 大磯の海岸は、「万葉集」にも詠われた「よろぎの浜」、「古今集」でも、「こゆるぎの磯」とよばれる歌枕の景勝地です。また、この辺りは鴫立浜とも呼ばれ、西行法師の歌「心なき身にもあはれは知られけり鴫立浜の秋の夕暮」は「三夕の和歌」の一つとして有名です。
 また、大磯は歌舞伎で正月の吉例狂言といわれる、曾我十郎と大磯の廓の遊女・虎(虎御前)が、仇討のため二人が別れ、仇討ちの果てに陰暦五月二十八日、曾我十郎が命を落とした悲恋物語の曾我之狂言でよく知られ、虎御前の流した涙が雨になったといい、そこから梅雨時のしとしとと降る雨を「虎ヶ雨」とも呼ばれます。いうのである。このお話の真偽は不明ですが、この土地に由縁する伝説の情趣でしょう。
 画題横に『虎が雨」とあるように、そぼ降る雨を涙雨に見立てています。



 大磯では5月28日に虎御前の涙雨が降ると云われているそうだ。
 子供の頃、曾我兄弟の仇討ちの話はよく見たり聞いたりしたことがありました。富士の裾野巻き狩りの場面など、絵本のようにしてあった・・・。
 今の若者は知らないでしょうね。

 曾我兄弟の仇討ち

 建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。武士社会において仇討ちの模範とされていたことが窺える。

 所領争いのことで、工藤祐経は叔父・伊東祐親に恨みを抱いていた。安元2年(1176年)10月、祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎に狩に出た祐親を待ち伏せさせた。2人の刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。刺客2人は暗殺実行後すぐに伊東方の追討により殺されている。
 祐泰の妻の満江御前(満行とも。なお『吾妻鑑』にも『曽我物語』にも名は表記されていない)とその子・一萬丸と箱王丸(筥王丸)が残された。満江御前は曾我祐信と再婚。一萬丸と箱王丸は曾我の里で成長した。兄弟は雁の群れに亡き父を慕ったと伝えられる。

 その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ自害した。一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となった。
 祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗った。弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられた。
 文治3年(1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、箱王丸は随参した敵の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付け狙うが、敵を討つどころか逆に祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられる(のちに五郎時致は、この「赤木柄の短刀」で工藤祐経に止めをさした)。
 箱王丸は出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が祐親の娘だった)、烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致となった。時政は曾我兄弟の最大の後援者となる。苦難の中で、曾我兄弟は父の仇討ちを決して忘れなかった。
 建久4年(1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催した。巻狩には工藤祐経も参加していた。最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入った。兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれた。弟の時致は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられた。
 翌5月29日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べる。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡す。時致は従容と斬られた。

 この事件の直後、しばらくの間鎌倉では頼朝の消息を確認することができなかった。頼朝の安否を心配する妻政子に対して巻狩に参加せず鎌倉に残っていた弟源範頼が「範頼が控えておりますので(ご安心ください)」と見舞いの言葉を送った。この言質が謀反の疑いと取られ範頼は伊豆修善寺に幽閉され、のちに自害したと伝えられている。

 工藤祐経を討った後で、曾我兄弟は頼朝の宿所を襲おうとしており、謎であるとされてきた。そこで、兄弟の後援者であった北条時政が黒幕となって頼朝を亡き者にしようとした暗殺未遂事件でもあったという説がある。

 この事件は後に『曽我物語』としてまとめられ、江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得た。(以上、「Wikipedia」より)

「大磯八景の一 化粧坂の夜雨〕の碑。

 雨の夜は 静けかりけり 化粧坂 松の雫の 音ばかりして 敬之

《大磯八景》
 大磯八景は、明治40年頃、大磯町第5代町長・宮代謙吉が大磯の名所八景を選んで絵葉書として出版したのが始まりです。
 その後、大正12年に大磯小学校第二代校長・朝倉敬之が自作の歌を刻んだ記念碑をそれぞれ八景の位置に建立しました。
 現在は、「小淘綾(こよろぎ)の春嵐」を除く「高麗寺の晩鐘」「花水橋の夕照」「唐ヶ原(もろこしがはら)の落雁」「化粧坂の夜雨」「鴨立沢の秋月」「照ヶ崎の帰帆」「富士山の暮雪」の7景が現地に残っています。「歴史と緑の散歩路パンフレットより」

化粧坂を振り返る。
 
小休止。


 東海道線をくぐります。
 

 
 「大磯江戸見付跡」「御料傍示杭」。

 ここが、江戸方の宿入口となっていた。石垣(高さ約1.6m)の上に竹矢来を組む。「御料傍示杭」は、大磯宿北組のはずれを示すもの。
 
 松並木が地域とマッチしてすばらしい。
 

小島本陣旧蹟。新島襄終焉の地。照ヶ崎海岸。・・・(平塚から二宮まで。その2。)

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 今日は、台風直撃で大荒れの天気。午前中の東京地方。雨風が激しくなりました。
 この地域もさぞかし・・・。先日の探訪記を続けます。

 旧東海道の道に沿って建てられている住宅。松並木を借景として、なかなか趣ある静かな街並みになっています。

 

 「国道1号線」と再び合流する、旧東海道・松並木の西のはずれ近くのお魚屋さん。お昼前、大勢のお客さんで賑わっていました。

 
 「魚金」。店先には、地元の新鮮な魚の干物がずらり。

「東海道」。

 現東海道に合流してしばらく進むと、「大磯駅入口」交差点。その先の左側にあるのが「延台寺」。

中央左の奥。
 元は「法虎庵」と称した虎御前の草庵。寺には曾我十郎の「身代わり石」とされる「虎御石」がある、とか。

「北組問屋場」跡。

 
 「大磯宿小島本陣旧蹟」碑。
 大磯宿には本陣が三ヶ所(小島本陣、尾上本陣、石井本陣)あり、脇本陣はなかった。
 この「小島本陣」は、明治元年(1868年)10月9日、明治天皇の東京遷都にあたり、宿泊所になった、という。

説明板。
 大磯では、「東海道分間延絵図(寛永年間)と現在の図を重ね合わせた説明板が随所に立てられている。

その説明板がある「そば処 古伊勢屋」の古風な雰囲気。。

  
 「地福寺」境内にある「島崎藤村の墓」。梅の古木の下にあり、その左隣には静子夫人の墓。

「尾上本陣」跡。
 後に「大磯小学校」の旧敷地にもなった。

旅館「大内館」。左手奥に「土蔵造り」の建物が見える。
 「本陣」の一つ、「石井本陣」は、現在の「大内館」にあった、という。

 「杵新」。
 「大磯名物 西行まんぢゅう 虎子まんぢゅう」とあった。

日本橋まで68?。
 東海道を挟んで緑の地が「新島襄終焉の地」。旧東海道はその裏の道を通る。

 



 明治の先覚的教育者新島襄は、1843年2月12日(天保14年1月14日)江戸神田の安中藩邸内で、藩主新島民治の長男として生まれた。
 その当時は、近代日本の黎明期に当り、新島襄は憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて1864年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り、苦学10年キリスト教主義教育による人民教化の大事業に献身する決意を抱いて1874年(明治7年)帰国、多くの困難を克服して、1875年(明治8年)11月29日京都に同志社英学校を設立した。
 その後宿願であった同志社大学設立を企画して東奔西走中、病にかかり、1890年(明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地百足屋旅館で志半ばにして47歳の生涯を閉じた。

 徳富蘇峰の筆による碑が、かつての百足屋の玄関だったところに門下生によって建てられた。

 その裏手(旧東海道沿い)には「南組問屋場」跡の説明板。



 角のところに大きな碑。
 
 「大磯照ヶ崎海水浴場」。旧東海道から左手に進む。

 海岸への道の途中には、

「原敬 大磯別荘」跡。



 「西湘バイパス」の下の歩道橋の向こうには海岸が広がる。間近に海を見るのは、今回が初めて。かつての「旧東海道」は、品川、横浜付近など東京湾沿いの道、海岸線に沿っていたが、今は、海は望むべくもなくなった。ここに来てやっと、という感じ。正面は「大磯港」。



 左手に「照ヶ崎海岸」が広がる。


 照ヶ崎海岸
 明治18年(1885年)に初代海軍軍医総監・松本順の尽力により、東日本最初の海水浴場として開設された。
 

大磯港。「松本順謝恩碑」。鴫立庵。・・・(平塚から二宮まで。その3。)

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 「照ヶ崎海岸」。シーズンオフで静かな海辺。バーベキュー一組と老父婦らしき一組くらい。大磯港の防波堤では釣り人が釣りを楽しんでいる。

 

「大磯港」防波堤より平塚方向を望む。

「高麗山」に続く大磯の山並みを望む。

江ノ島(↓)を望む。

 「松本先生謝恩碑」(犬養毅 題)。

「海水浴場発祥の地」

 明治18年天与の自然に恵まれた大磯照ヶ崎海岸に日本で最初に海水浴場を開いた軍医総監 松本順先生は国民の健康増進と体力の向上をはかるため 海水浴が良いと説き その頃の有名な歌舞伎役者を大勢連れて来て祷龍館に泊まらせ海水浴をさせて 大磯町の名を日本中に広めました 昭和59年6月24日
 親しまれて百年 逢いに来て 大磯の夏

 
「祷龍館繁栄の図」。                       「明治中期から後期の海水浴場」。

(以上、HPより)


 1885年(明治18年)初代軍医総監だった松本順氏は、日本人の健康を高めるために西洋で流行っていた「海水浴」を日本に取り入れました。
 当時の海水浴は、潮流で身体に刺激を与え、海辺の清涼な空気を吸うことで、「泳ぐ」というのではなく、岩の所々に差してある鉄棒につかまって「海水につかっている」だけだったそうです。
 海水浴の始まりは、治療のためでした。心身共にリフレッシュできる海水浴。開放感溢れる海で、夏を満喫してみてはいかがでしょうか。


(以上、HPより)
 
 ところが、倉敷市のHPでは「日本最初の海水浴場 沙美海水浴場」と紹介されていました。

 日本で最初に沙美海水浴場を開いたのは健康のために海水浴が良いとの「医師坂田待園」の考えに共感した吉田村長が協力し漁師たちを説得して実現しました。「村長吉田親之君碑」が番所山のふもとに建立されています。

(以上「倉敷市」HPより)

 というわけで、はたしてどこが「日本初の海水浴場」か? 

「アオバト」の集団飛来地としても有名。アオバトは海水を飲むらしい。

 ちょっと見つけられなかったので、「大磯観光協会」のポスターを拝借。



 西湘バイパス下の標識「太平洋岸自転車道」(↓)。スケールが大きい。


 再び、「国道1号線」に戻って、しばらく行くと、左手に「鴫立庵」があります。入口の手前には、しゃれたお店がありました。


 
「鴫立庵」。                              「鴫立沢」。

 

 寛文4年(1664)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄8年(1695)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。
 現在では、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれています。
 崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建てたが、その標石に“著盡湘南清絶地”と刻まれていることから、湘南発祥の地と注目を浴びています。
  こころなき 身にもあはれは 知られけり 
     鴫立沢の 秋の夕暮れ  (西行法師) 

正面のお堂は、「円位堂(西行堂)」。

 
「俳諧道場」。
 齊藤寛之氏の作品が展示されている。古代の船にかかる白い帆(あるいはちぎれ雲かさざ波か)に煌めく光の淡い変化・・・。不思議な空間を醸し出している。 

「鴫立沢」標石。
 この裏に「著盡湘南 清絶地」と刻まれていて、これが「湘南」という言葉の始まり、とか。(ただし、この標石は複製で本物は大磯町が保存しているらしい。)
 また、この地域―鎌倉から西側―を「湘南」と名づけられた由来には諸説があるようだ。 

 

 芭蕉(と弟子達)句碑(円筒形の珍しいもの)、西行銀猫碑、佐佐木信綱自作歌碑、比翼塚、歴代庵主の墓碑など庭には90近くの石像物が存在していて、数々の興味深い石碑が所狭しと建っていて、飽きない。

 

 
 外に出ると、葬儀場施設建設反対の幟が。「鴫立庵」と大磯町役場との間に建設されている。その先には、「跡地の黒松を守れ」の幟も。自然環境、地元住民の住環境との調和が難しい昨今ではある。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。右下、岩礁のある付近が「照ヶ崎海岸」。


1970年代のようす(「同」より)。
 「大磯港」の建設、「西湘バイパス」の完成によって、海岸が狭くなって、海水浴場の中心が西方に移っていく。40年以上経過した現在、海岸線にはそれほど変化は見られないが、陸地は一段と緑が少なくなっている。↓が「照ヶ崎海水浴場」碑が建っているところ。国道1号線と旧東海道との分岐点付近。

現代。(「今昔マップ」より)。

旧島崎藤村邸。上方見附跡。東海道松並木。・・・(平塚から二宮まで。その4。)

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 街道筋にしゃれたお店。カレー屋さん。


「旧島崎藤村邸」。
 東海道から「案内」にしたがって路地を入って行く。

前の緑地にある案内板。


 大磯駅より東海道線路沿いに徒歩 5 分。町屋園と呼ばれた藤村の旧宅は、三間の平屋建ての民家 で外壁には杉の皮、引き戸には大正ガラス ( 現在は希少 ) が使われている。小さい素朴な冠木門に割竹垣に囲まれた小庭。 カナメやモチの若葉、朝顔や萩、湯河原から取り寄せた寒椿が花を咲かせる小庭の眺めは藤村の心の慰めで、この家を「靜の草屋」と呼んでいた。また簡素を信条とする藤村の気配りが今も感じられる。

《島崎藤村(18​72〜1943)》

 1872年信州木曽の馬籠村(現・岐阜県中津川市)に生まれる。 ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。『落梅集』の一節にある『椰子の実』や『千曲川旅情の歌』は歌としても親しまれている。

《最期の日 昭和18年8月21日》

 朝9時半頃、藤村は廊下に立って庭を眺めながら静子夫人に 「まだあすこを書いているんだよ、しかしこんどは思うように出たと思うがね、あすこが出来てしまえば、あとは雑作ない、和助が東京を立つだけだから…一寸今、読んで見てもらおうか。」
「原稿を読んでしまったら、きょうはお菓子をつくってくれ。」
茶の間で静子婦人が茶棚をうしろに机に向かい、藤村が机をはさんで端座して聞いている。
「青山半蔵には、中世の否定ということがあった…」その行から三四行読んだ頃、
「ひどい頭痛だ」と藤村の小さな声。藤村は茶棚にある常備薬を取りに行くが、静子夫人に倒れかかった。
「どうしたんだろうね。」いつも通りの静かな藤村の声。
「気分もよくなってきた、頭痛もしないよ…眼まいはちっともしない…涙を拭いて…」
「原稿が間に合うかね、そう 50 枚あるし…あそこで第三章の骨は出ているしね…」 東の方の庭に眼をやってじっと見ているかと思うと、
「涼しい風だね」 庭から眼を離さず気もちよさそうに涼風の過ぎるのを感じているようです。もう一度
「涼しい風だね」と……。
 そのまま深い昏睡、意識はかえらず、翌22日午前0時35分に大磯の地で永眠。
『東方の門』は「和尚が耳にした狭い範囲だけでも」までで遂に未完で終わりました。

 町屋園は藤村亡き後静子夫人が住んでいましたが、終戦間近の切迫した状況により箱根に疎開しました。
 町屋園が空家になってしまうことから昭和 24 年から高田保が住み始め、著作の『ブラリひょうたん』は大部分が町屋園で書かれました。
 高田保は昭和27年にこの町屋園、藤村邸で没しました。その後静子夫人が昭和48年に亡くなるまでお住まいになりました。
(以上、HPより)

 
外壁のつくり                       庭

 

離れ。

 また東海道に戻って西に向かいます。

「上方見附」跡。

バス停「統監道」。
 この付近にあって、大磯宿の西のはずれになっていた。



 「大磯中学校」の前から見事な松並木が続きます。
 
「東海道松並木」。 

解説板。

【東海道の松並木】
 江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました。
 松並木は、今から約400年前に諸街道の改修のときに植えられたもので、幕府や領主により保護され約150年前ころからはきびしい管理のもとに、立枯れしたものは村々ごとに植継がれ大切に育てられてきたものです。
 この松並木は、このような歴史をもった貴重な文化遺産です。

【小陶綾(こゆるぎ)ノ浜】

 『ゆるぎ』とは波の動揺をあらわし、かつては余呂伎、余綾(よろぎ)と書かれ、今の大磯町と二宮町は相模国余綾郡(よろぎごうり)と呼ばれていました。
 万葉集には、『相模道の余呂伎の浜の真砂なす児らはかなしく思はるゝかも』とよまれています。
 平安時代の古今和歌集には『こよろぎ』とよまれていましたが、その後の歌集には『こゆるぎ』とよまれました。
 歌枕の小余綾ノ磯は、今の大磯から国府津あたりまでの海岸一帯をさすといわれています。

     環境庁・神奈川県

「こゆるぎの浜」への案内板に誘われて向かったが、「西湘バイパス」を地下道でくぐったその先だったので、断念。

 
 見事な景観。道路は車が激しく行き来しているが・・・。

松涛庵。お蕎麦屋さん、ここでお昼のお蕎麦。

 
 植樹してあるクロマツの中で一番背が高い松。高さ25?、樹齢150年。

 一方で、枯れてしまった古木。
 

 この切り株は、1994(平成6)年11月、樹齢217年で松の天敵のマツクイムシにやられてしまったそうです。

 松並木も終わって、ひたすら東海道(国道1号線)を西に向かう。

「日本橋から69?」との標識。

「伊藤公滄浪閣之旧蹟」。
 今は、結婚式場と中華料理の大磯プリンスホテル別館滄浪閣としてあるが、元々は伊藤博文の居宅。

 さて、しばらくは国道1号線をひたすら歩きます。



 「関東ふれあいの道―大磯高麗山コース―」。
 かつて、職場のOBたちと「湘南平」に行ったことを思い出した。


 「切通し橋」(この下に流れる川の名は「血洗川」というおどろどろしい名前)を越え、「城山公園前」という三叉路を右に上って「大磯城山公園」方向に向かう道が旧街道。



「県立大磯城山公園」。

国府本郷の一里塚。二宮駅。ガラスのうさぎ像。・・・(平塚から二宮まで。その5。)

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 そのまま「城山公園」に沿ってカーブする広い道(バス通り)は行かずに、公園入口手前の左手の狭くまっすぐな道が旧東海道。少し間違えやすいので注意が必要でした。
 一人の青年がしきりにその分岐点のところで、手元の地図らしきものと辺りを見回して確認していました。そして、おもむろに左の道をずんずん歩いていきます。「旧東海道探索」の同好の士かと思い、その後をついて行って正解でした。
 しかし、しばらく歩きながら川を眺めたりしているうちに、その青年の姿を見失いました。その人は、ただ「城山公園」近くにある目的地を確認していただけなのかもしれません。でも、助かりました。


 
 ほとんど車も人も通らない住宅地の中を進む道。
「不動川」(「葛川」水系)を渡る。
 緩やかな上り坂。この道でいいのか不安になりそう。


 ゆっくり上がっていくと、民家前の舗装道路。足下にこんなプレートが。
「江戸から十七里」。ここが日本橋から17番目の一里塚があった辺り。


 敷地の一角にあった道祖神。西方を望む。


 来た道を振り返る。静かな住宅街。
 道が再び「国道1号線」に近づいていく。その手前の緑地帯。

 
 「国府本郷の一里塚」碑と説明板。

 ・・・17番目の一里塚が国府本郷村地内にありました。国府本郷の一里塚は実際にはここより約200mほど江戸寄りに位置していました。塚の規模は不明ですが、東海道をはさんで左右一対の塚の上には、それぞれ榎が植えられていたようです。
 この国府本郷村の一里塚は、東海道の記憶を伝えるために、平成14年の東海道シンポジウム大磯宿大会を記念して築造したものです。

 これで、先ほどの道路に埋め込まれていた「江戸から十七里」プレートが本来の位置だったことがわかります。

現東海道と旧東海道との間にある緑地帯。右が現東海道。

 しばらくは旧東海道は、国道1号線と平行に進みます。

 

 
 道祖神。
  
 来た道を振り返る。右が現東海道、左が旧東海道。

 こうして再び合流します。そして、ひたすら「二宮」を目指して歩くことに。



 左手奥の海岸に有名な?「大磯ロングビーチ」があります。聞いたことがあるだけで、来たことはない。

施設内マップ(公式HPより)。かなり広いんですね。


 街道沿いには、平屋つくりで道路側の間口を広く開けたかたちをした家屋(商家のなごり?)がまだ残っている。


 松並木が再登場して、「二宮」に入る。

「潮海の名残」。
 「葛川」に架かる橋のたもとにあった標識。ここまで潮の満ち引き(浜辺)があったということに。

「葛川」。「大磯ロングビーチ」の北側を流れ、相模灘に注ぐ。

「日本橋まで73㎞」。けっこうやってきました。東海道はまだまだ続きますが、今回はここまで。

来た道を振り返る。

現在(「今昔マップ」より)。赤い○のところが、旧東海道。現東海道の北側をしばらく並行して進む。

大正時代(「同」より)。「一里塚」付近にひとまとまりの集落が確認できる。

二宮駅前ロータリーにある「ガラスのうさぎ」像。

説明碑。

 太平洋戦争終結直前の昭和二十年八月五日 ここ(国鉄)二宮駅周辺は艦載機P51の機銃掃射を受け 幾人かの尊い生命がその犠牲となりました
 この時 目の前で父を失った十二歳の少女が その悲しみを乗り越え けなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」は 国民の心に深い感動を呼び起こし 戦争の悲惨さを強く印象づけました
 この像は私たち二宮町民が 平和の尊さを後世に伝えるために また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために 多くの方々のご協力をいただき 建てたものです 
少女が胸に抱えているのは 父の形見となったガラスのうさぎです

 ここに平和と友情よ永遠に

 昭和五十六年八月五日 「ガラスのうさぎ」像を二宮駅に建てる会

 以下は、「神奈川新聞」の記事。
       
 平和の尊さを後世に伝えようと、JR二宮駅南口に建立された「ガラスのうさぎ像」に1日、色とりどりの千羽鶴約11万7千羽が飾り付けられた。作業をした町民らはあらためて、戦争のない平和な世界に思いをはせた。15日まで飾られている。
 終戦直前の1945年8月5日、同駅近くで米軍機による機銃掃射があり、児童文学作家・高木敏子さんは目の前で父を失った。ロングセラー「ガラスのうさぎ」はその体験を基にした児童文学で、作品にちなんだ像は町民の寄付などで81年に建立された。
 千羽鶴の飾り付けは、建立30年を記念して2010年にスタート。折り鶴は7月1~18日の期間、町内だけでなく藤沢や横浜などからも持ち寄られた。それぞれに糸を通して束にする作業は4日間ほど、町民有志が集まった「ガラスのうさぎ像を千羽鶴で飾りましょう実行委員会」(萩原弘子委員長)のメンバーらが担った。
 この日、メンバーらは運び込んだ千羽鶴を像周辺へ飾り付け。細かく丁寧に折られた鶴がびっしりと集まった束もあり、作業の手をしばらく止めて「本当にきれいね」などと話していた。萩原委員長は「今は一見平和な世の中で、平和の大切さを忘れてしまいがち。ガラスのうさぎ像を通して、この小さな町から大切さをアピールしたい」と話していた。
・・・
(2014/8/2)
HPより)

 次回は、小田原宿へ。

一里塚。松屋本陣。押切坂。車坂。・・・(二宮から小田原まで。その1。)

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 18号に続いて台風19号が直撃するとか。せっかくの3連休。またしても大荒れのお天気。ではその前にと前回の続き。
 JR東海道線「二宮」駅で下車。「小田原」駅までの予定。

 松並木も見え始めて、気分も上々。しかし、今日はけっこう歩くことになりそう。はたして膝の具合はいかに?



74㎞ポスト。

 しばらく行くと、旧東海道の分岐点。現東海道の北側の道をたどります。
中央の木陰に交通整理員みたいな格好の人が立っています。突然、旗を振って東海道(画面では左)に飛び出し、一台の車を誘導。その先に警察車両がいました(画面右奥)「ネズミ取り」をしていたわけです。
 「20㎞オーバーですね」。この辺の国道1号線は、見通しの言い直線コース。手前は下り坂。対向車も少ない、下り車線。ついついスピードを出してしまうところ? 地元の人間は承知でしょうが。
 ・・・、青年驚いてぼやくことしきり。こちらもしばしやりとりを見ていました。

旧東海道から国道1号線を望む。旧道は車の往来もなく、静かな道筋。

醤油蔵元「ヤマニ醤油」。

 昔ながらの製法でじっくりと時間をかけ造り上げた「自然派志向の逸品」を直接ご家庭にお届けします。
 創業は天保13年より「長寿の里」として知られている二宮町で、私共は原料から製品までを厳しい目で監視しています。
●湘南美人昆布しょうゆ
昆布の成分アルギン酸が食塩の成分と結びついて体外に排出します。この時に高血圧を抑える成分(カリウム)を残していきます。美味しくて体によい昆布しょうゆです。
●手造り味噌
国産大豆国産米を使い本格的に長い時間をかけて醸造した製品です。味噌本来の(色)、(味)、(香り)の三拍子揃った最高級の無添加手造り味噌です。
●手造りとんかつソース
生野菜、果実をたっぷり使い自然の風味をそのまま生かしてつくりました。手造りだからできた専門店の味です。

(以上、HPより)

左に折れると、「梅沢海岸」へ。

  
 「西湘バイパス」をくぐった先。

概念図。↓と↑の部分が旧東海道。


 「二宮」の由来となった「川匂(かわわ)神社」の「みそぎ祭」の際、梅澤海岸にて神事(浜降り)が行われる、という(10月12日)。また、朝市の会場でもある。

「等覚院」付近から旧道を望む。

 しばらくすると、国道1号線と合流します。

右が国道1号線、左が旧道。交わる地点に道祖神など何体も置かれている。

75㎞ポスト。

 その先「押切坂上」の信号のところで、旧道は左に入って「押切坂」となる。



 押切坂に入ってすぐのところには「史跡東海道一里塚の跡」。江戸・日本橋から18里。



 下り坂の「押切坂」にさしかかる手前の民家の庭先に「松屋本陣の跡」碑。



 ・・・このあたりは、大磯宿と小田原宿の中間に位置し、大磯宿と小田原宿の距離が16キロメートルと長い上、押切坂、酒匂川を手前に控えていることから、間(あい)の宿として休憩所が設けられ、大友屋、蔦屋、釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれていました。
 その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり、参勤交代の諸大名、宮家、幕府役人など、特権階級にある人達の休憩所に指定されていました。
 平成17年12月 二宮町教育委員会

そこから押切坂を望む。

再び1号線と合流する坂道の途中の道祖神。

右の狭い急坂が「押切坂」の一部。

「押切橋」から左手に海を臨む。


 小田原市へ。すぐにまた「二宮町」。それもつかの間、本格的に「小田原市」に入ります。

二宮町ともお別れ。

76㎞ポスト。

 行く手に海が開けてきます。この坂は、「車坂」。



  
↓が伊豆大島の島影。                   伊豆半島の山並み。

「車坂碑」。

 鳴神の声もしきりに車坂 
   とどろかしふるゆふ立の空   太田道灌
 戦国兵乱の世の和歌集に「平安紀行」があります。「平安紀行」の作者は、太田道灌とする説と異説とする説がありますが、その前文に「車坂という里にてゆう立しきりに降りそえば」とあり、この時に詠んだものです。
 浜辺なる前川瀬を逝く水の 
   早くも今日の暮れにけるかも   源 実朝
 「吾妻鏡」建保元年の条に記録があり、源実朝が鎌倉を出て、箱根、伊豆の二権現に参拝する際、前川まで来た時、正月でも洪水があったとみえ河を渡ることができず、日暮まで待つ間に詠んだものです。
 浦路行くこころぼそさを浪間より
   出でて知らする有明の月   北林禅尼(阿仏尼)
 「十六夜日記」は、阿仏尼が夫の逝後、先妻の子為氏と我が子為相との相続争いの訴訟のため、京を発ち鎌倉に下る紀行文です。その前文に酒匂に泊り、あす鎌倉に入るとあり、この時に詠んだものです。

来た道を振り返る。ゆるやかな下り坂。

家と家との間に海が見える。その上を横切るのは「西湘バイパス」。

「大山道道標」。左手に上がる道が丹沢・大山信仰のための道。

「車坂」付近の1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

JR「国府津」駅。小八幡一里塚。酒匂宿・旧川辺本陣跡。・・・(二宮から小田原まで。その2。)

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 路傍には、「道祖神」がいくつも置かれている。男女一対のものや表面がすっかりかすれてわかりにくいものなど旧街道筋らしい雰囲気。

77㎞ポスト。

 
 この森の向こうにJR「国府津」駅がある。

「一夜城まつり」のポスター。

 ※「一夜城」(石垣山一夜城歴史公園)

 石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。
 この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。
  秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。
 この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されています。
 この地は国立公園区域および国指定史跡に指定されています。(以上、「小田原市」公式HPより)

 小田原城の西南約3㎞、JR「早川」駅から徒歩40分くらいのところに位置する城跡公園。興味深いところですが。簡単には行けそうにもない!

「一夜城」から小田原城を望む(「Wikipedia」より)。

78㎞ポスト。

「国府津駅」。
「丹那トンネル」(熱海~三島)が開通する以前、「東海道本線」の中心的駅として賑わっていた。当時は、小田原市街、熱海には通らず、箱根山を迂回し、「御殿場」を通って沼津へ抜けていた。現在は、「御殿場線」としてローカルな味わいを残す鉄道線として存在。

 《歴史》

 1887(明治20)年、初代横浜駅(1915年以降は桜木町駅)から当駅までの鉄道路線の開通に伴い、国府津駅が開業。
 その2年後の1889年には当駅から御殿場駅・沼津駅を経て静岡駅までが開通したが、国府津駅から御殿場駅までの区間は勾配がきついため、列車を後押しする機関車を連結することとなり、当駅は機関車の基地として重要な役割を有することとなった。
 1888年には、駅前から小田原・湯本までを結ぶ小田原馬車鉄道も発着するようになったが、後に小田原電気鉄道と社名を改め、1900年には日本で4番目の電気鉄道(路面電車)となった。1925年には、横浜駅から当駅までが電化され、電気機関車と蒸気機関車を付け替える駅としての役割も担うようになる。
 しかし、御殿場回りのルートは勾配がきついため、速度向上のネックとなっており、また、トンネル掘削技術が向上したことにより、熱海を経由する新しい路線を建設しようとの機運が高まった。まず、1920年に熱海線として当駅から小田原駅までが開業。これに伴い小田原電気鉄道線は廃止された。熱海線はその後、1922年には真鶴駅まで、1924年には湯河原駅まで、1925年には熱海駅までと次々に延伸が重ねられた。
 1934(昭和9)年12月に丹那トンネルが完成し熱海 - 沼津間が開通、これを機に新線と熱海線が東海道本線に編入され、東海道本線は御殿場駅経由から熱海駅経由に変更された。
 国府津 - 沼津間全通までは、「つばめ」や「さくら」といった当時最速とされた列車でさえも機関車連結のために停車していたが、東海道本線のルートが熱海経由になったことにより当駅は本線の後押し機関車の連結駅としての役割を終え、また新ルートは当初から電化されていたため機関車を付け替える駅としての役割をも終えることとなった。
 国府津 - 御殿場 - 沼津のルートはこの時に御殿場線として分離され、1943年には戦時中の金属供出により単線となった。以後、国府津駅は東海道本線から御殿場線の分岐する小さな接続駅としての役割のみを持つ駅となった。

「国府津駅開業100周年記念碑」。

「周辺案内図」。

「寄りあい処こうづ」。
 二階は、「小田原鉄道歴史研究会 国府津鉄道資料室」。のぞいてみたかったが、閉館中でした。う~ん! 残念!

  
                            「相模湾」。
 目の前には海が広がっているはずなのに、建物のため見えず。「東海道」沿いの駅入り口正面にあるマンションの駐車場に入ってパチリ。
 街道筋のところどころにレトロな雰囲気の建物が残っています。

  
 正面奥。                            正面中央。

街道筋らしい家屋が並んでいる。
 
  
 「うなぎ」の看板。        その奥にある新店舗。

 「国府津」の街は、建物など見所がまだまだありそうですが、先を急ぎます。

「親木橋」から海岸を望む。

「西湘バイパス」国府津IC。

「歩道橋」から遠く富士山を望む。

マンホールの絵柄。「酒匂川」を渡るようすが描かれている。

「沼津46㎞ 箱根12㎞」。

 
 松の古木が見えてくると、その先に「一里塚」跡の碑。

「小八幡一里塚」跡。江戸から19番目の一里塚。

 ・・・小八幡の一里塚について天保年間の相模国風土記稿に「東海道中の東にあり、左右相対せり。高二間 舗六七間、塚上に松樹あり、上は小田原宿入口一里塚、下は淘綾郡山西村小字梅沢の一里塚に続けり」とある。・・・

バス停名も「一里塚」。

 しばらく行くと、松並木が現れます。
  
        
       

             神奈川県内でこうしてまとまった松並木はこれが見納めに。

 しばらく進むと、大変立派な門構えが見えてきます。


 鎌倉時代の宿、酒匂宿に建てられた「旧川辺本陣」(建物は江戸時代後期のもの)。現在は、社会福祉法人ゆりかご園(児童養護施設)。

(「・著者:新村 衣里子 」HP参照より)
  
 特に史跡等の指定はなく、江戸時代の宿場でもないため、説明板もなさそう。ただ、上記では、ここを舞台にした、なかなか義経と頼朝との興味深い関係が描かれています。 

振り返って望む。
 左側の緑のところが「旧川辺本陣」跡。

 いつしか81㎞ポスト。

 「連歌橋」を越えていよいよ「酒匂川」にさしかかります。そろそろ正午をだいぶん回った時分ですが。
 
 
 ところで、「連歌橋」という風流な名前がついた由来を知りたいものです。かの連歌師・宗祇に関わりがあるのか、それとも?

酒匂川の渡し。新田義貞の首塚。江戸口見附一里塚。・・・(二宮から小田原まで。その3。)

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 街道沿いにあった魚屋さん。新鮮な魚介類、地元産の新鮮な魚介類の名前が張り紙で。

 いさき、天然いなだ、天然かんぱち、真いわし(以上には、「小田原産」と表示)、近海 ほうぼう、真さば、・・・

「酒匂(さかわ)川」は河口を望む。

 この辺りは、川幅が広く、中瀬も点在していた。徒歩で渡ることも不可能ではなかったか。
 ところが現実はそう甘くはない。

 「江戸時代、小田原を流れる酒匂川には橋がなかった。旅人は渡し場から川越し人足によって川を渡らなければならなかった。雨が降り続き、水深が胸あたりになると、川留めとなった。川留めは、旅を急ぐ人々にとって大変な難儀であった。東海道を上方へ向かう旅人は、酒匂川が川留めとなると、付近の農家を借りたり、野宿して川明けを待ちわびた。」
(岩崎宗純)



 小田原に行くには、手前に描かれた酒匂川を渡らなければならない。幕府が架橋や渡し舟を認めなかったので、旅人が輦台(れんだい。板に棒二本をつけて四人で担ぐもの)に乗ったり、人夫に肩車されたり、徒歩などで夕暮れに近い川を渡っていく様子が描かれている。遠景には小田原城や箱根山系が描かれている。箱根山系は逆光を受け、色彩や線などで険しさが表現されている。
(「」HPより)。


1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
 現代の橋よりもう少し上流、「連歌橋」からほぼ直線上に橋(中瀬を挟んで架けられていた)があった。
大正期の小田原「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より(「知足美術館」HP)


ほぼ同じところの1970年頃のようす(「同」より)。橋の位置が少し下流になり、より西南の方向になっている。

 「酒匂橋」のたもとにある食事処で昼食。   

 すぐ目の前の土手沿いに「酒匂川の渡し」碑。



酒匂川の渡し
 酒匂川の渡しは、東海道五十三次道中の難所の一つで、古くは船渡しが行われていたが、延宝二年(1669 注:「1674」の誤り)船渡しが禁止されて徒渉(かちわたり)制が施行され、冬の時期を冬川と言い仮橋を架けて往来したが、夏の時期は夏川と称し橋を架けないので必ず手引・肩車・輦台(れんだい)など有料で川越人足の力を借りて渡らなければならなかった。この制度は明治四年(1871)に廃止された。

 

対岸を望む。遠くに箱根連山。

遠くに富士山(↓)。

「酒匂橋」からの酒匂川上流。

「酒匂川の渡し」碑がある東岸を望む。

  
旧東海道とおぼしき道。「八幡神社」(新田義貞の祠がある)脇。         (ガソリンスタンド脇)。

82㎞ポスト。

 そのまま「1号線」を渡り、「小田原ビジネス高校」脇の道に入ります。ほんのわずかな区間・カギ型の部分が旧東海道。

  

「案内図」に従って行くと、住宅地の一角に「新田義貞の首塚」があります。

「新田義貞の首塚」

建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、足利尊氏によってその首級を晒されていた。
 義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は、主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。
 その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。



 すぐに1号線に合流して歩を進め、「山王橋」を過ぎると、「東海道 小田原宿」の標柱。



 まもなく「山王口」。

「文部省指定史跡 小田原城址江戸口見附跡」。(右手) 

「案内板」。

  
 大正時代のようす(西方)。               現在のようす(東方)。

 道路を挟んで反対側(左手)には、「江戸口見附並一里塚址」碑。

  

 ここが江戸・日本橋から20番目の一里塚。

 ・・・天保年中の相模国風土記稿には、「江戸口の外南側にあり、高6尺5寸幅5間ばかり、塚上榎樹ありしが中古槁(か)れ、今は松の小樹植ゆ、古は双堠なりしに隻堠となれり、けだし海辺の革(あらた)まりし頃、一堠は海中に入りしならん、これより東は小八幡村、西は風祭り村の里堠に続けり」とされている。

 しばらく進むと、「新宿」の交差点。旧道は左に折れ、しばらくして右に折れます。

江戸口見附付近の1880年頃のようす(「同」より)。
 「山王橋」から城内に入ると広い道になった西付近が「江戸口見附跡」。。左下カギ型に曲がるところが「新宿」。中央、小田原城の土塁が残っている。

旧町名あれこれ。小田原提灯。元古清水旅館。小田原空襲。・・・(二宮から小田原まで。その4。)

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「しんしくちょう」新宿町。
 江戸時代前期、この町は、城の大手口変更によって東海道が北寄りに付け替えられた時にできた新町である。町は藩主帰城の時出迎場であったほか、郷宿(ごうやど・藩役所などへ出向く村人達が泊まる宿屋)や茶屋があり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家などもあった。

 このように街角には旧名と由来などの説明文が刻まれた石碑が随所に建っています。歩いている途中で気づいた、その2,3を紹介します。

                    
万町
町名は古くから『よろっちょう』と呼ばれた。町内には、七里役所という紀州(和歌山)藩の飛脚継立所(ひきゃくつぎたてしょ)があった。江戸時代末期には、旅籠(はたご)が5軒ほどあり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。
         


高梨町
 東海道から北へ向かう甲州道の起点に当たり、古くから商家、旅籠が並んでいた。町の中央南寄りには下(しも)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、中宿町の上(かみ)の問屋場と10日交代で勤めていた。

        

本町
 小田原北条氏時代、この町は通小路(とおりこうじ)といわれていた。江戸時代前期に、この町を基準にして城下の町人町を左右に町割りしたとき本町と改められた。隣の宮前町とともに小田原宿の中心で江戸時代末期には本陣2、脇本陣2に旅籠が26軒ほどあった。
         
※「小田原提灯」(おだわらちょうちん)

 提灯の一種。童謡「おさるのかごや」に登場する。
 東海道の宿場町であった小田原では、旅人が携帯するのに便利なようにと、同地在住の職人・甚左衛門が、畳んだ時に胴の部分が蓋に収まるように作ったのが最初といわれる。(いじょう、「Wikipedia」より)

注:「おさるのかごや」

♪えっさえっさ えっさほいさっさお猿のかごやだ ほいさっさ日暮れの山道 細い道
 小田原提灯 ぶらさげてソレ やっとこどっこいほいさっさほーいほいほい ほいさっさ
・・・

とある店先に掛けてあった。

 いよいよ小田原宿の核心部へ向かいます。

振り返って1号線方向を望む。

「いせかね」。

 老舗の蒲鉾屋さんが建ち並ぶ通り。 

 ちょっと横丁に入ると、

「街かど博物館・かつおぶし博物館(籠常商店)」
 
 こうした「街かど博物館」があちこちにあります。

※「街かど博物館」とは 

 小田原には古くから栄えた産業文化を今に伝える地域資産がたくさんあります。かまぼこ、漬け物、菓子、ひもの、塩辛、そして木工などの地場産業がその代表的なものです。工夫を凝らした展示、店主との会話、さらには体験を通して、小田原の産業にかかわるひと・製品・ものづくりの結びつきを知ってもらうことにより、小田原の魅力を高めようとするのが「街かど博物館」です。是非「街かど博物館」めぐりをしてみてください。

【小田原駅周辺エリア】
・塩から伝統館(小田原みのや吉兵衛)
・倭紙茶舗(江島)
・菓子どころ小田原工芸菓子館(栄町松坂屋)
・のれんと味の博物館(だるま料理店)
・漆・うつわギャラリー(石川漆器)
・漬物・佃煮・惣菜工房(田中屋本店)
・砂張ギャラリー鳴物館(柏木美術鋳物研究所)

【旧東海道エリア】
・陶彩ぎゃらりぃ(松崎屋陶器店)
・かまぼこ伝統館(丸う田代)
・ひもの工房(早瀬幸八商店)
・かつおぶし博物館(籠常商店)
・染め織り館(山田呉服店)
・薬博物館(済生堂薬局小西本店)
・梅万資料館(欄干橋ちん里う)

【板橋・早川エリア】
・木地挽きろくろ工房(大川木工所)
・ひもの体験館(カネタ前田商店)
・とうふ工房(下田豆腐店)
・寄木ギャラリー(露木木工所)
・かまぼこ博物館(鈴廣)

(以上、「小田原市」公式HPより)

 こんな具合に一軒一軒訪ねて見学し、時には体験学習をさせてもらえる、・・・ユニークな企画です。墨田区でも「小さな博物館」という伝統工芸品や下町らしい味わい深い取り組みがありますが、地元密着型の、実にいいアイデアです。
 寄り道ばかりで先に進めません。別の機会にじっくりと。

元「脇本陣古清水旅館」。
 江戸時代、「大清水本陣」とその隣にあった「小清水脇本陣」は、本陣を兄が、脇本陣を弟が経営するという関係にあった。その脇本陣の跡には、明治以降、本陣と脇本陣が合併した「古清水旅館」があったが、1996(平成8)年に廃業、2007(平成19)年には取り壊されて、現在は「多世代向賃貸住宅『プラージュ古清水』」となった。
 その2階には「脇本陣古清水旅館資料館」がある。

 
 資料館のようす。(写真は、「瀬戸建設」HPより。)

 正面に設置された「小田原空襲」という説明板に注目しました。

8月15日の小田原空襲

 1945(昭和20)年8月15日、まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29一機による焼夷弾空襲を受けました。
 小田原空襲の直前には、埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市が空襲を受けており、その二都市を攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ帰還する途中に小田原を空襲したものと考えられます。アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には、小田原空襲の記録は一切なく、計画されたものではありませんでした。
 しかしながら、アメリカ軍の日本都市空襲の候補地が記された「180都市の表」の96番目に小田原が挙げられており、 本格的な小田原市街地への焼夷弾空襲がなされ、壊滅的な被害を受けた可能性がありました。
 8月15日の小田原空襲で被災した地区は、現在の浜町一・三丁目、本町二・三丁目にまたがり国道1号線をはさんで国際通りの両側にあたります。焼失した家屋は約400軒、死者は本会の調査によれば12名です。
 被災した古清水旅館には、小田原空襲を伝える写真が保存されています。建物がすっかり焼け落ちた古清水旅館の後方に焼き尽くされた小田原の町並が映っています。当時の館主、清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものです。
 今から62年前にあった小田原空襲を記した説明板を、被災した古清水旅館の敷地に設置することで、戦争の愚かさや悲惨さ、平和の尊さを少しでも語りつぐことができればと思います。
2007(平成19)年8月15日
           戦時下の小田原地方を記録する会
           古清水旅館 館主 清水伊十良
 
                  「被害状況」。 

 他にも「小田原空襲の碑」があることがわかりました。

「青物町」交差点。
 「甲州道」(国際通り)右側に見えるレンガ壁のお店の壁面にはめ込まれてあるようです。知らずに通り過ぎてしまったので、改めて・・・。

「小田原空襲の碑」。

第二次世界大戦最後の空襲  大南勝彦

 その昔 小田原宿は、東海道沿いと甲州街道沿いとに家並みがひろがっていましたが、当家の所は此の両者の交わる地点で、青物町一丁田へと伸びる甲州街道の基点でもありました。
 第二次世界大戦、いわゆる太平洋戦争の最後の日の夜半から早暁にかけ、当地はアメリカ空軍B29爆撃機による焼夷弾爆撃を受けました。
 一九四五年(昭和二十年)八月十四日夜半、B29一機が来襲。まず照明弾が落とされ、旧甲州街道沿いに大量の焼夷弾攻撃を展開、当家は八箇の焼夷弾による直撃を受けましたが、警防団の消火活動で一旦鎮火。しかし十五日午前一時頃炎に包まれました。
 高梨町、青物町、宮小路、一丁田など、焼失家屋は合わせて四〇二戸。罹災者一八四四人。負傷者六五人。死者四八人を数えました。
 日本がポツダム宣言受諾を打電したのは八月十日でしたが、その後も交戦状態は続き、無条件降伏を決定したのは八月
十四日、小田原空襲はそのあとに行われたもので、国内の他の数カ所の地域と共に、文字通り第二次世界大戦最後の空襲
でした。
より)
         

小田原城下町・ほんのさわり。ういろう。・・・(二宮から小田原まで。その5。)

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「明治天皇宮ノ前行在所(あんざいしょ)跡」。

 

 明治天皇宮ノ前行在所(あんざいしょ)跡は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所です。・・・
 清水金左右衞門本陣は、小田原宿に4軒あった本陣のうちの筆頭で、清水金左衛門家は江戸時代に町年寄も勤め、宿場町全体の掌握を行っていました。本陣の敷地面積は、およそ240坪で、大名、宮家などの宿泊にあてられました。
 明治天皇が宿泊したのは、明治元年(1868)10月8日の御東行の際を初めとして5回を数えます。明治天皇小田原町聖跡保存会は、この土地を買収して、昭和15年2月に整備工事を着手し、昭和15年10月に落成しました。
      

「染め織り館(山田呉服店)」の前から旧東海道を振り返る。
 
「小田原宿なりわい交流館」。
 「なりわい交流館」の建物は、関東大震災により被害を受けた建物を1932(昭和7)年に再建したもの。小田原の典型的な商家の造り「出桁(だしげた)造り」という建築方法や、看板、大漁旗、館の前の堀、柳などが当時の風情を偲ばせる。

小田原宿の絵地図。

中心部の町割。


1880年頃の中心部のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。右の、東海道から分岐して北に向かう道は「甲州道」。


 「小田原宿」

 江戸日本橋から約80キロメートル、「品川」から数えて9番目の宿場。江戸を出て最初の城下町で、かつて関八州を統一した後北条氏の城下町として繁栄した小田原は、関東への出入り口として重要な拠点であった。
 江戸時代、大久保氏11万3千石の城下町を兼ねた宿場として、箱根の山越え、関所を控えた宿場として大いに栄えた。そのスケールは東海道屈指で、本陣・脇本陣ともに4軒、そして旅籠屋は95軒を数えた。

 (江戸:日本橋) - 品川 - 川崎 - 神奈川 - 程ヶ谷 - 戸塚 - 藤沢 - 平塚 - 大磯 - 小田原( - 箱根 - 三島)        

 こうして、やっと9番目の宿場に着いたわけです。江戸時代には、通常、ここが2日目の宿だった(ということは1日約40
㎞歩いていたことになる)。

???
 通りのすぐ近くの建物。つくりは黒塗りの板壁。寄席風。表にはユニークなお品書きというか・・・。

本日の出演          

シャープ亭太陽光発電
ダイキン亭エコキュート
調理器家IHクッキング
・・・

えこ座
昭和三十年代の寄席風演芸場みたい。それが太陽光発電システムとオール電化の体験型展示場 えこ座なんです。

 HPより。   

 ある種のうさんくささが売りなのか、といったら失礼ですが。

 しばらく進むと、

「小伊勢屋」。  

       
 創業四百年有余 料理茶屋 小伊勢屋です。旬の魚料理をはじめ、天使の海老を使用したお料理、うな重、小田原どん、各会席料理等和食・日本料理を多数取り揃えております。二階広間には嘗て鰤漁が盛んだった頃に使われた親船の櫓、小田原城主大久保氏の合印(合戦の時に使われた旗)、鎧等が見られます。また、お宮参りなどにお部屋もご用意しております。

(「小田原の和食料理屋 宴会・法事・会席に最適 料理茶屋 小伊勢屋」HPより)
            
 
「御幸の浜」。↓が伊豆大島。

 御幸の浜は、明治6年(1873)、明治天皇と皇后がおそろいで、当海浜において、漁夫の地引網をご覧になり、以来、「御幸の浜」と呼ばれるようになりました。(小田原市HPより)
 
 この近辺も見所満載ですが、東海道に戻ります。
薬博物館「済生堂薬局小西本店」。


済生堂薬局小西本店(さいせいどうやっきょくこにしほんてん)

 文化財の店舗にある小さな博物館

 寛永10年(1633年)創業、400年近い歴史を誇る老舗の薬局が所蔵品を公開するミニ博物館。年期の入った百味たんす、薬剤をすりつぶす乳鉢や秤など、薬関係の貴重な骨董品が展示されています。
 木造・平屋建、瓦葺きの建物は、国の登録有形文化財に指定されています。関東大震災で倒壊した明治時代の旧店舗の材料を一部用いて1925年(大正14年)頃に完成したと伝えられ、軒出しも大きく、柱など主要部材に欅材を用いており、小田原の歴史を物語ります 。
(「http://shizuoka.mytabi.net/hakone/archives/saiseido-yakkyoku.php my旅 しずおか」より。)

 行く手の左手に「お城」が。これが有名な「ういろう(外郎)本舗。売られているのは漢方薬「ういろう」と、同名の和菓子「ういろう」。漢方薬は直径2ミリほどの銀色の粒。一方の和菓子は米粉から作ったようかんのような蒸し菓子だ。




ういろう(外郎)は、神奈川県小田原市の外郎家で作られている大衆薬の一種。仁丹と良く似た形状・原料であり、現在では口中清涼・消臭等に使用するといわれる。外郎薬(ういろうぐすり)、透頂香(とうちんこう)とも言う。中国において王の被る冠にまとわりつく汗臭さを打ち消すためにこの薬が用いられたとされる。
 14世紀の元朝滅亡後、日本へ亡命した旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬の名前に由来すると言われている。陳宗敬は明王朝を建国する朱元璋に敗れた陳友諒の一族とも言われ、日本の博多に亡命し日明貿易に携わり、輸入した薬に彼の名が定着したとされる。
 室町時代には宗敬の子・宗奇が室町幕府の庇護において京都に居住し、外郎家(京都外郎家)が代々ういろうの製造販売を行うようになった。戦国時代の1504年(永正元年)には、本家4代目の祖田の子とされる宇野定治(定春)を家祖として外郎家の分家(小田原外郎家)が成立し、北条早雲の招きで小田原でも、ういろうの製造販売業を営むようになった。小田原外郎家の当主は代々、宇野藤右衛門を名乗った。後北条家滅亡後は、豊臣家、江戸幕府においても保護がなされ、苗字帯刀が許された。なお、京都外郎家は現在は断絶している。
 江戸時代には去痰をはじめとして万能薬として知られ、東海道・小田原宿名物として様々な書物やメディアに登場した。『東海道中膝栗毛』では主人公の喜多八が菓子のういろうと勘違いして薬のういろうを食べてしまうシーンがある。
 歌舞伎十八番の一つで、早口言葉にもなっている「外郎売」は、曾我五郎時致がういろう売りに身をやつして薬の効能を言い立てるものである。これは二代目市川團十郎が薬の世話になったお礼として創作したもので、外郎家が薬の行商をしたことは一度もない[3]。
 ういろうを売る店舗は城郭風の唐破風造りの建物で、一種の広告塔になったが、関東大震災の際に倒壊し、再建されている。
現在も外郎家が経営する薬局で市販されているが、購入には専門の薬剤師との相談が必要である。

外郎売

 ・・・
イヤ最前より家名の自慢ばかり申しても、御存知無い方には正真の胡椒の丸呑み、白河夜船、
されば一粒食べ掛けて、その気味合いを御目に掛けましょう。
先ず此の薬を斯様に一粒舌の上に乗せまして、腹内へ納めますると、イヤどうも言えぬわ、胃・心・肺・肝が健やかに成りて、
薫風喉より来たり、口中微涼を生ずるが如し。
魚・鳥・茸・麺類の食い合わせ、その他万病即効在る事神の如し。
さて此の薬、第一の奇妙には、舌の廻る事が銭ごまが裸足で逃げる。
ヒョッと舌が廻り出すと矢も盾も堪らぬじゃ。

そりゃそりゃそらそりゃ、廻って来たわ、廻って来るわ。
アワヤ喉、サタラナ舌にカ牙サ歯音、ハマの二つは唇の軽重。
開合爽やかに、アカサタナハマヤラワ、オコソトノホモヨロヲ。
一つへぎへぎに、へぎ干し・はじかみ、盆豆・盆米・盆牛蒡、摘蓼・摘豆・摘山椒、書写山の社僧正。
小米の生噛み、小米の生噛み、こん小米のこ生噛み。
繻子・緋繻子、繻子・繻珍。
親も嘉兵衛、子も嘉兵衛、親嘉兵衛・子嘉兵衛、子嘉兵衛・親嘉兵衛。
古栗の木の古切り口。
雨合羽か番合羽か。貴様の脚絆も革脚絆、我等が脚絆も革脚絆。
尻革袴のしっ綻びを、三針針長にちょと縫うて、縫うてちょとぶん出せ。
河原撫子・野石竹、野良如来、野良如来、三野良如来に六野良如来。
一寸先の御小仏に御蹴躓きゃるな、細溝にどじょにょろり。
京の生鱈、奈良生真名鰹、ちょと四五貫目。
御茶立ちょ、茶立ちょ、ちゃっと立ちょ。茶立ちょ、青竹茶筅で御茶ちゃっと立ちゃ。
来るわ来るわ何が来る、高野の山の御柿小僧、狸百匹、箸百膳、天目百杯、棒八百本。
武具、馬具、武具馬具、三武具馬具、合わせて武具馬具、六武具馬具。
菊、栗、菊栗、三菊栗、合わせて菊栗、六菊栗。
麦、塵、麦塵、三麦塵、合わせて麦塵、六麦塵。
あの長押の長薙刀は誰が長薙刀ぞ。
向こうの胡麻殻は荏の胡麻殻か真胡麻殻か、あれこそ本の真胡麻殻。
がらぴぃがらぴぃ風車。起きゃがれ子法師、起きゃがれ小法師、昨夜も溢してまた溢した。
たぁぷぽぽ、たぁぷぽぽ、ちりからちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一干蛸。
落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食われぬ物は、五徳・鉄灸、金熊童子に、石熊・石持・虎熊・虎鱚。
中でも東寺の羅生門には、茨木童子が腕栗五合掴んでおむしゃる、彼の頼光の膝元去らず。
鮒・金柑・椎茸・定めて後段な、蕎麦切り・素麺、饂飩か愚鈍な小新発知。
小棚の小下の小桶に小味噌が小有るぞ、小杓子小持って小掬って小寄こせ。
おっと合点だ、心得田圃の川崎・神奈川・程ヶ谷・戸塚は走って行けば、灸を擦り剥く三里ばかりか、
藤沢・平塚・大磯がしや、小磯の宿を七つ起きして、早天早々、相州小田原、透頂香。
隠れ御座らぬ貴賎群衆の、花の御江戸の花ういろう。

・・・


『東海道中膝栗毛』(主人公は「弥次さん」「喜多さん」)。

 喜多「おやここのうちは、屋根にだいぶ凸凹があるうちだ」

 弥次「これが名物のういろうだ」
 
 喜多「ひとつ買ってみよう。うまいかな」
 
 弥次「うまいだろうよ。あごがおちるくらいだ」
 
 喜多「おや、餅かと思ったら、薬だ」

 弥次「はははは、こういうこともあろうか。
    ういろうを餅かとうまくだまされてこは薬じゃと苦いかほ(顔)する」
     
 この後に、宿屋で「五右衛門風呂」に入るとき、直接釜になっている桶の底となる板を足下に踏むことを知らない二人珍騒動を起こす話。こちらの方が人口に膾炙しているはず。

 小田原外郎家では「お菓子のういろう」と呼ばれ、ういろう(外郎)薬と区別されている。「白・茶・小豆・黒」と「栗ういろう」がある。
 小田原外郎家は元々薬屋であったため、ういろうに付いてくる説明書きには、胃腸の弱かったり病後の人間や成長期の子供、産婦なども安心して食べられる「栄養菓子」と記載されている。なお小田原城近くの本舗(本店)は、和菓子店や薬局として営業しているほか、1885年(明治18年)の蔵を利用した小規模の博物館を併設している。

 名古屋のういろうの老舗 青柳総本家 1879年(明治12年創業)が製造販売する「青柳ういろう」は、日本一の販売量を誇る。砂糖(しろ)・黒砂糖(くろ)・抹茶・小豆(上がり)・さくらのほか、さまざまな種類が楽しめる。「青柳」の屋号は徳川慶勝から贈られた。1931年(昭和6年)に名古屋駅の構内とプラットホームでういろうの立ち売りを始めた。1964年(昭和39年)に東海道新幹線が開通した後は、青柳ういろうだけが全列車内での車内販売を許されたことから、名古屋ういろうが全国的に知られるようになった[14]。昭和43年に業界に先駆けてういろうのフィルム充填製法を開発。ういろうの包装技術を進化させることで、出来たての風味を閉じ込めういろうの日持ちを伸ばすことに成功し、ういろうの土産需要に貢献した。昭和56年には業界初のひとくちサイズのういろうを発売。 青柳ういろうの有名なローカルCMソングは多くの人に親しまれている。

(以上、「Wikipedia」参照)

「ういろう」(餅菓子)は、名古屋の「青柳総本家」が製造販売する「青柳ういろう」だとばかり思っていた小生。初めて知りました。

 こんな風に寄り道してばかりいるうちに、携帯も電池切れ。写真もここまで。小田原城を横目に見て「小田原」から横浜へと戻ってきました。行く手には「箱根八里」の難所が迫ってきました。

「箱根口」。

新坂。石川啄木歌碑。徳田秋声旧宅。胸突坂。菊坂・・・(本郷の坂。その1。)

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 ついこのあいだ、図書館で、
 
 『江戸と東京の坂』(山野 勝)日本文芸社

なる本を手にしたとき、さっそく出かけてみようと思った。
 坂道を上り、下り・・・。とりわけ「昔のよすが」を今に偲びながら訪ねてみながら、という趣向。

 その手始めに「第一章 本郷の坂」を、筆者が紹介されたコースそのままで歩いてみた。
 山野勝さん、「日本坂道学会」の会長さんとしての長年の実踏と蘊蓄でものされたこの本に従って行けば、初心者でも迷うことなく、足と眼と耳と・・で味わうことが出来る、と安易な思惑。せめて、その中で新しい発見があれば、歩いた甲斐があるというものか。 

 今回のコースは、大江戸線「春日」駅をスタートし、「春日」駅まで戻ってくるという周遊コース。坂道の多さに改めてびっくり!

(「今昔マップ」より)。
 薄いピンク色が台地、薄い緑色が低地を表す。

 それぞれの標高。↓A地点(春日駅付近):約6㍍、←B地点(「菊坂」と「本郷通り」との交差点付近):約20㍍、↑C地点(JR・水道橋駅付近):約4㍍。
 東大の西側付近の標高:約23㍍、「菊坂」の南側も20~21㍍の台地。たしかに上り下りの多い地域。

 道の上り下りは橋を渡るときくらい、という隅田川以東の住民には新しい発見が多そう。

 でも、買い物にお出かけに、どこへ行くにも坂を上ったり、下ったり、それも自転車で、子連れで・・・。お年寄りも大変そう。そういえば、「春日」駅前の駐輪場には「電動付き自転車貸し出し」という表示がありました。

 下りは勢いがつきすぎて危ない、上りはあえぎあえぎ・・・、、膝の負担も。
 車も狭い坂道を転がるように走ってくる、歩行者の避けるのもやっと、というところも。・・・

 坂道の情緒、新たな発見などと悠長なことを考えて、のんきに歩く暇人とは訳が違いそう。邪魔にならない程度に歩くことにします。

春日駅前の案内図。
 おおむね二つの赤い○を歩いたことになる。昼飯休憩タイムも入れて、約2時間40分。(左がほぼ南方向。)



 1880年(明治13年)頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。右上の端に「赤門」。

 「春日」駅の地上口に出てから「白山通り」(中山道)を進み、「西片」(「言問通り」の延長道路)の交差点を右に曲がります。
 
「言問通り」沿いにある「石井いり豆店」。
 明治20年創業のお店。店構えも古さが伝わってくる。

 「菊坂下」の交差点を少し過ぎて右折します。いきなり急な上り坂。

「新坂」。

 区内にある新坂と呼ばれる六つの坂の一つ。『御府内備考』に、「映世神社々領を南西に通ずる一路あり、其窮る所、坂あり、谷に下る、新坂といふ」とある。名前は新坂だが、江戸時代にひらかれた古い坂である。
 このあたりは、もと森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で、石川啄木が、一時移り住んだ蓋平館別荘(現太栄館)をはじめ、高等下宿が多く、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人が多く住んだ。この坂は、文人の逍遥の道でもあったと思われる。

 坂を上り詰めると、左側に「太栄館」という旅館があります。その玄関前に、

「石川啄木の歌碑」。「東海の小島の磯野白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」。

 石川啄木(一(はじめ)・1886~1912)は、明治41年(1908年)5月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館 (オルガノ工場内・現本郷5ノ5ノ6)に下宿した。小説5篇を執筆したが、売込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。前の歌碑の「東海の………」の歌は、この時の歌である。
 赤心館での下宿代が滞り、金田一京助に救われて、同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。3階の3畳半の室に入ったが、「富士が見える、富士が見える」と喜んだという。
 ここでは、小説『鳥影』を書き、東京毎日新聞社に連載された。また、『スバル』が創刊され、啄木は名儀人となった。北原白秋、木下杢太郎や吉井勇などが編集のため訪れた。
 東京朝日新聞社の校正係として定職を得、旧本郷弓町(現本郷2ノ38ノ9)の喜の床に移った。ここでの生活は9か月間であった。
 蓋平館は、昭和10年頃大栄館と名称が変ったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。

父のごと 秋はいかめし
母のごと 秋はなつかし
家持たぬ児に      (明治41年9月14日作・蓋平館で)

-郷土愛をはぐくむ文化財-文京区教育委員会  昭和56年9月
「太栄館」前から「新坂」を望む。

 その旅館も今年の6月に閉館となってしまいました。


 閉館のお知らせ
平成26年6月をもちまして閉館致しました。
これまでの永年にわたるご愛顧に心より深く感謝申し上げます。

 さらに奥へ進み、路地を入ると、徳田秋声の旧宅があります。



東京都指定史跡
徳田秋声旧宅
 徳田秋声(1871~1943)は、明治から昭和初期にかけて活躍した小説家です。明治4年(1871)現在の石川県金沢市に生まれました。明治29年(1869)に発表した「藪かうじ」で文壇に初登場しました。
 この家には、明治38年(1905)から73歳で亡くなるまで約38年間居住し、創作活動を行っていました。秋声は自然主義文学の第一人者として名を馳せ、「新世帯」「足跡」「黴」「爛」「仮装人物」 などを執筆し、「仮装人物」で第1回菊池寛賞を受賞しています。これらの代表作はすべてこの家で書かれています。
 旧宅は、明治末期に建築された母屋とその後に増築された離れの書斎、そして二階建て住宅部分、庭などで構成されています。日常愛用の蔵書、調度品、日記、原稿など、遺品もきわめて多く保存されています。指定地域面積は訳445.5㎡です。
平成22年3月 建設
 東京都教育委員会


  
                              「竹藪」。


 隣家と二棟が昔の面影を残しているだけのようですが、周囲は、雰囲気の落ち着いた住宅街です。



 しばらく路地を右左折していくと、左手に「旅館・鳳明館」があります。その先は急な坂。

  
 前方を歩いていた女性の姿が一瞬のうちに見えなくなった。

 この胸突坂を含め、区内には胸突坂と呼ばれる坂道が3ヶ所あります。その一つ、西片2丁目と白山1丁目の間にある胸突坂については、「坂路急峻なり、因て此名を得」(『新撰東京名所図会』)とあり、もう一つ関口2丁目と目白台1丁目の間にある胸突坂については、「あまりに坂之けはしくて胸をつくばかりなれば名付といふ」(『御府内備考』)とあります。本郷5丁目にある、こちらの胸突坂も、他の2つの胸突坂同様に急な傾斜の坂道です。坂名もやはり、その急な傾斜に由来するものでしょう。
(「」HPより)

坂の下から見上げたところ。
 
 そのまま下ると、「菊坂」に合流します。
「菊坂下」を望む。

菊坂 ―樋口一葉ゆかりの坂道―
 本郷通りにある小さな坂、見送り坂・見返り坂が落ち合う地点から菊坂下交差点まで続く、長くゆるやかな坂道が、現在、菊坂と呼ばれています。江戸の地誌を見ると、「本郷丸山本妙寺の前なる坂をいふ也」(江戸鹿子)、「菊坂はもと菊坂町より東に向ひ、台町に上る急坂の名なりし」(新撰東京名所図会)などとあり、本妙寺坂・胸突坂、そのほか梨木坂など、菊坂周辺の坂道も、かつては菊坂と呼ばれていた時期があったようです。
 菊坂には、くらしに困った樋口一葉がたびたび通った旧伊勢屋質店の土蔵(国登録文化財)も現存します。菊坂中腹からやや北には、かつて宇野浩二・竹久夢二・谷崎潤一郎・広津和郎・・・多くの文人たちが止宿した菊富士ホテル跡地があります。
 菊坂は、近代文学の香が残る坂道です。
(「同」より)

「本郷菊坂 ゑちごや」。創業は明治10年とか。

 緩やかな上り坂を進みます。この界隈にはまだまだ見所がたくさんあります。 

鐙坂。樋口一葉。炭団坂。宮沢賢治。本妙寺坂。振袖火事。・・・(本郷の坂。その2。)

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 しばらく坂を上っていくと、樋口一葉ゆかりの「伊勢屋質店」。

  

一葉ゆかりの伊勢屋質店

 万延元年(1860)、この地で創業し、昭和57年(1982)に廃業した。樋口一葉(1872-96)と大へん縁の深い質店であった。
 一葉の作品によると、一葉が明治23年、近くの旧菊坂町(現本郷4丁目)の貸家に母と妹と移り住んでから、度々この伊勢屋に通い苦しい家計をやりくりした。明治26年、下谷竜泉寺町に移ってからも、終焉の地(現西片1-17-8)にもどってからも、伊勢屋との縁は続いた。
 一葉が24歳の若さで亡くなった時、伊勢屋の主人が香典をもって弔ったことは、一葉とのつながりの深さを物語る。店の部分は、明治40年に改築した。土蔵は外壁を関東大震災後ぬり直したが、内部は往時のままである。
~一葉の明治26年5月2日の日記から~
此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず。小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につつみて、母君と我と持ちゆかんとす。

  蔵のうちにはるかくれ行くころもがへ

 東京都文京区教育委員会 昭和63年3月

 樋口一葉は本郷界隈に約10年間暮らしましたが、晩年は生活が貧窮し、明治29年に24歳で亡くなる間際まで伊勢屋質店に通ったことが日記に記されています。
伊勢屋質店は昭和57年に廃業しましたが、今でも蔵や見世などの建物が大切に保存されています。
毎年、一葉忌の11月23日のみ、所有者のご協力で一般公開していますので、この機会にぜひご覧ください。
(「HP」より)

 「ズボン堂」から菊坂を振り返る。

 右手にある石段を下ると、菊坂に並行した細い路地(かつては細い流れがあったが、現在は暗渠)に出ます。
銭湯「菊水湯」。

(「文京区浴場組合」HPより)。ちなみに「文京区浴場組合」に加盟している銭湯は、8ヶ所。

 「菊水湯」の手前を左折。
「鐙(「あぶみ)坂」。

 本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は、「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(『江戸志』)とか、その形が「鐙に似ている」ということから名付けられた(『改選江戸志』)などといわれている。
 この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。



 乳児がだだをこねて坂道に座り込んでいる。

 上っていくと、

「金田一京助・春彦旧居跡」。

金田一京助・金田一春彦 旧居跡

 金田一京助(言語学者)は、明治15年(1882)岩手県盛岡に生まれた。
 東京大学言語学科卒業後、昭和17年(1942)から同大学において教授として教鞭を執り、のちに国学院大学教授となった。
 東京大学在学中からアイヌ民族に関る言語、文学、民族の研究を始め、北海道・サハリン(樺太)のアイヌ居住地を歴訪し、実地調査と研究により、アイヌ語を初めて学問的に解明し、アイヌの叙事詩ユーカラを世に始めて紹介した。アイヌに関る多くの著書は、日本列島における北方文化を学ぶ者の原点ともなっている。これら数々の功績により、昭和29年(1954)には、文化勲章が授与された。
 盛岡中学時代、2年下級に石川啄木が在籍していた。石川啄木は中学を卒業後、盛岡から上京、京助を尋ね、急速に文学への関心を高めていった。京助は啄木の良き理解者であり、金銭的にも、精神的にも、類まれな援助者であった。

 金田一京助の長男、春彦(国語学者)は、大正2年(1913)ここ本郷の地で生まれた。大正9年(1920)からの5年間、近くの真砂小学校(現本郷小学校)に在籍。この頃唱歌の音階に関心を持ち、それが後の平家琵琶やアクセント研究のきっかけとなった。東京大学国文学科を卒業後、名古屋大学・東京外国語大学、上智大学などで教鞭を執った。
 全国各地のアクセントを調査研究し、国語アクセントが歴史的かつ体系的に変化することを初めて実証した。また、数多くの国語関係辞書等を編纂を通じて、その研究成果を一般に普及させた。第50回(平成9年度)文化功労者表彰受賞、平成13年度東京都名誉都民。
 東京都文京区教育委員会 平成16年(2004)3月

「旧真砂町」。

 寛永(1624~44)以来、真光寺門前と称して桜木神社前の一部だけか町屋であった。明治2年、古庵屋敷を併せて真砂町の新町名をつけた。浜の真砂のかぎりないようにと町の繁栄を願って命名した。(泉鏡花の)「婦系図」など数多い小説の舞台ともなり、文人も多数この地に住んだ。  文京区  
                      
「鐙坂」を望む。ここも急坂。

石垣下の建物。

 再び先ほどの細い道に戻ってきます。
 
細い路地。

 そんな路地の奥に「樋口一葉」の旧居跡。

  
井戸。                            突きあたり。

お休み処「ひとは」。

「炭団坂」。

 本郷の台地より菊坂方面へ下る急な坂道で、現在は53段の階段坂となっています。坂名由来は、「往昔炭団を商ふ者多く居りしに因り」(『新撰東京名所図会』)、あるいは「切立てにて至て急成坂に有之候、往来の人転び落候故」(『御府内備考』)などの説があります。
ちなみに炭団とは炭にふのりなどを混ぜ、球状に固めた燃料のことです。丸い炭団のように転げ落ちる、あるいは転んで炭団のように真っ黒になるということでしょうか。
明治40年頃の炭団坂(新撰東京名所図会 49)
 この炭団坂上には、かつて坪内逍遥がくらし、明治18年、『小説神髄』『当世書生気質』を発表しました。少し大げさに言えば、炭団坂はまさに近代文学発祥の坂道ということになります。逍遥転居後、そこは旧松山藩主久松家運営の寄宿舎「常盤会」となり、正岡子規・河東碧梧桐・高浜虚子など、後に日本の俳壇を担う人々が青春時代を過ごします。その様子を描いた作品に司馬遼太郎『坂の上の雲』があります。
(「」HPより

 戻ってきた道の左側、「菊坂」への階段のところに「宮沢賢治旧居跡」。



宮沢賢治旧居跡

 宮沢賢治[明治29年(1896年)-昭和8年(1933年)]は詩人・童話作家。花巻市生まれ。大正10年(1921年)1月上京、同年8月まで本郷菊坂町75番地稲垣方2階6畳に間借りしていた。菜食主義者で馬鈴薯と水の食事が多かった。右手建物の2F中央付近です。
 東京大学赤門前の文信社(現大学堂メガネ店)で謄写版刷りの筆耕や校正などで自活し、昼休みには街頭で日蓮宗の布教活動をした。これらの活動と平行して童話・詩歌の創作に専念し、1日300枚の割合で原稿を書いたといわれている。童話集『注文の多い料理店』に収められた「かしわばやしの夜」、「どんぐりと山猫」などの主な作品はここで書かれたものである。
 8月、妹トシの肺炎の悪化の知らせで急ぎ花巻に帰ることになったが、トランクにはいっぱいになるほど原稿が入っていたという。

-郷土愛をはぐくむ文化財-
  東京都文京区教育委員会  平成9年3月

 右側の建物というと、これでしょうか?



 しばらく行くと、「本妙寺坂」と交差します。

「案内図」現在地に当たるところに設置されてある。

 菊坂との交差点を底にして左右(南北)を合わせて二つの坂が「本妙寺坂」となっています。(標高:南から北へ:21㍍→18㍍→23㍍)

南側を望む。

二つの説明板。



本妙寺跡と明暦の大火

 本妙寺(現在豊島区巣鴨5-35-6)は、旧菊坂82番地(現本郷5-16)の台地一帯にあった法華種の大寺院であった。寺伝によれば寛永13年(1636)にこの地に移ってきた。
 境内には北町奉行”遠山の金さん”こと遠山左衛門尉景之、幕末の剣豪千葉周作や囲碁の本因坊歴代の墓所があった。
 明暦3年(1657)の大火”振袖火事”の火元とされているが、原因には諸説がある。この大火後、幕府は防火対策を中心に都市計画を打ち出し、文京区の地域には寺社武家屋敷などが多く移転してきて、漸次発展することになった。

私立女子美術学校菊坂校舎跡
 この地に,明治42年(1909)佐藤志津校長らの尽力により,私立女子美術学校【現女子美術大学・同短期大学:創立明治33年(1900)本郷弓町】・佐藤高等女学校【現同大学付属高等学校・中学校:創立大正4年(1915)】の菊坂校舎が建設された。特に女子を対象とした美術教育の専門学校として画期的な役割を果たしたが、さらに大規模な校地を求め、昭和10年(1931)現杉並区和田へ移転した。
 東京都文京区教育委員会 平成12年3月
 
明暦の大火(めいれきのたいか)
 明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。

 この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。江戸城天守はこれ以後、再建されなかった。

 火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。日本ではこれを、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えることもある。
 明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。御三家の屋敷が江戸城外へ転出。それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。防備上千住大橋のみしかなかった隅田川への架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など、市街地が拡大した。吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。市区改正が行われた。
 防災への取り組みも行われた。火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。現在でも上野広小路などの地名が残っている。幕府は耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励したが、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。

 『むさしあぶみ』より、明暦の大火当時の浅草門。牢獄からの罪人解き放ちを「集団脱走」と誤解した役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った多数の避難民が炎に巻かれ、塀を乗り越えた末に堀に落ちていく状況。
この火災の特記すべき点は火元が1箇所ではなく、本郷・小石川・麹町の3箇所から連続的に発生したもので、ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来から続く古い密集した市街地においてはそのすべてが焼き尽くされた点にある。このことはのちに語られる2つの放火説の有力な根拠のひとつとなっている。

当時の様子を記録した『むさしあぶみ』によると、前年の11月から80日以上雨が降っておらず、非常に乾燥した状態が続いており当日は辰の刻(午前8時頃)から北西の風が強く吹き、人々の往来もまばらであったとある。
3回の出火

1.1月18日(3月2日)未の刻(14時頃)、本郷丸山の本妙寺より出火。神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及ぶ。霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡、浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った2万人以上が犠牲となる。
2.1月19日(3月3日)巳の刻(10時頃)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火。飯田橋から九段一体に延焼し、江戸城は天守閣を含む大半が焼失。
3.1月19日(3月3日)申の刻(16時頃)、麹町5丁目の在家より出火。南東方面へ延焼し、新橋の海岸に至って鎮火。

 火災後、身元不明の遺体は幕府の手により本所牛島新田へ船で運ばれ埋葬されたが、供養のために現在の回向院が建立された。また幕府は米倉からの備蓄米放出、食糧の配給、材木や米の価格統制、武士・町人を問わない復興資金援助、松平信綱は合議制の先例を廃して老中首座の権限を強行して1人で諸大名の参勤交代停止および早期帰国(人口統制)などの施策を行って、災害復旧に力を注いだ。松平信綱は米相場高騰を見越して幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡した。そのため江戸で大きな利益を得られると地方の商人が米を江戸に送ってきたため、幕府が直接に商人から必要数の米を買い付け府内に送るより府内は米が充満して米価も下がった。

火元についての諸説
一般に広く知られているので記述する。いずれにしても真相は不明である。

・本妙寺失火説

 振袖火事とも呼ばれるゆえんは以下のような伝承があるためである。

 お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(16)は、本郷の本妙寺に母と墓参に行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり赤面して下を向く。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か食欲もなくし寝込んでしまう。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていた服と同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。だがいたましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。
 当時こういう棺に掛けられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16)のものとなる。ところがこの娘もしばらくの後に病となって亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺に掛けられ本妙寺に運び込まれてきた。
 さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ちあがったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。
 この伝説は、矢田挿雲が細かく取材して著し、小泉八雲も登場人物は異なるものの、記録を残している。

・幕府放火説

 幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したとする説。

 当時の江戸は急速な発展による人口の増加に伴い、住居の過密化をはじめ、衛生環境の悪化による疫病の流行、連日のように殺人事件が発生するほどに治安が悪化するなど都市機能が限界に達しており、もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていた。しかし、都市改造には住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁となっていた。そこで幕府は大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば都市改造が一気にやれるようになると考えたのだという。江戸の冬はたいてい北西の風が吹くため放火計画は立てやすかったと思われる。実際に大火後の江戸では都市改造が行われている。一方で先述のように江戸城にまで大きな被害が及ぶなどしており、幕府放火説の真偽はともかく、幕府側も火災で被害を受ける結果になっている。

・本妙寺火元引受説

 実際の火元は老中・阿部忠秋の屋敷であった。しかし老中の屋敷が火元となると幕府の威信が失墜してしまうということで幕府の要請により阿部邸に隣接した本妙寺が火元ということにし、上記のような話を広めたのだとする説。これは火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか、元の場所に再建を許された上に触頭にまで取り立てられ、大火以前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家より毎年多額の供養料が納められていたことなどを論拠としている。本妙寺も江戸幕府崩壊後はこの説を主張している。
(以上、「Wikipedia」参照)

「公立小学校のさきがけ・第四(本妙寺)校舎跡」。

 明治5年(1872),近代教育制度の基となる「学制」が決められた。それに先立ち東京府は,明治3年(1870)年6月,市内に6つの小学校を開設した。
 最初の公立小学校である。そのうちの1校が,この地(旧本郷丸山)にあった「本妙寺」に置かれた「第四校」である。
 この小学校は,中学に進み専門学科を学ぶ者のために普通学を授けた。そのため程度も高く、主に漢籍を教授した。
 開校当時の生徒数は不詳であるが、職員は7名であった。
 翌4年(1871)12月,文部省直轄の「共立学校」となり,近くの麟祥院(旧龍岡町)境内に移った。今日の湯島小学校の前身である。
     東京都文京区教育委員会 平成元年11月

※この当時の「第一校」は、現港区立御成門小、「第二校」は、現千代田区立番町小、「第三校」は、現新宿区立愛日小。

本郷菊富士ホテル。かねやす。油坂。建部坂。・・・(本郷の坂。その3。)

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 「菊坂」を左に折れ、「本妙寺坂」の途中にあるマンション「プラウド本郷」の正面玄関には、本郷にゆかりの「文人」の名前と句が刻まれています。
 
蔵のうちに はるかくれ行 ころもがえ  一葉    生きのびて 又夏草の 目に沁みる 秋声

「近代文学発祥の地 本郷 近隣に住んだ人々」

樋口一葉 石川啄木 坪内逍遙 徳田秋声 宮沢賢治 二葉亭四迷 竹久夢二 大杉 栄 谷崎潤一郎 直木三十五 宇野浩二
広津和郎 伊藤野枝 高田 保 宇野千代 尾崎士郎 宮本百合子 石川 淳 月形竜之介 坂口安吾 他

「坂」を左に曲がった、奥の突きあたり。

  
                      「本郷菊富士ホテルの跡」碑。

 宇野浩二・宇野千代・尾崎士郎・直木三十五・広津和郎・竹久夢二・谷崎潤一郎・宮本百合子・坂口安吾・大杉栄・伊藤野枝…、菊富士ホテルに止宿した錚々たる顔ぶれです。菊富士ホテルは、明治29年より下宿・菊富士楼を経営していた岐阜県大垣出身の羽根田幸之助・菊江夫妻が、大正3年、菊富士楼隣地に開業したものです。同年開催の東京博覧会に訪れる客をあてこんでの経営でしたが、次第に文人たちの集まる宿となり、さまざまなドラマが繰り広げられる舞台となりました。建物は戦災を受け焼失、跡地には昭和52年、羽根田家により止宿者の名を刻む石碑が建立されました。
(「」HPより)

 「菊坂」に戻り、「本郷通り」へ向かいます。
  
東南(本郷通り)方向。                    西北(歩いてきた)方向。

「本郷通り」。中央奥の右に「赤門」。

 この通りは、現在の「春日通り」を境にして、「見返り坂」「見送り坂」と呼ばれていました。

「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと・・・・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を堀出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり・・・・・・太田道灌(1432~86)の頃在任など此所よりおひはなせしかは、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。
 この前方の本郷通りはややへんこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、菊坂の谷にそそいでいた、『新撰東京名所図会』(明治40年刊)には、「勧業場本郷館(注・現文京センター)の辺は、地層やや低く、弓形にへこみを印す、其くぼめる所、一条の小渠、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。
 江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。・・・

 その交差点の南西角にあるのが「かねやす小間物店」。日用雑貨を扱うお店。休業日のようで、シャッターが閉まっていました。

  
                      「本郷もかねやすまでが江戸の内」。

かねやす

 兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、 乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判になり、客が多数集まり祭りのように賑わった(御府内備考による。)。
享保15年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は、 塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ、瓦で葺くことを許した。 江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、 それからの中仙(中山)道は板や茅葺の家が続いた。
 その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。
 「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」 と古川柳に歌われた由縁であろう。
 芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。 時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。 それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。
     文京区教育委員会 昭和61年3月

「本郷通り」を南に向かう。

 「壱岐坂上」の交差点を右に曲がり、一本目を左に曲がります。

「東京都水道歴史館」。

  

 その脇の坂道を南下すると、左右に「順天堂大学」校舎に出ます。この日は、記念行事があるようで、関係者がたくさん警備・誘導に当たっていました。

「油坂」。

油坂(揚場坂)

 この坂は、油坂または揚場坂と呼ばれている。坂の左側は本郷給水所公苑である。『油坂、元町1丁目と東竹町辺の間を南に下る坂あり、油坂と呼ぶ』(新撰東京名所図会)とあるが、その名の起りは不明である。
 この坂は別名『揚場坂』といわれているが、その意味は神田川の堀端に舟をつけて、荷物の揚げおろしをするため、町内地主方が、お上に願って場所を借りた荷あげ場であった。この荷揚場所に通ずる坂位置を揚場坂道と呼んだのがのちに『揚場坂』と言われるようになった。
 『揚場坂と申し、里俗に近辺には無御座候得共、町内、持揚場御茶ノ水河岸内に有之候に付、右揚場坂道を他所の者、揚場坂と唱候儀も有之趣に御座候』(御府内備考より)
    文京区教育委員会 昭和62年3月

北方向を望む。

 すぐ西側にある坂。
「富士見坂」。といっても、全く富士山は見えない。外堀通り(お茶の水坂)を望む。 

  
 「建部坂(初音坂)」。もう一つ西側にある坂。右の公園は、「元町公園」。(「関東大震災」での復興を意図した)「震災復興52小公園」のうちの一つで、原型に近い形で復元された。
 すでに当blogで一連の「震災復興小公園」52ヶ所を紹介済み。

建部坂(初音坂)

 『新撰東京江戸名所図会』に「富士見坂の北(注・西)にある坂を建部坂といふ。幕士建部氏の邸地あり因て此名に呼び做せり」とある。嘉永3年(1850)の『江戸切絵図』で近江屋板を見ると、建部坂の上り口西側一帯(現在の元町公園)に建部氏の屋敷が見える。直参、千四百石で、八百八十坪(約2900㎡)であった。
 『御府内備考』に次のような記事がある。建部六右衛門様御屋舗は、河岸通りまであり、河岸の方はがけになっている。がけ上は庭で土地が高く、見晴らしが良い。がけ一帯にやぶが茂り、年々鶯の初音早く、年によっては十二月の内でも鳴くので、自然と初音の森といわれるようになった。明和9年(1772)丸山菊坂より出火の節、やぶが焼けてしまったが、今でも初音の森といっている。初音の森の近くで、一名初音坂ともいわれた。
    文京区教育委員会 平成14年3月

「元町公園」正面。

 前の通り「外堀通り」の坂が「お茶の水坂」。順天堂大からは「水道橋」(「白山通り」)までの下り坂。

二連式のすべり台。

隣接して建てられた旧「元町小」校舎。この校舎も「震災復興校舎」の一つ。

 昨年の今頃、このblogで掲載したとき、この一帯の再開発(旧校舎を取り壊して総合体育館を建設する?)計画が持ち上がっていました。その後、どうなっているのでしょうか? 公園自体には手を加えないようですが。

忠弥坂。壱岐坂。新坂。大クスノキ。旧東富坂。・・・(本郷の坂。その4。)

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 建部坂を上り、二本目を左折し、突きあたり、「桜蔭学園中高」の校舎沿いに右折すると、「忠弥坂」。下校時のため、けっこう女子学生が華やいだ雰囲気で通る。この辺りをうろうろして写真を撮ったら不審者扱い、間違いなし。

 途切れたところで、パチリ。眼下に都立工芸高校のモダンな建物や水道橋方向のビル街が開けてきます。

  

忠弥坂

 坂の上あたりに丸橋忠弥の槍の道場があって、忠弥が慶安事件で捕えられた場所にも近いということで、この名がつけられた。
 道場のあった場所については諸説がある。
 “慶安事件”は、忠弥が由井正雪とともに、慶安4年(1651)江戸幕府の転覆を企てて失敗におわった当時の一大事件であった。
 忠弥の名は、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物としても有名である。
    東京都文京区教育委員会 平成元年3月

 
                   「宝生能楽堂」脇からの「忠弥坂」。

 「宝生能楽堂」の所を右折すると、「金刀比羅宮東京分社」。その先の角地に。

「讃岐うどん大使 水道橋麺通団」なるうどん屋さん。絶妙なポジション。ここで、遅い昼食。「肉うどん」と「おいなりさん」。けっこうなボリュームと味でした。

 みなさんのお陰とスタッフの努力で、1号店の吉祥寺麺通団が軌道に乗り、さらにこの美味いうどんをもっと多くの人に伝えたい!という想いがつのり…
 そうだ! 東京の中心に店を出そう! しかも、全国の誰もが知っている場所がいい。例えば東京ドームとか。
 そこで、東京ドームの周辺を見ていたら、なんと我らが神「こんぴらさん」こと「金比羅宮」があった!!のです。(その隣には金比羅会館までも!)
 金比羅様が我々を迎えてくれている! なんとしてでもここに出店しなければ!と。
 そして2009年7月22日、念願叶って東京ドームのお膝元「水道橋」に、それもこんぴらさんの隣にオープンすることができました。
 本場さぬきから東京に移住したうどん職人が「これぞ讃岐うどん!」を伝えるうどん伝道師として、これからも腰を入れまくって美味しいうどんを作っていきます。
HPより。

 そのまま北に向かうと、「新壱岐坂」通りに出ます。

「元町」由来説明板。

 通りの脇の茂みの中に女性の立像・ブロンズ像と「壱岐坂」由来碑。先ほど右に曲がって通ってきた細い路地が「壱岐坂」の一部でした。

 
 
 かつて、「壱岐坂」は、「白山通り」から「東洋学園大」の北側を抜け、広い「新壱岐坂」を越えて、東、現「本郷通り」に通じていた道でした。現在、「壱岐坂」の由来碑は「東洋学園大」脇に設置されているらしく、この「由来碑」は、設置されたまま埋もれてしまったのか? 文面も絵図も判読しずらくなっていました。

 ・・・この坂は、昔、この地にあった小笠原壱岐守の下屋敷にちなんで壱岐殿坂と呼ばれていました。
 当時、小笠原家は九州佐賀肥前唐津藩六万石の大名でした。
 壱岐坂は白山通りから上り、東洋女子短大の所で大横町へ至る坂道です。

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 ↓に「「壱岐坂」とあります。「壱岐坂」は、道幅も広く、当時の本郷区(高台のところ)、小石川区(谷のところ)を結ぶ重要な交通幹線の役割をしていたようです。左が「砲兵工廠」(現・東京ドーム。江戸時代には水戸藩の広大な上屋敷)方向。




 しつこいですが、この付近の変遷を。(以下、「今昔マップ」より)※薄いピンク色の地域は高台。薄い緑色が谷筋。

1920年頃(大正中期)。↓が「東富坂」、↑が「壱岐坂」。まだ「新壱岐坂」が完成していない。○が「砲兵工廠」。
1930年頃(昭和5年)。↑には「新壱岐坂」が完成し、旧「壱岐坂」は分断されている。
1965年頃(昭和45年)。「後楽園球場」と「競輪場」等。※「後楽園球場」は、1937年(昭和12年)9月に開場。
現在。「東京ドーム」中心の施設に。

 「新壱岐坂」を少し西に進むと、「白山通り」との交差点「壱岐坂下」。


 その交差点を渡って右斜めに入る道を進むと、石段が見えてきます。


「新坂(外記坂)」。

 区内には、新坂と呼ばれる坂が六つある。『東京案内』に、「壱岐坂の北にありて小石川春日町に下るを新坂といふ」とある。  『江戸切絵図』(嘉永6年尾張屋清七板)によると、坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があり、ゲキサカとある。新坂というが、江戸時代からあった古い坂である。
 この坂の一帯は、もと御弓町、その後、弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年ごろ)御弓組の与力同心六組の屋敷がおかれ、的場で弓の稽古が行われた。明治の頃、石川啄木、斎藤緑雨、内藤鳴雪などの文人が住んだ。

  東京都文京区教育委員会 昭和63年3月

坂の上から望む。

 突き当たりにある旅館が「朝陽館本家」。純和風。建物は、1904(明治37)年に建てられ、90年近く後、改築された、という。
 本郷界隈にはこうした純和風の旅館が点在しています。ずいぶん前は修学旅行生などが大いに利用していたと聞いたことがありますが、今どきの子どもも先生も、こういう和風には慣れていない? 経営は大変なのではと余計な心配をしてしまいます。
 近隣には、高層の近代的なマンションやホテルもあるようですし、・・・。

  


 「朝陽館」を回り込むと、左手にクスノキの大木が。

 
 
 
本郷弓町のクス

 東京都文京区本郷1丁目に生育するクスノキの巨木。推定の樹齢は600年といわれ、江戸時代には『本郷のクスノキ』と呼ばれて名高い木であった。東京都心に残る有数のクスノキの巨木であり、文京区の保護樹木。
 推定の樹齢は600年、樹高は20メートル、幹回りは8.5メートル。この木の名称となっている「本郷弓町」(ほんごうゆみまち)とは、かつての旧町名である。
 大正期から昭和期にかけて小説家・俳人として活動した矢田挿雲(1882年 - 1961年)が1920年(大正9年)から数年にわたって報知新聞に連載した『江戸から東京へ』という文に、この木が登場する。矢田によると、江戸時代には「本郷のクスノキ」と呼ばれて有名だったといい、『高さ六丈、幹囲一丈六尺に及ぶ魔の如き大楠』と記述している。明治時代の『東京名所図会』では、『弓町一丁目八番地の前を過る者は、何人も其の門内に註連を結びし老楠樹あるを見るべし。一丈餘の上より三幹に分れ、根株の大きさは三圍許あり』と記述している。
 この付近は江戸城から見て鬼門にあたり、御弓組与力同心が屋敷を置いていたため「御弓町」と呼ばれていた。江戸末期に作られた本郷界隈の切絵図では、この付近は「甲斐庄喜右衛門」という旗本の屋敷であった。甲斐庄氏は楠木正成の後裔といい、河内国錦部郡甲斐庄(現在の大阪府河内長野市付近)を領有していたことからこの姓を名乗ったという。
 戦国時代末期に、一族の甲斐庄兵右衛門正治という武士が徳川家康に仕えることになった。正治は200石を給されたが、その子喜右衛門正房の代で600石に加増された。正房は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いや1614年(慶長19年)の大坂の陣で武功を上げ、先祖の地である河内国に領地をもらって2000石を知行された。甲斐庄氏は正房以後代々「喜右衛門」を名乗り、寛政の頃には知行4000石までに至っている。
 幕藩体制が瓦解した後、甲斐庄氏は姓を「楠」と改めたといわれる[8]。御弓町は1872年(明治5年)に町名を「本郷弓町」と改め、さらに1965年(昭和40年)4月1日の住居表示で本郷の一部となって「弓町」の名はわずかに周囲のビル名などに名残を残すのみとなった。甲斐庄氏の後裔は明治時代には屋敷と土地を維持していたが、大正時代初めに別の人に屋敷と土地を譲渡した。新しい所有者は、古い屋敷を取り壊して木造の西洋館を建築した。その西洋館も後には別の人が所有することになったが、この木は敷地の一角に残された。
 その後西洋館は取り壊されて西側にマンションが建築されたが、この木は大切に保存されていて樹勢も旺盛であり、剪定の際にはクレーン車2台がかりでの作業になるほどという。小説家の司馬遼太郎は1991年にこの木を訪ね、その印象と由来を『街道をゆく 本郷界隈』に記述している。
 (「以上、「Wikipedia」参照)

 「春日通り」に出て、西の方に向かいます。
緩やかな下り坂。「東富坂(真砂坂)」
 現在の「東富坂(真砂坂)」は、本郷3丁目から伝通院まで、路面電車(市電)を通すにあたり、旧東富坂上から春日町交差点まで新しく開いたゆるやかな坂道。
 この市電は、1908年(明治41年)4月11日に開通した。現在、文京区役所をはさんで反対側にある坂を、「富坂(西富坂)」と呼び、区別している。

 広い「春日通り」から左に入ると、丸ノ内線に沿った下り坂になります。
「旧東富坂」。

 むかし、文京区役所があるあたりの低地を二ヶ谷といい、この谷をはさんで、東西に二つの急な坂道があった。
 東の坂は、木が生い繁り、鳶がたくさん集ってくるので、「鳶坂」といい、いつの頃からか、「富坂」と呼ぶようになった。(『御府内備考』による)富む坂、庶民の願いがうかがえる呼び名である。
 また、二ヶ谷を飛び越えて向き合っている坂ということから「飛び坂」ともいわれた。明治41年、本郷3丁目から伝通院まで開通した路面電車の通り道として、現在の東富坂(真砂坂)が開かれた。それまでは、区内通行の大切な道路の一つであった

   東京都文京区教育委員会 昭和63年3月

坂の下から望む。

 こうして、再び「白山通り」に出て、「春日」駅に戻ってきました。次回は、春日駅の西方に向かいます。

 所要時間:約2時間45分(11:00~13:45。昼食含む) 

富坂。六角坂。善光寺坂。ムクノキ。安藤坂。・・・(春日・小石川の坂。その1。)

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 今度は、大江戸線「春日」から西に向かいます。14:50~16:50、約2時間の探索。本郷台地から小石川・神田川筋の谷、そして小石川台地へ進みます。

「東京の地形図」(国土地理院・関東地方測量部)。↓が本郷・春日・小石川付近。

「春日局」像(「礫川公園」)。

文京区と春日局

 文京区「春日」の地名は春日局が乳母として使えた三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し昔は春日殿町とよばれていました
 また春日局の菩提寺麟祥院が湯島にあり文京区は春日局と歴史的に深い縁があります
昭和64年1月(1989)より一年間NHK大河ドラマ「春日局」が放映されました 文京区ではこれを契機として「文京区春日局推進協議会」を設立し 区民の皆様と共に区内の活性化 地域の振興を図ることを目的として種々の事業を推進しました  ここに本事業を記念して春日局像を建立することにいたしました

平成元年12月吉日
 文京区春日局推進協議会
 文京区
 文京区産業連合会
 東京商工会議所文京支部
 文京区観光協会
 文京区商店街連合会
 文京区町会連合会
 文京区旅館共同組合

 「春日通り」の坂を上ります。この坂が「富坂」。「白山通り」を挟んだ東にある「(東)富坂」と区別するために「西富坂」といいます。


富坂

「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶多くして女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と「紫一本」にある。鳶が多くいたので、鳶坂、転じて富坂となった。
 また、春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。都内に多くある坂名の一つである。
 この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、“アララギ”の編集にあたっていた。
    「富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは」
        島木赤彦(本名 久保田俊彦 1876~1926)
 
        文京区教育委員会   平成12年3月


説明板付近から白山通り方向を望む。

 春日通りを渡って北に向かう。このあたり、東側に下る坂道が多くあります。



 坂の下に“こんにゃくえんま”の伝説で名高い「源覚寺」がある「堀坂(宮内坂・源三坂)」など・・・。

 下って右に直角に曲がる坂道。

来た道を振り返る。

「六角坂」。

六角坂

 「六角坂は上餌差(えさし)町より伝通院の裏門の前に出る坂なり、古くより高家六角氏の屋敷の前なる坂故にかくいへり」(『改撰江戸志』)とある。
 『江戸切絵図』(万延2年(1861)の尾張屋清七板)をみると、この坂が直角に曲がっているあたりに、六角越前守の屋敷があったことがわかる。
 餌差町は、慶長年間(1596~1615)、鷹狩りの鷹の餌になる小鳥を刺し捕らえることを司る「御餌差衆」の屋敷がおかれた所である。近くに歌人・島木赤彦が下宿し、『アララギ』の編集にあたった「いろは館」があった。

       東京都文京区教育委員会    昭和63年3月


 左に回り込み、坂道を上がっていくと、「善光寺坂」の説明板。



 坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院と称した。明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院と なった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の歩道のまん中に椋の老木がある。古来、この木には、坂の北側にある稲荷に祀られている、澤蔵司の魂が宿るといわれている。なお、坂上の慈眼院の境内には礫川や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。
  “一しぐれ 礫や降りて 小石川” はせを(芭蕉)
 また、この界隈には幸田露伴(1867~1947)・徳田秋声(1871~1943)や島木赤彦(1876~1926)、古泉千樫(1886~1927)ら文人、歌人が住み活躍した。

     文京区教育委員会

振り返って望む。
長く続く坂道。奥に「ムクノキ」の大木が見える。そのすぐ右手(北側)の白い壁の家(「沢蔵司稲荷」並び)は、幸田露伴「蝸牛庵」旧居跡で、露伴の孫の青木玉氏らが住んでいる。青木玉著『小石川の家』『上り坂下り坂』。

  

「善光寺坂のムクノキ」。

 文京区指定天然記念物 ムクノキ
 樹高約13m(主幹約5m)、目通り幹周約5mを計り、推定樹齢約400年の古木である。第二次世界大戦中、昭和20年5月の空襲により樹木の上部が焼けてしまったが、それ以前の大正時代の調査によると樹高約25mもあった。
・・・
 樹幹上部が戦災により欠損し、下部も幹に炭化した部分が見受けられるが、幹の南側約半分の良好な組織から展開した枝葉によって樹冠が構成されている。枝の伸び、葉の大きさ、葉色ともに良好であり、空襲の被害を受けた樹木とは思えないほどの生育を示している。
 本樹の戦災をくぐりぬけ、地域住民と長い間生活を共にし、親しまれてきたものであり、貴重な樹木である。

    平成26年1月    文京区教育委員会


《小石川空襲の手記》(2012年放送NHKスペシャル「東京大空襲」に寄せられたもの)(「NHK」HPより) 

 日にちは昭和20年の5月○○日と聞いていますが、私は母と姉と3人で、小石川植物園の防空壕に避難していました。
 夜、真っ赤な空に数多くのB29の飛行機が数本の探照灯に照らされ乍ら、皇居方面に飛んでおり、焼夷弾がぱらぱらと落とされ、油が雨のように落ちていました。
 子どもにとってそれは見事な夢のような光景でした。そのうち、目前の草原に数発落ち、一瞬の静寂ののちパッと燃えあがりました。
 私は大急ぎで防空壕に戻り、「外が燃えている!」と連絡、大人たちは「ウソを言うな!」といいながら外を覗見やってビックリ、私は姉に引っ張られながら防空壕を飛び出して裏門から出て、防火用水の水を頭から浴びて、燃えている家の間を縫い乍ら明化小学校方面へ走り抜けました。
 千石(駕町)の白山ー京華通りの交差点あたりで防火用水の陰に身を潜めて夜明けを待ちました。
 周りは焼け野原になっていて崩れた木材が時々火の手を上げましたが、崩れるものは崩れて広々としていたのです。
そこに一機の戦闘機が登場! 私は「バンザイ!」と叫んで立ち上がり両手をあげたところ、姉が「伏せろ」と叫び、機銃掃射の弾が私の脇を通り抜けていきました。
 その後、3人で植物園脇(白山側)の自宅に戻ったところ、父と兄が焼け焼け落ちた屋根の瓦と燻っている木材を片付けていて、家族5人がここで一同に会しました。
 ここから記憶は飛んで8月15日の天皇の玉音放送当日になります。
                                          70代 男性

 この「ムクノキ」の数奇な経緯に関心がありすぎて、旧「蝸牛庵」の写真を撮るのを怠ってしまった!

 しばらく行くと、「伝通院」の大きな山門。

表参道から望む。

 徳川将軍家の菩提寺。
 慶長7年(1602年)8月に徳川家康の生母・於大の方が京都伏見城で死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の智香寺(智光寺)で火葬した。位牌は安楽寺(愛知県蒲郡市)に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町→野田市)など各地に菩提寺を建立した。慶長8年(1603年)に家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して堂宇(堂の建物)を建て、彼女の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。
 寺は江戸幕府から寺領約600石を与えられて、多くの堂塔や学寮を有して威容を誇り、最高位紫衣を認められ、増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所次席となった。増上寺・上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称された。境内には徳川氏ゆかりの女性や子供(男児)が多く埋葬されており、将軍家の帰依が厚かったとされている。元和9年に830石に加増された。また慶長18年(1613年)には増上寺から学僧300人が移されて、関東十八檀林の上席に指定され、檀林(仏教学問所)として多いときには1000人もの学僧が修行していたといわれている。正保4年(1647年)に三代将軍家光の次男亀松が葬られてからは、さらに幕府の加護を受けて伽藍などが増築されていった。享保6年(1721年)と享保10年(1725年)の2度も大火に遭っている。伝通院の威容は、『江戸名所図会』、『無量山境内大絵図』、『東都小石川絵図』の安政4年(1857年)改訂版でも知ることができる。高台の風光明媚な地であったため、富士山・江戸湾・江戸川なども眺望できたという。
 幕末の文久3年(1863年)2月4日、新撰組の前身となる浪士組が山内の塔頭処静院(しょじょういん)で結成され、山岡鉄舟・清河八郎を中心に近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨ら250人が集まった。当時の処静院住職・琳瑞は尊皇憂国の僧だったため、浪士隊結成の場に堂宇を貸したと思われるが、後に佐幕派の武士により暗殺され、処静院は廃された。 また伝通院は、彰義隊結成のきっかけの場ともなったという。
 明治維新によって江戸幕府・徳川将軍家は瓦解し、その庇護は完全に失われた。明治2年(1869年)に勅願寺となるが、当時の廃仏毀釈運動(仏教排斥運動)のために塔頭・別院の多くが独立して規模がかなり小さくなり、勅願寺の件も沙汰止みとなった。同じ浄土宗である信濃の善光寺とも交流があった関係で、塔頭の一つが善光寺の分院となり、以後は門前の坂が善光寺坂と呼ばれるようになっている。明治23年(1890年)に境内に移した浄土宗の学校を元に淑徳女学校(現在の淑徳SC中等部・高等部)を創立した。また、明治時代になって墓地が一般に開放されるようになると、庶民の墓も建てられるようになった。
 永井荷風は、明治12年(1879年)に伝通院の近くで生まれ、明治26年(1893年)までここで育った。その思い出は、随筆『伝通院』(明治42年頃)を生み出し、パリにノートルダムがあるように、小石川にも伝通院があると賞賛した。また、荷風は明治41年(1908年)に外遊先より帰国して数年ぶりに伝通院を訪れたが、その晩に本堂が焼失した(3度目の大火)ため、同随筆の中で「なんという不思議な縁であろう。本堂は其の日の夜、追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の中に、すっかり灰になってしまった」と記している。
 夏目漱石も若い頃にこの近くに下宿していたため、小説『こゝろ』で伝通院に言及している。幸田露伴一家は大正13年(1924年)に伝通院の近くに転居して、現在も子孫が住んでいる。
 昭和20年(1945年)5月25日のアメリカ軍による空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失した。昭和24年(1949年)に本堂を再建。現在の本堂は、昭和63年(1988年)に戦後2度目に再建されたものである。平成24年(2012年)3月には山門が再建された。
 敷地の隣に浪越徳治郎が創立した日本唯一の指圧の専門学校日本指圧専門学校がある縁で、寺の境内には浪越が寄贈した指塚がある。ほかにも境内には、書家・中村素堂の書による碑「如是我聞」がある。
(以上、「Wikipedia」より)

「日本指圧専門学校」。
 TVでおなじみだった浪越徳治郎の銅像。一世を風靡したキャッチフレーズ「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」も。

浪越徳治郎

 7歳のとき、北海道虻田郡留寿都村に移住。多発性関節リウマチの母の痛みを和らげたいという一心から揉んだり擦ったりするうち、指で押すことで痛みが和らぐことを発見する。後にこの技術を指圧と名づけ、多くの人にその技術を広めるため、1940年、東京市小石川区に指圧学校を設立した。
 マリリン・モンローが新婚旅行で来日した際に、胃痙攣(けいれん)で体調を崩したモンローに素手で触って指圧した唯一の日本人である。このことについて浪越は「そりゃあもう、とにかく綺麗な方でしたよ。いつもより三倍くらい時間をかけてしまいました」と後にテレビ番組の中で述懐している。
 他にも、モハメド・アリや吉田茂首相をはじめとした歴代の内閣総理大臣、A級戦犯を裁いた東京裁判のジョセフ・キーナン首席検事など、国内外の著名人を治療したことにより、日本はもとより全世界に指圧(SHIATSU)を普及させた。
 テレビドラマやバラエティ番組などにも数多く出演。特に「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(日本テレビ)では、当初、「アーッハッハ」という豪快な笑い声から「アッハー浪越」の名前で登場。後に、ジェットコースターに乗った際に普段の笑い声が消え、あまりにも怖がっていたためそのリアクションから「ジェット浪越」と命名され、一般人から発掘された福島出身の吉田十三(通称「エンペラー吉田」)とのコンビで知名度を上げた。「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」の決め台詞は、特に有名である。
 2000年9月25日午前3時7分に、肺炎のため東京都文京区の病院で家族に見守られて94歳で死去した。日刊スポーツによると、浪越は「100歳まで生きる」と遺言をしていたという。(以上、「Wikipedia」参照)


 山門前の広い通りを進み、再び「春日通り」を越えていきます。

幅広い緩やかな坂。

「安藤坂」。

 この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、1909年(明治42)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。
 坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。
 古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」ともよばれた。

文京区教育委員会   平成8年3月

「萩の舎跡」。牛坂。川口アパートメント。永井荷風生育の地。・・・(春日・小石川の坂。その2。)

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 「安藤坂」を南に下る途中に、「萩の舎」跡の碑がありました。


萩の舎跡

 塾主中島歌子(1844~1903)は、幼名を「とせ」といい、武蔵国入間郡森戸村(一説に江戸日本橋)で生まれた。夫である水戸藩士の林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、江戸にあった実家の旅人宿池田家にもどった。その後歌子は、桂園派の和歌を加藤千浪に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。
 御歌所寄人伊藤祐命(すけのぶ)、小出粲(つぶら)の援助で、おもに上、中流層の婦人を教え、門弟1000余人といわれた。歌集『萩のしづく』などがある。明治36年(1903)、歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。
 樋口一葉(1872~96)は、父の知人の紹介で14歳の時、萩の舎に入門した。明治23年(1892)18歳の時、内弟子となり萩の舎に寄宿したこともあった。 佐佐木信綱は、姉弟子の田辺竜子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の三人を萩の舎の三才媛と称した。一葉はここで歌作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。田辺竜子の『藪の鶯』の刊行に刺激されて、近世・近代の小説を読み、半井桃水(なからいとうすい)に師事して、処女作『闇桜』(明治25年)を発表して、小説家の道に進んだ。
 近くの牛天神北野神社(春日1-5-2)境内に中島歌子の歌碑がある。
      文京区教育委員会  平成23年3月

    
足下のはめ込み。                       「安藤坂」の反対側から。正面のビル付近か?

 そのまま南下すると、道路は大きく右にカーブしていきます。その先は、「神田川」へ。古くは坂下のあたりは入江でした。


 ただし、かつての「安藤坂」は左に直角に曲がってさらに右折して下がっていったようです。

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 ○が「北野神社」、中央の南北に通じる広い道が「安藤坂」。屈折している付近が「教育センター」あたり。

 「教育センター前」の信号を左に曲がると、北野神社(牛天神)。その北側にある坂が「牛坂」。
  

牛坂

 北野神社(牛天神)の北側の坂で、古くは潮見坂・蛎殻坂・鮫干坂など海に関連する坂名でも呼ばれていた。中世は、今の大曲(おおまがり)あたりまで入江であったと考えられる。
 牛坂とは、牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来となったといわれる。(牛石はもと牛坂下にあった)
 『江戸志』には、源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ、老松につないでなぎを待つ。その間、夢に菅中(菅原道真)が、牛に乗り衣冠を正して現われ、ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石これなりとある。と記されている。

  文京区教育委員会    平成14年3月 

 当時、小日向台地の崖下は海(東京湾)だったようです。

(「今昔マップ」より)青い○が北野神社。標高は21㍍で、後楽園付近は5㍍。現在の地図からも東京湾の入り江が深く入り込んでいたことが分かります。(緑色の部分が標高の低いところ。)

 坂の説明内容をもう少し詳しくふれると、

 源頼朝が1184年東征の際にここの入り江の松に船をつなぎ波風が静まるのを待つ間、夢に菅神(道真)が牛に乗って現れ二つの吉事があると告げた。武運満足の後は社を営むべしとあり、夢から覚めると牛の形をした石があった。その後、頼家が生まれ、平氏を西に追うことができ、ここに社殿を造営した、と。(「文京区」HPより。)

 けっこう急な坂になっています。南から上ってくる自転車の親子連れ、必死に声を掛けながらやって来ました。



板塀が続く家。

 再び「安藤坂」に戻って坂を上がって行きます。「区立三中前」の信号を左折します。この高台一帯は三井家・財閥の敷地でした。突き当たりを左に曲がり、すぐ右に曲がります。

「川口アパートメント」。

 この「アパートメント」こそ、知る人ぞ知る、劇作家、小説家の川口松太郎邸の広大な敷地を利用し、総工費7億円を費やして1964年(昭和39年・東京オリンピック開催の年)10月1日に開業した自宅兼デラックス賃貸及び分譲マンション。息子の川口浩が「川口アパートメント」の運営を行った。
 このアパートメント(今で言えばマンション)の入居者として、1960年代には栗原玲児、藤村有弘、水谷八重子・水谷良重親子、1970年代に差し掛かる頃には加賀まりこ、安井かずみ、また1972年(昭和47年)より千葉真一・野際陽子夫妻が住んだことで知られる。
 築50年。歴史と風格のある外観。公共住宅だったら取り壊され、今どきの高層建築物に建てかえられていそうな物件。ここは、そうできない地域だからこそ残っているのでしょうが。

 しばらく行くと、「永井荷風生育地」の碑。



 永井荷風(1879~1959)小説家、随筆家。本名壮吉。別号断腸亭主人など。
 作品には『あめりか物語』、『腕くらべ』、『墨東綺譚(ぼくとうきたん)』や『断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)』などがある。
荷風は、明治12年(1879)12月、すぐ左の細い道の左側20番25号あたり(旧金富町45番地)で生まれた。そして、明治26年飯田町に移るまで、約13年間住んだ。
(その間1年ほど麹町の官舎へ)
 明治19年には、黒田小学校(現区立五中の地)に入学し4年で卒業して旧竹早町の師範学校附属小学校に入った。
 狐』(明治42年作)という作品に、生家の思い出がつづられている。
 「旧幕の御家人ごけにんや旗本の空屋敷が其処此処そこここに売り物になっていたのをば、其の頃私の父は三軒ほど一まとめに買ひ占め、古びた庭園の木立をそのままに広い邸宅を新築した。・・・・・・」
 小石川は、荷風の生まれ育った地で愛着が深く、明治41年に外国から帰ってくると、このあたりを訪ねて『伝通院』を書いた。
「私の幼い時の幸福なる記憶も此の伝通院の古刹を中心として、常に其の周囲を離れぬのである・・・・・」とある。

     文京区教育委員会   平成5年3月

「永井荷風生育地跡」付近。


 「本田労働会館=本田技研労働組合の会館」前を通っていくと、突き当たりが坂道になります。

  

金剛寺坂

 江戸時代、この坂の西側、金富小学校寄りに金剛寺という禅寺があった。 
 この寺のわきにある坂道なので、この名がついた。小石川台地から、神田上水が流れていた水道通り(巻石通り)に下る坂の一つである。
 この坂の東寄り(現・春日2-20-25あたり)で、明治12年に生まれ、少年時代をすごした永井荷風は、当時の「黒田小学校」(現在の旧第五中学校のある所、昭和20年廃校)に、この坂を通ってかよっていた。
 荷風は、昭和16年ひさしぶりにこの坂を訪れ、むかしを懐しんでいる様子を日記に記している。

 東京都文京区教育委員会  平成元年 3月

 坂は南(神田川方向)に下って行きます。東京メトロ丸ノ内線を跨線橋で越えます。
 

 丸ノ内線は「後楽園」駅と茗荷谷駅の間は地上を通ります(四谷駅は地上ホーム、またお茶の水付近では神田川を鉄橋で)。地下鉄路線として何カ所か地上部分があります。

 ぶつかった道路は「水道通り(巻石通り)」。旧神田上水路跡の道です。
  

「神田上水路」。

 この道はすでに探索し、紹介済みです(2013・10・3、4)。どうして「巻石通り」と名づけられたのかにも、ふれてあります。

 今度は、水道通り(巻石通り)から「小日向台地」上へ向かって坂道を上ります。

今井坂(新坂)。三百坂。千川通り。吹上坂。播磨坂。・・・(春日・小石川の坂。その3。)

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 金富小学校の脇の坂を上って行きます。
  

今井坂(新坂)

『改撰江戸志』には、「新坂は金剛寺の西なり、案(あんずる)に此坂は新に開けし坂なればとてかかるなあるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(1711~16)開けしと、」とある。新坂の名のおこりである。
 今井坂の名のおこりは、『続江戸砂子』に、「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった。」とある。
 この坂の上、西側一帯は、現在「国際仏教大学院大学」になっている。ここは徳川最後の将軍、慶喜が明治34年(1901)以後住んだところである。慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近い、この地を愛した。慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年(1913)に没した。現在、その面影を残すものは、入り口に繁る大公孫樹のみである。
 この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶ深くなりたり(釈 迢空)
                (この町とは旧金富町をさす)
   文京区教育委員会   平成13年3月

上部付近から坂下を望む。

 左手の「国際仏教大学院大学」北東のはずれのところに、
「徳川慶喜終焉の地」碑。

 徳川幕府最後の将軍 徳川慶喜は、水戸徳川藩主斉昭(なりあき)の七男として、天保8年(1837)小石川の上屋敷(現在の小石川後楽園一帯)で生まれた。
 その後、御三卿の一橋家の家督を継ぎ、ついで、幕末の動乱の中、長州攻めの陣中で没した第14代将軍家茂(いえもち)のあとを継ぎ、慶応2年(1866)第15代将軍となった。
翌、慶応3年大政奉還し、鳥羽伏見の戦いの後、天皇に恭順(きょうじゅん)の意を表して水で謹慎、明治維新後、駿府(すんぷ)(静岡)に隠棲(いんせい)した。明治30年(1897)東京の巣鴨、さらに明治34年誕生地である旧水戸屋敷に近いこの地に移った。
 慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没した。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。

文京区教育委員会  平成19年3月


 再び丸ノ内線を越えます。

 長くて急な坂。

 そのまま道なりに進み、「春日通り」を渡り、「小石川郵便局」の脇抜け、「東京学芸大学附属竹早小・中学校」を回り込むように進むと、「三百坂」に。都立竹早高校の脇に続く坂道。
  


三百坂(三貊坂)

 『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では、新しく召抱えた「徒(かち)の者」を屋敷のしきたりで、早く、しかも正確に、役立つ者かどうかをためすのにこの坂を利用したという。
 主君が登城のとき、玄関で目見えさせ、後衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから、家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え、余人もこの坂名を通称とするようになった。

     文京区教育委員会   昭和55年1月

竹早高校方向を望む。
 
 何だか実にユニークな試みです。今なら社員いじめ(パワハラ)になりそう。有無を言わせぬ制度だった。 

 そのまま下って行くと、「千川通り」。下の地図では、「小石川」となっている。


 上部東西に走っている水色の線が千川(小石川)で、絵図の右側で下に曲がって水戸屋敷を横切り神田川に合流しています。
 最上部中央緑色が「小石川御菜園」現・小石川植物園です。その南に新福寺、小石川を挟んで松平播磨守屋敷(現・播磨坂)があります。傳通院が右側の大きな面積を占めています。(1857年「東都小石川絵図」人文社)

 以上、「ginjo.fc2web.com/193usihome/koisikawa_map.htm」より引用させてもらいました。

「小石川植物園」付近の1880年(明治13年)頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓が「千川(小石川)。

 「千川」と「千川上水」とはべつのもの。ただし、「千川上水」の長崎村分水が現在の有楽町線「千川」駅付近から樋で落とされて「谷端川」に流れていました。

 「千川上水」(人工の川)

 元禄9年(1696年)、玉川上水を現在の西東京、武蔵野両市境で分水したものです。北の石神井川と南の妙正寺川の分水界上をぬって練馬から板橋を抜け、巣鴨までを開渠(素掘り)とし、それから先を木樋(木管=土中埋設)で江戸までつないでいます。
 「千川上水」は、はじめ小石川白山御殿、湯島聖堂、上野寛永寺および浅草寺への給水を主な目的とし、その周辺の武家屋敷や町家への飲料水にも利用されていました。宝永4年(1707年)には川沿いの村々から出された灌漑用水への利用願いが許可され、多磨郡6か村、豊島郡14か村に分水が引かれることになりました。
・・・(以上、「練馬区」のHPより)
 
 一方、「谷端川(やばたがわ)―千川―小石川」は、東京都豊島区および北区、文京区をかつて流れていた河川。

 豊島区千早と豊島区要町の境界付近にある粟島神社境内の弁天池が水源。
 千川上水の長崎村分水が現在の有楽町線千川駅付近から樋で落とされ、粟島神社の湧水先で谷端川に合わせて南流する。西武池袋線を椎名町駅西側で越えると流れは東に曲がって山手通りと交差し、一転して北に流れを変える。再び西武池袋線を越えて、山手通りの東側を道に並行するように北東に進む。現在の立教大学の西側、有楽町線要町駅の東側を北に向かって流れ、以降板橋区と豊島区の区界に沿って行く。
 東武東上線の手前で支流を交えると、東に転じて下板橋駅の際で東上線を越え、板橋駅の北側で赤羽線の線路を潜る。今度は北区と豊島区の区界に沿って東南へ流れ、山手線大塚駅の北側に出る。大塚駅の東側で山手線を潜った後、大塚三業通りを経て千川通りに沿って小石川植物園脇を流れる。文京区千石、小石川と流れ、現在の富坂下を横切り、旧水戸藩上屋敷(現・東京ドーム一帯)を通って、外堀通りの仙台橋の下(水道橋の西)で神田川に注ぐ。
 延長約11kmで、上流では武蔵野台地の河川としては珍しく南北方向の流れを持っていた。
 現在、川の全域が暗渠化され、豊島区北大塚3丁目付近から文京区小石川2丁目付近までの大部分のルートを都道436号線が通っている。この通りは東京都心・下町と東京西北部とを急坂もなく緩やかに連絡する重要な路線。
 もともと谷端川は粟島神社の弁天池などの湧水を集めて流れる細流であったが、千川上水の余水を流し込むようになってから水量が急激に増えた。それにともなって全流域で水田の開拓が行われ、水田耕地が増えた。千川上水の分水口は現在の地下鉄千川駅のところにあり、樋口(とよぐち)という名が残っている。
 豊島区、板橋区では谷端川と呼ばれ、文京区内では小石川(こいしかわ)または礫川(こいしかわ、れきせん)と呼ばれていた。小石川の語源については『江戸砂子』に、「小石多き小川幾筋もある故小石川と名づけし」とある。
 大正、昭和の時代になると、下流部は千川(せんかわ)と呼ばれることが多くなる。千川上水と小石川(谷端川)は別のものであるが、千川上水が廃止されてからその余水が流れ込む小石川のほうを千川と呼ぶようになったとする説がある。
(以上、「Wikipedia」参照)

 西に進むと、右手奥に「小石川植物園」の緑が見えてきます。

 「植物園前」交差点に掲示されている「小石川植物園の錦絵」。

  
 地域案内図。                          南北にあわせるとほぼこんな位置関係。 

 地図上にはないが、「千川通り」の南側にあるのが、「共同印刷」。ここは、徳永直「太陽のない街」のモデルになった会社。

 『太陽のない街』は『蟹工船』が発表された同じ昭和4年、同じ雑誌「戦旗」に発表された、プロレタリア文学の最高傑作。著者自らが体験した労働争議。その争議をめぐる、闘い、日和見、裏切り、挫折、希望などの人間模様は『蟹工船』を凌駕すると評されました。現代は「格差社会」といわれますが、当時はいま以上の「格差社会、階級社会」。しかもストライキはしばしば官憲の弾圧を伴いました。

 【あらすじ】 東京小石川にあった大印刷会社が労働組合を無力化するため、1926年、労働者をリストラしたことによって始まった、有名な大労働争議が題材となっている。会社と官憲に対し、当時の労働者たちはいかに闘ったのか。労働者たちの生活は困窮をきわめ、彼らが住む居住地区は「太陽のない街」と呼ばれた……。『太陽のない街』は海外でも翻訳され、また映画にもなりました(昭和29年)。いまはDVDがあります。

(以上、「Amazon」より引用) 

 この印刷工場は、北側の「小石川植物園」の高台、南の高台にはさまれた小石川の谷間にあった。地形的に状況的にも、まさに「太陽のない街」のイメージがあるところ。

 この交差点・「千川通り」から南は二つの坂に分かれます。「吹上坂」を上がり、「播磨坂」に回るというルート。

右奥が「播磨坂」、左手前が「吹上坂」。 

  

吹上坂

 このあたりをかって吹上村といった。この地名から名づけられたと思われる。
 吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり(改選江戸志)。なお、別名「禿(かむろ)坂」の禿は河童に通じ、都内六ヶ所あるが、いずれもかっては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。
 この坂も善仁寺前から宗慶寺・極楽水のそばへくだり、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田であり、しかも小石川が流れていた。
 この水田や川は、鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもそのおもかげを止めていた。
      雑然と鷺は群れつつおのがじし
            あなやるせなき姿なりけり  古泉千樫(1886~1927)

   文京区教育委員会  昭和61年3月

 緩やかで長い坂。

  

播磨坂

 この道路は、「春日通り」から「千川通り」を結ぶ全長460メートル、幅40メートルほどの区間。通称「播磨坂桜並木」「環三通り」「環状3号線」と呼ばれている。「播磨坂」の名は、この付近にかつて存在した松平播磨守の上屋敷にちなんだものである[8]。
 戦災復興都市計画として計画した、広幅道路と緑地帯を整備する構想が実現した数少ない箇所の一つ。なお、この区間は、東京都道319号環状三号線ではなく、文京区道(893号線)に指定されている。
 1960年(昭和35年)、当時の「全区を花でうずめる運動」の一環として、中央部とその両側の歩道にソメイヨシノなどおよそ120本の桜が植えられた。桜並木の周囲は幅の狭い中央分離帯になっていたが、交通量が少ないことから、1995年(平成7年)に遊歩道が新たに設けられ、坂の北東半分を和風のイメージとし、南西半分を洋風のイメージとして整備された。毎年3月下旬から4月上旬に開かれる「文京さくらまつり」の会場にもなっている。

 「環状三号線」については、「www.miwachiri.com › 東京発展裏話「東京発展裏話 #6東京放射環状道路網の夢 ~文京区小石川の環3通り~」HPに詳しく掲載されています。

 それによると、この「播磨坂」以外の文京区内を中心に事業凍結されて全線開通にはいたっていません。言問橋付近で水戸街道から分岐する「三つ目通り」が「環三」の一部だということを初めて知りました。「東京オリンピック」関連で事業計画が復活するとなると、沿線住民との間で一大騒動になるのは必至です。

地域住民の憩いのスペース。

 「小石川図書館」へ向かいます。途中、「石川啄木終焉の地」があるはずですが、該当するところが建設工事中なため、確認できませんでした。

  

団平坂(丹平坂・袖引坂)

「町内より東の方 松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候 右は先年門前地之内に団平と申者 舂米(つきまい)商売致住居仕罷(しまいつかまつりあり)候節より唱始候由申伝 年代等相知不申候」と『御府内備考』にある。
 団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。
 何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。
 この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって四か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。
  椽先(えんさき)にまくら出させて
  ひさしぶりに、
  ゆふべの空にしたしめるかな 
        石川啄木(直筆ノート最後から2首目)
 
文京区教育委員会   平成5年3月

 こうして小石川地区(丸ノ内線の北側)を探索しました。つるべ落としの秋の日。暮れなずむ茗荷谷の街を「茗荷谷」駅まで。
 次は、文京区の湯島地区です。

相生坂。昌平坂。樹木谷坂。傘谷坂。・・・(湯島の坂。その1。)

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 今回は、JR「お茶の水」駅で下車、「湯島」界隈を探索して、大江戸線「本郷三丁目」駅まで。13:50~15:50、 約2時間の行程。


相生坂

神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。
 「東京案内」に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある、そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。
 昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。
   これやこの孔子の聖堂あるからに
      幾日湯島にい往きけむはや   法月歌客

文京区教育委員会  昭和53年3月


斯文会・斯文会館。                   孔子像。世界一大きいらしい。

  
昌平坂

 湯島聖堂と、東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂を、ひとしく「昌平坂」と読んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。
 元禄7年(1694)9月、ここを訪ねた桂昌院(徳川五代将軍綱吉の生母)は、その時のことを次のような和歌に詠んだ。

   万代の秋もかぎらじ諸ともに
      もうでて祈る道ぞかしこし

   文京区教育委員会  平成18年3月


 「相生坂」を下り、「湯島聖堂」の角を左に曲がったところにある坂道。左側が湯島聖堂になる。そのまま進むと、

湯島坂(本郷通り=国道17号・中山道)。左側が「湯島聖堂」。

 坂の右手には神田明神への入り口がある。

「地域案内図」。

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 湯島聖堂の構内に文部省、国立博物館(現在の東京国立博物館及び国立科学博物館)、東京師範学校(東京教育大学を経た現在の筑波大学)及びその附属学校、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)及びその附属学校が一時同居していたころのようす。

  
「神田明神」門前のお店。「←旧中山道」の表示も。門前の湯島坂を指すか?

 しばらく西の方へ進みます。
  

 東京医科歯科大学北門付近、「本郷通り」を右に折れます。

  

樹木谷坂

地獄谷坂とも呼ばれている。この坂は、東京医科歯科大学の北側の裏門から、本郷通りを越えて、湯島1丁目7番の東横の路を北へ、新妻恋坂まで下る坂である、そして、新妻恋坂をはさんで、横見坂に対している。
 「御府内備考」には、「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。尭恵法印の「北国紀行」のなかに「文明19年(1487)正月の末、武蔵野の東の界・・・ならびに湯島といふ所あり。古松遥かにめぐりて、しめの内に武蔵野の遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず」とある。天神ゆかりの梅の花が咲く湯島神社の周辺のようすである。
 徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は、樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷の名が生まれた。
 地獄谷坂と呼ばれたのは、その音の訛りである。
 なお、湯島1丁目の地に、明治14年(1881)渡辺辰五郎氏(千葉県長南町出身)が近代的女子技術教育の理想をめざし、和洋裁縫伝習所を創設した。その後、伝習所は現東京家政大学へ発展した。

   文京区教育委員会   平成10年3月

 「蔵前橋通り(「新妻恋坂」)との角地にあるのが、「おりがみ会館」。

1858年(安政5年)
 初代・小林幸助 創業(現在地)
 襖師・表具師の腕を磨いた初代・幸助は、上野寛永寺の仕事などを手掛けた。和紙全般の加工技術を修得すると、新しく「染め紙業」として東京本郷の新しい土地(お花畑の由来から、新花町という)に工場(約150坪の土地に3階建て)を設けた。今の湯島1丁目である。落語家の故・桂文楽師匠も17歳の頃、初代・幸助(大根畑の幸助)の使用人として「染め紙」職人として席を置いていた事は、彼の自叙伝『あべらかべっそん』(昭和32年・青蛙房刊)に記されている。
 「岩や絵の具」から「化学染料」による染色業開始。
 戦時の赤紙、レコード版の中心に貼られたラベル等を染色。

1885年(明治18年)
 文部省(学用品課)より折紙制作の依頼。
 森有礼(初代文部大臣・もりありのり)は、合理的教育制度として英米に留学した経験を活かして幼稚園の創始者フレーベル(ドイツ1782~1852)の教育要領(恩物の一つ・折り紙)を参考に、畳紙(折り紙)を教育に採用。

※フレーベル (1782~1852年 ドイツ生まれ)
ベスタロッチ(近代教育の父)に師事し、遊具を考案。1840年世界最初の幼稚園を誕生させた。
《フレーベル20の恩物の中より》
第11 刺紙   第15 貼紙   第19 豆細工  
第12 縫取   第16 織紙   第20 粘細工
第13 画き方  第17 組紙    
第14 せん紙  第18 畳紙

1919年(大正8年):折紙の折り方の本が出版される。
《教科書に掲載された色《》 
(紅、牡丹、ひわ、朽葉、藤、蒲、飴)
(以上、「」HP参照。)

 150年以上の歴史と伝統を持つ専門店でした。

  

 そのまま、「蔵前橋通り(「新妻恋坂)」を渡ると、「横見坂」。
  
                                 坂の上から望む。右手に富士が見えた、という。
   
横見坂(横根坂)

『御府内備考』に
「右坂は町内より湯島三組町え上り候坂にて、当町並本郷新町家持に御座候・・・・・・里俗に横根坂と相唱申候」とある。
 坂下の蔵前通りの新妻恋坂の一帯は、かって樹木谷といわれ、樹木が茂っていた、この谷から湯島台に上るこの坂の左手に富士山が眺められた。
 町の古老は、西横に富士山がよく見えて、この坂を登るとき、富士を横見するところから、誰いうとなく横見坂と名づけられたといっている。
 坂の西側一帯は、旧湯島新花町である。ここに明治30年頃、島崎藤村が住み、ここから信州小諸義塾の教師として移って行った。
 その作品『春』の中に、
 「湯島の家は俗に大根畠と称えるところに在った。・・・・・・大根畠は麹の香のする町で」とある。ローム層の台地は、麹室(こうじむろ)には最適で『文政書状』には、百数十軒の麹屋が数えられている。

  文京区教育委員会 昭和56年3月

 「蔵前橋通り」と「本郷通り」とが合流する付近で右折します。 

 
「傘谷坂」入口。

傘谷坂

 傘谷をはさんで、向き合う二つの坂をいう。改選江戸志という書物によると、傘谷は、金助町(旧町名)の北の方にあって、傘づくりの職人が多く住んでいた窪地である。それで傘谷、傘坂の名がついた。
 金助町に生まれた歌人・岡麓は、大正12年の大震災で家が焼け、その焼け跡で、
   “あさはかに 家居移しし 悔心(くいごころ)
               このやけあとに 立ちて嘆かゆ”
 とよんだ。

  文京区教育委員会   平成3年3月

 この坂の途中にあるのが、「日本サッカーミュージアム」。


 この通りを「サッカー通り」と呼んでいます。 

「日本サッカーミュージアム」

 日本サッカー協会が2002年FIFAワールドカップ日韓大会の開催を記念して2003年12月22日に開設した日本サッカー協会ビル(JFAハウス)に設けられたサッカーの展示施設。愛称は「11+(イレブンプラス)」、運営は公益財団法人日本サッカー協会。
 施設は地上1階、地下1階、地下2階の3フロアーから成り立っている。

《地上1階 「アッパースタンド」》
 2002年ワールドカップの試合の模様を大型映像装置「ヴァーチャルスタジアム」で再現する他、日本協会加盟各団体の関連情報を閲覧できる。また、かつて日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に所属していた横浜フリューゲルスのマスコット「とび丸」が展示されている。
《地下1階 「ロアースタンド」》
 2002年ワールドカップに関連した写真や資料の展示、Jリーググッズ(フラッグスタウン)販売店など。また日本サッカー殿堂の表彰者のモニュメントも設置されており、その先にあるレファレンスルームではサッカーに関する蔵書を閲覧(有料・要予約)することができる。
《地下2階 「ピッチ」有料ゾーン》
 日本サッカーがこれまでに経験した様々な歴史、あるいは2002年ワールドカップの関連資料などを展示している他、日本代表のロッカールームを再現したコーナーなどもある
 
 だそうです。時代遅れでほとんど興味・関心のない小生は素通り。館内から生き生きとした少年達がユニフォーム姿で出てきました。

南側の坂の途中から、北へ上る坂を望む。

 今回歩いた地域の1880年頃(明治13年)のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。



 現在の文京区と千代田区、台東区の区界付近となる地域で、探索は文京区内(右下が「千代田区」、右上が「台東区」)。          
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